表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
40/61

第40話 夢破れて

 逃げるように、水珠(スイジュ)崑崙(コンロン)を後にした。

 いや、まさしく逃げたのだ。


 大仁(ダーレン)を死なせてしまったことから。

 白銀君(ハクギンクン)石蜜(シーミー)心心(シンシン)の優しさから。

 父と母の記憶を治す方法を探すという、六年間で何一つ進展なく諦めた目標から。

 そして、返すべき大恩からも。


 なによりも逃げたかった、あのしゃがれた鳴き声は、今も耳の中で木霊し続けている。

 め゛え゛え゛。め゛え゛え゛。め゛え゛え゛。

 人間失格だと罵られているようだったが、なにも言い返せない。


 自分でも、そう思った。

 誰よりも、そう思っていた。


雪梅(シュエメイ)なら……逃げたりなんかしない……!)


 いっそ死んでしまいたい。

 あの日以来、こんなことを思うのは二回目だ。


 でも、それだけは出来ない。

 この命は雪梅に救われ、大仁と引き換えに生き長らえたものだから。


 水珠は故郷に向かって飛んでいた。

 姉でもなく、道士でもなく、人でもなくなった彼女には、そこしかなかった。


 なにも雪梅と暮らそうというわけではない。

 両親もいるし、そんな資格がないのはわかっている。


 ならば姉妹には戻れなくても同じ村で、なんて甘い考えもない。

 そんな幸福を得て良い身分ではない。


 ただ、故郷の山奥でひっそり生きよう。

 そう思っていた。


 もう人と交わる気はない。村も町も行かない。

 雪梅のことも、見にいかない。


 獣を狩って、草や実を採って、何者でもない日々を送ろう。

 姉でもなく、道士でもなく、人でもない日々を送ろう。


 死ねないなりに、誰にも裁かれないなりに、彼女の考える精一杯の罰だった。


 自活できなければ遅かれ早かれ勝手に死ねるだろうが、師の教育がそれを許すことはない。

 町でも、村でも、山奥でも、裸一貫で生きられる術を叩きこまれたこと、今は恨めしく思う。


 やがて、ぼんやりと故郷の姿が見えてきた。

 太陽は頂きを少し過ぎた頃だった。


 山に籠もる前に、せめて一目、愛する妹を見れやしないか。

 昼時だから難しいか、きっと外にいないから。


 そんなことを思いながら、近づいていき――一瞬、止まった。


「え?」

 生家の前に、妙に人だかりが出来ている。


 胸騒ぎがした。

 それは、誰か死んだ者のあるときに、しばしば見られる光景にそっくりだった。


 加速する。

 すすり泣く声や戸惑いの声が聞こえてくる。


 真上まで来て、水珠は息を飲んだ。

 人だかりは、なぜか家の前に敷かれた布団を見下ろしていた。

 二つの布団の上には、男と女が寝かされていた。


 その顔は白布で覆われている。

 男のほうは、胸の深い斬り傷が致命傷であること、明らかだった。

 女のほうは、首筋の荒々しい傷から、おびただしい量の血が流れている。


 水珠は、まさに落ちるように、ふたりの傍へと降り立った。

 突然の乱入者に村人たちがどよめく。

 そんなことは水珠の知ったことではなかった。


 彼女はうわ言めいて、

「違う……違うよね……」

 そう繰り返しながら打ち覆いを取っ払う。


 その狼藉に、村人たちが慌てて水珠を引き剥がしにかかるが、


「おっとう! おっかあ! なんで、なんでっ!」


 それが、かつて姿を消した娘と気付くと手を離した。

 崩れ落ちた水珠は、大地に拳を叩きつけ、慟哭する。


「あ、ああああっ! おっかあ! おっとう!」


 父にも母にも疎まれて、その別れは最悪だった。

 だけど、決して嫌いにはなれなかった。


 愛されたことも本当だったから。

 だから、できることなら、また家族に戻りたかった。

 みんなで笑って、また、ご飯を食べたかった。


 それは夢のまた夢。

 展望見られず、諦めた夢。


 けれど、消えたわけではなかった。

 夜にくらいは見られる夢のはずだった。

 父と母と妹と自分が、生きている限り。

 こんなにも早く、失われるなんて、十六歳の娘がどうして思うだろう。


「おっとう、おっかあ……なんでこんな……」


 水珠はハッと顔をあげる。


「雪梅!」

 あの子はどこだ。


 慌てて家の中に駆け込んだ。


 むわっと獣臭が鼻をつく。

 居間は食器が散乱しており、食事時だったことが窺える。

 屋根が一部崩れて、青空が見えていた。


 酷い有様なのは、そこくらいで、他の部屋は無事だった。

 そして、どこにも雪梅の姿はなかった。

 難を逃れて、今は誰かの家で預かられているに違いない。


 水珠は息を整え、いくらか冷静な目で改めて居間を見る。


 至るところに爪痕や血痕あり。

 下手人のものと思しき獣の毛は三種。壁に体を擦りつけた際に、ついたのだろう。

 黄色と黒色の毛、それから黒色の羽毛だ。


 水珠は毛を摘まんでみた。固い。きしきししている。

(あまり強くはないけど、妖気を感じる)


 羽毛のほうからも、同種のものを感じ取れた。

(……有翼の虎。たぶん、そんな感じの妖怪の仕業)


 野次馬から話を聞かなくては。

 見た者がいるはずだ。


 家から出た水珠は、最初に目についた村人の胸倉を掴んだ。


「なにがあった!? 答えろ!」


 恫喝めいた勢いで問い質す彼女を、人だかりから出てきて止めたのは、幼馴染の(ロン)だった。


「ほとんど、さっきのことなんだ。とんでもない叫び声が聞こえて、そしたら家の中から……なんて言ったらいいのか……化け物が飛び出てきたんだ」

「化け物は、どんなやつ? どこに行った?」

「つ、翼のある虎って……俺が見たわけじゃないけど、そう聞いた」


 人だかりから、真の目撃者らしき声があがる。

「あっちに飛んでいくのを見た!」


 その指差す方を見た水珠が足に力を込めた矢先に、幼馴染が続けて言った。


「それから……雪梅は、その……」


 水珠は頭の中が一瞬で真っ白になった。

 彼の顔は、無事を伝えるそれではなかった。


「誰か、預かってるんじゃないの!?」


 彼は申し訳なさそうに首を振り、

「わ、わからない。ふたりは、いたんだけど……だから、その……」


 食べられてしまったのではないか。


 そう言いたいのだろう。

 水珠もその光景が脳裏によぎった。


 頬を涙が伝う。けれど今度は、崩れ落ちなかった。

 四肢に力が入る。瞳が、黒く燃え上がる。


 今は、悲しみ、絶望しているときではない。

 そんなことは、後でいくらでも出来る。

 山奥で、独りで、ゆっくり味わえば良い。


 水珠は唸るような声で言った。

 周囲の者は誰も、それを彼女の発した声だとは思わなかった。


「――殺してやる」


 地の果てまで追いかけ、必ず殺す。

 いいや、殺すだけでは足らない。皮を剥ぎ、爪を剥ぎ、その血肉を腸に詰め込んで食わせてやる。


 慈悲など決して与えない。

 両親と妹を奪った者には、あらん限りの苦痛を与えてやらねばならない。

 夜に見るささやかな夢すら奪った者には、惨たらしい現実を味わわせてやらねばならない。


 言うや否や水珠が駆け出す。


 人だかりが悲鳴あげて自然と道を開ける。

 もしも触れようものなら自分こそ殺される。

 そう思わせる鬼気を彼女は放っていた。


 下手人は虎の化け物だと言う。

 なれど、たとえそうでなかったとしても――人間だったとしても水珠は同じだったろう。

 あの邪法師にすら、髪の毛一本ほどの更生の道を残した彼女は今、殺意の塊と化していた。


 山羊の鳴き声は、もう、聞こえなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ