第43話 たった一人の家族
「あっちですわ!」
「雪梅!」
大急ぎで山林に飛び込む、ふたりの道士。
人虎は、なにやら妖怪の類を襲っているところだった。
強靭な前足で獲物を抑えつけ、その首根っこに喰らいついていた。
雪梅にしては大きすぎる口の周りは、その妖怪の紫色の血でべっとり汚れている。
先ほどより毛の色艶が良くなっているように見えるのは気のせいではないだろう。
「ね、水珠。取りに行く暇なんてなかったでしょう?」
「雪梅! 聞こえる!? おねえちゃんだよ!」
食事の時間を邪魔されたことに、人虎は苛立ちを隠さない。
牙を剥き、唸り声をあげる。
澄泥が前に出て「疾!」と術を仕掛ける。
彼女の足元から、いくつかの土の塊が浮き上がり、人虎へと飛んでいく。
人虎が羽ばたく。
その鋭い目は、澄泥にまず狙いをつけた。
「わたくしが引き付けますわ!」
人虎が雄叫びと共に電撃を放つ。
澄泥は蝶の舞うが如く、ひらりと躱したなら、周りをうろちょろ。
時折、蹴りや術で気を引いた。
彼女が、出来るだけ雪梅を傷つけないように気遣っていることが、よくわかった。
(急がなくちゃ!)
水珠は意識を集中させる。
なんて猛々しい妖気だろう。
まるで暴れることこそ、己が生と言うようだった。
だとすれば、なぜ、村そのものは無事だったのか。
力を蓄えるため、村の人々を喰らおうとはしなかったのか。
(妖怪の、それも獣に近い妖怪の考えなんて、ないのかもしれない。でも、そこにわずかでも、雪梅の意識が影響したのだとしたら!)
まだ、そこにいることを天に願う。
花剣に願う、嵐のように渦巻く妖気、その獰猛なる魂の中に、あの子の優しい光を見つけさせて欲しいと。
「雪梅!」
その呼びかけに、一瞬、虎が水珠を見た。
駆ける水珠。
嫌な予感でもしたのか、人虎の腰が引けた。
そのことに気付いた澄泥が、
「逃がしませんわよ!」
術を行使して土塊の腕で虎の尾を握った。
水珠は黒き羽衣を揺蕩わせ、狙いを定める。
「わたしの、たった一人の家族を!」
双つの槍が人虎の体で交差する。
それだけに留まらず、返す刃が首を突く。
「雪梅を、返せえええっ!」
もう一度、揺蕩う槍は翻った。
なれど血は出ず、傷もつかず。
代わりの如くに黒き花びらが舞い上がり、宙に消えていく。
虎は白目を剥いて巨躯がゆっくり倒れていった。
そうして、その身が少しずつ、縮んでいく。
腕が縮み、足が縮み、翼は消えて、毛も抜け落ちていく。
残ったのは裸の少女が一人。
水珠は緊張の面持ちで、その身を検める。
傷は見当たらない。脈拍、正常。息もしている。
寝ているようにしか見えなかった。
忘れていた呼吸をようやく再開し、水珠はその場にへなへなと崩れ落ちた。
「よ、よかった……よかったよぉ……っ!」
「やりましたわね、水珠」
「ちゃ、澄にぃちゃん! あっ、ありがっ、うっ……うあぁんっ!」
安堵のあまり泣きじゃくる彼女の頭を、澄泥がそっと撫でる。
「良いってことですわ。花剣道士として……友達として当たり前のことをしただけですもの」
そうして、いくらか落ち着くのを待ってから、彼女は問うた。
「どうするんですの? これから」
あまり考えたくないことだった。
両親が健在なら、憑き物を払ったとして家に帰せば良かった。
(でも、今はもう、独り……)
不安はあるが、しかし、仕方のないことと割り切るほかない。
「……雪梅は、妖怪に攫われたのを助けたってことにすれば、きっと、村の皆が良くしてくれると思うから」
澄泥が怪訝な顔をした。
「村の皆が、って……貴女は? 一緒に暮らさないんですの?」
「それは……」
大恩に報いることもせず、なにをしているんだと、あまりにも自分勝手が過ぎると、流石に、自分に対する嫌気が許容できないものになりそうだ。
そんな心持ちでは、雪梅と暮らすなんて出来ない。
したくない。
やっぱり山奥で、ひっそり暮らすのがお似合いだ。
そんなこと、澄泥には言えないから、笑ってみせる。
「わたしは、これでも道士だったんだよ? 頼りないかもだけど、大丈夫だよ」
「……答えになっていませんわ」
澄泥は溜息をついて、
「崑崙に行きましょう」
「え?」
今更、どの面下げて、と思った。
すると彼女は続けて言った。
「妹さん、三指仙さまに診せたほうが良いと思いますわ。妖怪化の後遺症とか、心配でしょう?」
羽衣で包んだ妹を見れば、水珠は頷かずにはいられない。
「もう、返しきれないね、この恩は」
「返して欲しくて、やってるんじゃねえですわよ。貴女だって、そうでしょうに」
「それは……そうだけど」
「その気持ちがあるのなら良いと思いますわよ。お金の貸し借りじゃ、ねえんですから」




