第48話 その大樹は宇宙を孕む
水珠が崑崙を発ってから三日目、大仁の死から六日目の朝がきた。
すぐ隣の妹を起こさないように、彼女は慎重に寝台から降りた。
軽く伸びをしてから、まずは顔を洗うべく外に向かう。
水珠は結局、故郷を去れずにいた。
そうなった原因は枕元の籠の中で眠る白鼬にこそある。
妹を故郷まで送り届けたら、適当な理由をでっちあげて去るつもりでいたのに、彼女が、
『雪梅ちゃん、良かったですねえ。お嬢はしばらく、一緒にいられるそうですよ』
なんてことを出立の朝に言ったのだ。
雪梅だって、父と母を亡くしたばかりで、姉にまたどこかへ行かれてしまうのは、口にこそしなかったが不安であったに違いない。
とても喜んでいた。その顔を見たら、去るに去れない。
(絶対、わざと。もしかしたら、白銀君さまの差し金かもしれないけど)
善意であり、心配してのことなのはわかっているから、文句の言いようもない。
その白鼬は当初は同行しない予定だった。しかし雪梅が、
『心心は一緒じゃないの? もっとお話ししたいな』
と言うものだから、ついてきた。
村の人たちは、雪梅が無事であったことだけでなく、水珠の帰還も喜んでくれた。
父と母の亡骸は彼らによって、すでに丁重に葬ってくれていた。
ありがたいことだった。
仕事は順当に父の畑を引き継ぐことに収まった。
それとは別に、水珠には家屋や家財の修繕依頼が、小さいものから大きいものまで、舞い込んできている。
村に帰って来た日に、生家の屋根の穴を術で直したためだった。
そのおかげで、より受け入れられやすくなったと言えよう。
白鼬も家のことを術で手伝ってくれたり、里山でちょっとした採集などしてくれて、彼女は彼女なりに、ここでの生活を楽しんでくれているようだ。
子供たちの相手なんかもしてくれているらしい。
村人たちには、仙人の御使いということで、水珠より尊敬されている節さえある。
姉妹と一匹の一日は、朝食の後、墓地に足を運んで両親に手を合わせるところから始まる。
その帰り道、雪梅は問うた。
「おねえちゃんは、今日はどうする?」
水珠は、先ほどの白鼬の言葉を思い出しながら答える。
「畑に水撒きかなぁ。最近、こっち雨少ないんだね。他のとこからも頼まれちゃった」
「雨乞い!?」
「違う、違う。まあ、流石に独力じゃ無理だから、川から持ってくるつもりだけど」
「道士さまは凄いねぇ」
「雪梅は、洗濯をお願いね。あと布団も干しておいて」
「はいはーい。修理も行くの?」
「手が空いたらかな。雑草が気になるから、行かないかも」
「あたしもやるし、空くんじゃない? 心心は?」
「男衆から、狩りのお供に誘われてますよ。まっ、あたしにかかりゃ獲物も容易く見つけられますから、あとは、あいつらの腕次第ですねえ!」
ここでの暮らしは、驚くほど、平穏そのものだった。
まるで幼い頃のように。
だから、つい、いつまでも続くことを願ってしまう。
父と母、そしてなにより大仁に、申し訳なさを抱きながらも、願ってしまう。
「そう言えばさ、おねえちゃん。色々あって聞きそびれちゃってたけどさ」
「ん? なあに?」
「本当になかったの? 結ばれぬ恋!」
「もー……なにかと思えば。だから、あれは捏造だってば。ねえ、心心?」
「すみません、お嬢……。楽しそうに聞いてくれるものでしたから、つい、魔が差して」
「ねえ、雪梅は? そう言う貴女だって、もう恋の一つや二つしてるんじゃないの?」
「えー? あたしはー、まだだよー……」
「ほんとう? 心心、どう思う?」
「これは……なんかありますよ!」
「やっぱり?」
「ないない、ないってばー!」
◇
七日目の朝がきた。
千禧は、山の頂きに立って、その朝日に目を細める。
独覚が、その身を人外に変えて現れてから七日目。
今日この日は、彼自身の占いによれば、目的を完遂するのに良い日取りだった。
かつての友にして兄弟、青錫君の占いほどに信憑性はないが、少なくとも現状、その邪魔となる存在の気配はない。
彼がいるのは黄頂山といって、かつて首都の置かれていた辰州に聳える、神聖なる山である。
古来、この山では封禅が行われてきた。
天子の中でも、功徳ある者のみ執り行う資格のある、天地に即位の報告や天下泰平を感謝する儀式である。
また民間信仰も古くからあり、周辺には道教や仏教、五徳教などの宗教施設も少なくない。
山の頂きは平らに近く、石畳が広く敷かれている。
最後に封禅の成されたのはいつのことか。
苔むしており、今では灰色よりも緑色のほうが濃く地を覆っている。
祭壇なども風化が著しく、この国の行く末を暗示しているようだ。
もっとも、彼がこれから為すことに比べれば、国家の盛衰など砂粒ほどの些末事に過ぎない。
この無限の宇宙を内包するはずの大いなる存在に比べれば、星も、空も、山も、海も、動物も、植物も、人も、等しく塵のようなもの。
その悲痛なまでの叫びに比べれば、矮小なる生命の声など耳を傾けるに値しない。
「我、道を得たり」
千禧は、抱えていた壺を石畳に叩きつけた。
無論、堕ちた仙人の所有する壺が、ただの壺なわけがない。
砕け散った、それより出づるものは一体の赤黒き巨人だった。
ずんぐりむっくりとした赤ん坊のような体型をして頭のない異形である。
それは水珠たちが相見えたものより、何倍にも大きい。
山の平らな頂きを股にかけん程であり、両手を挙げれば容易に雲を掴めよう。
その叫びにも似た泣き声は、天地を揺るがした。
九年、だ。独覚は九年に渡り、各地で胎児を狩っては母なる樹の力でもって無頭の巨人に変えてきた。
そうして献上した数は、三百に近い。
水珠たちが解放できた魂は、たった十数人でしかないのだ。
千禧は三百近くもの異形を壺に詰め込んだ。
そこは飢えと渇きしかない世界だ。
赤子たちは当然、互いを喰い合うほか、生き延びる術はない。
なんて哀れな魂か。
あるがままに産まれることを許されず、望まぬ姿に変貌し、生き地獄を味わわされた。
彼らほどに、大いなる存在に共感する者はいないだろう。
天上天下に存在する、森羅万象の悲痛な叫びを聞きし誰よりも、きっと。
千禧は異形の胸の辺りまで飛翔して、懐から木の枝を取り出した。
黒々として捩じれている。
その先に茂る葉は、山羊の蹄めいた形をして、深い緑色の上の小さな白い斑点が、無数の目を思わせる。
「さあ、母なる大樹よ。産まれることのできなかった悲しみを癒し給え。その痛み、苦しみを癒し給え。それこそが人の、植物の、動物の、海の、山の、空の、星の――宇宙の切なる望み。全を形作る一の切なる願い。母なる大樹よ。貴女こそが、次なる原初の卵となるのです」
慟哭する巨人に向かって投げつけられた枝が、その赤黒き肌に突き刺さった。
すると枝葉は爆発的に成長して、たちまち巨人を飲み込む。
樹の巨人と化したそれが、天に向かって両手を挙げれば、無数の太い枝葉が手の先より次々に伸びて横に広がっていく。
山の上空を深緑色が支配するのに、さしたる時間はかからなかった。
その鬱蒼とした様は、なおも広がり続ける。風のように、どこまでも。
それは間もなく、この星を完全に覆い尽くすだろう。
その後には、月を、火星を、金星を、銀河を、空洞を……いずれは果てしない宇宙を孕んで、産まれるべきだったものを産むのだ。
偉大なる一個を産み落とすのだ。
千禧は巨大な樹人の成長を一定の充足感ある顔で眺める。
今頃は独覚たち――山への侵入を阻む結界の守りを任せていた者たちも、おのおの、好きに動き始めていることだろう。
しかし彼には、まだすべきことが残っていた。
「せずに済めば、それがなによりだが……」
その目端に黄金色の輝きが映った。
それは巨人の腹を突き抜け、風穴を開ける。
が、すぐに太い枝で塞がった。
すると今度は背中側から胸を貫いて、彼の目の前に姿を現す。
金色の光をまとったそれは、龍のような二本の角を持ち、雄大なたてがみを蓄えた馬めいた姿をしていた。
「やはり来たか、護国の神獣――麒麟!」
千禧は「疾!」と動きを止める術をかける。
神獣を相手に一瞬でも効けば御の字。
その隙に樹の枝が襲い掛かる。
すっかり包み込んだものの、金色の光と共に弾け飛ぶ。
麒麟がいななき、千禧を見定める。
彼に焦りはなかった。
「一撃で屠られたらどうしようなどと、一抹の不安を覚えていたのが馬鹿らしい」
容易い相手とは言えない。だが、障害にもならない。
樹の巨人、そして自分の持てる全てを費やせば、排除は可能だ。
相対してみて、そう確信した。
「大いなる意志の前には、神獣とて畜生に過ぎないな」




