第40話 夢破れて
逃げるように、水珠は崑崙を後にした。
いや、まさしく逃げたのだ。
大仁を死なせてしまったことから。
白銀君や石蜜、心心の優しさから。
父と母の記憶を治す方法を探すという、六年間で何一つ進展なく諦めた目標から。
そして、返すべき大恩からも。
なによりも逃げたかった、あのしゃがれた鳴き声は、今も耳の中で木霊し続けている。
め゛え゛え゛。め゛え゛え゛。め゛え゛え゛。
人間失格だと罵られているようだったが、なにも言い返せない。
自分でも、そう思った。
誰よりも、そう思っていた。
(雪梅なら……逃げたりなんかしない……!)
いっそ死んでしまいたい。
あの日以来、こんなことを思うのは二回目だ。
でも、それだけは出来ない。
この命は雪梅に救われ、大仁と引き換えに生き長らえたものだから。
水珠は故郷に向かって飛んでいた。
姉でもなく、道士でもなく、人でもなくなった彼女には、そこしかなかった。
なにも雪梅と暮らそうというわけではない。
両親もいるし、そんな資格がないのはわかっている。
ならば姉妹には戻れなくても同じ村で、なんて甘い考えもない。
そんな幸福を得て良い身分ではない。
ただ、故郷の山奥でひっそり生きよう。
そう思っていた。
もう人と交わる気はない。村も町も行かない。
雪梅のことも、見にいかない。
獣を狩って、草や実を採って、何者でもない日々を送ろう。
姉でもなく、道士でもなく、人でもない日々を送ろう。
死ねないなりに、誰にも裁かれないなりに、彼女の考える精一杯の罰だった。
自活できなければ遅かれ早かれ勝手に死ねるだろうが、師の教育がそれを許すことはない。
町でも、村でも、山奥でも、裸一貫で生きられる術を叩きこまれたこと、今は恨めしく思う。
やがて、ぼんやりと故郷の姿が見えてきた。
太陽は頂きを少し過ぎた頃だった。
山に籠もる前に、せめて一目、愛する妹を見れやしないか。
昼時だから難しいか、きっと外にいないから。
そんなことを思いながら、近づいていき――一瞬、止まった。
「え?」
生家の前に、妙に人だかりが出来ている。
胸騒ぎがした。
それは、誰か死んだ者のあるときに、しばしば見られる光景にそっくりだった。
加速する。
すすり泣く声や戸惑いの声が聞こえてくる。
真上まで来て、水珠は息を飲んだ。
人だかりは、なぜか家の前に敷かれた布団を見下ろしていた。
二つの布団の上には、男と女が寝かされていた。
その顔は白布で覆われている。
男のほうは、胸の深い斬り傷が致命傷であること、明らかだった。
女のほうは、首筋の荒々しい傷から、おびただしい量の血が流れている。
水珠は、まさに落ちるように、ふたりの傍へと降り立った。
突然の乱入者に村人たちがどよめく。
そんなことは水珠の知ったことではなかった。
彼女はうわ言めいて、
「違う……違うよね……」
そう繰り返しながら打ち覆いを取っ払う。
その狼藉に、村人たちが慌てて水珠を引き剥がしにかかるが、
「おっとう! おっかあ! なんで、なんでっ!」
それが、かつて姿を消した娘と気付くと手を離した。
崩れ落ちた水珠は、大地に拳を叩きつけ、慟哭する。
「あ、ああああっ! おっかあ! おっとう!」
父にも母にも疎まれて、その別れは最悪だった。
だけど、決して嫌いにはなれなかった。
愛されたことも本当だったから。
だから、できることなら、また家族に戻りたかった。
みんなで笑って、また、ご飯を食べたかった。
それは夢のまた夢。
展望見られず、諦めた夢。
けれど、消えたわけではなかった。
夜にくらいは見られる夢のはずだった。
父と母と妹と自分が、生きている限り。
こんなにも早く、失われるなんて、十六歳の娘がどうして思うだろう。
「おっとう、おっかあ……なんでこんな……」
水珠はハッと顔をあげる。
「雪梅!」
あの子はどこだ。
慌てて家の中に駆け込んだ。
むわっと獣臭が鼻をつく。
居間は食器が散乱しており、食事時だったことが窺える。
屋根が一部崩れて、青空が見えていた。
酷い有様なのは、そこくらいで、他の部屋は無事だった。
そして、どこにも雪梅の姿はなかった。
難を逃れて、今は誰かの家で預かられているに違いない。
水珠は息を整え、いくらか冷静な目で改めて居間を見る。
至るところに爪痕や血痕あり。
下手人のものと思しき獣の毛は三種。壁に体を擦りつけた際に、ついたのだろう。
黄色と黒色の毛、それから黒色の羽毛だ。
水珠は毛を摘まんでみた。固い。きしきししている。
(あまり強くはないけど、妖気を感じる)
羽毛のほうからも、同種のものを感じ取れた。
(……有翼の虎。たぶん、そんな感じの妖怪の仕業)
野次馬から話を聞かなくては。
見た者がいるはずだ。
家から出た水珠は、最初に目についた村人の胸倉を掴んだ。
「なにがあった!? 答えろ!」
恫喝めいた勢いで問い質す彼女を、人だかりから出てきて止めたのは、幼馴染の隆だった。
「ほとんど、さっきのことなんだ。とんでもない叫び声が聞こえて、そしたら家の中から……なんて言ったらいいのか……化け物が飛び出てきたんだ」
「化け物は、どんなやつ? どこに行った?」
「つ、翼のある虎って……俺が見たわけじゃないけど、そう聞いた」
人だかりから、真の目撃者らしき声があがる。
「あっちに飛んでいくのを見た!」
その指差す方を見た水珠が足に力を込めた矢先に、幼馴染が続けて言った。
「それから……雪梅は、その……」
水珠は頭の中が一瞬で真っ白になった。
彼の顔は、無事を伝えるそれではなかった。
「誰か、預かってるんじゃないの!?」
彼は申し訳なさそうに首を振り、
「わ、わからない。ふたりは、いたんだけど……だから、その……」
食べられてしまったのではないか。
そう言いたいのだろう。
水珠もその光景が脳裏によぎった。
頬を涙が伝う。けれど今度は、崩れ落ちなかった。
四肢に力が入る。瞳が、黒く燃え上がる。
今は、悲しみ、絶望しているときではない。
そんなことは、後でいくらでも出来る。
山奥で、独りで、ゆっくり味わえば良い。
水珠は唸るような声で言った。
周囲の者は誰も、それを彼女の発した声だとは思わなかった。
「――殺してやる」
地の果てまで追いかけ、必ず殺す。
いいや、殺すだけでは足らない。皮を剥ぎ、爪を剥ぎ、その血肉を腸に詰め込んで食わせてやる。
慈悲など決して与えない。
両親と妹を奪った者には、あらん限りの苦痛を与えてやらねばならない。
夜に見るささやかな夢すら奪った者には、惨たらしい現実を味わわせてやらねばならない。
言うや否や水珠が駆け出す。
人だかりが悲鳴あげて自然と道を開ける。
もしも触れようものなら自分こそ殺される。
そう思わせる鬼気を彼女は放っていた。
下手人は虎の化け物だと言う。
なれど、たとえそうでなかったとしても――人間だったとしても水珠は同じだったろう。
あの邪法師にすら、髪の毛一本ほどの更生の道を残した彼女は今、殺意の塊と化していた。
山羊の鳴き声は、もう、聞こえなかった。




