第39話 廃寺にて
水珠の故郷、朝霞村から程遠くない森の中に、その廃寺はある。
六年で劣化が大いに進み、今にも崩れそうなくらいだ。
すっかり名前も忘れ去られたその存在を知る者は、たったふたりだけ。
そして今や、そこを訪れるのは、たったひとりだけだった。
雪梅の知る限りでは。
朝日が昇り始めた頃、雪梅は廃寺にやって来た。
姉の失踪以来、暇を見つけては来るようになった。
ふと空を仰ぐ。
今日は暑くなりそうだと思った。
あの日、仙人を名乗る男と共に姿を消した姉が、いずれ、天から舞い降りてくるのではないか。
そして不思議な話をたくさんしてくれる。仙術とかも見せてくれる。
彼女は、そう信じて疑わなかった。
(だっておねえちゃんは、あたしのこと大好きだもんね!)
修行が終わるなり、一段落するなりしたら、真っ先に会いに来るに決まっている。
でも、まだ来ない。
「大変なんだろうなぁ、修行」
姉は、すごい人だ。仙人いわく、自分を助け、村の危機まで救ったのだ。
それが六年も音沙汰がないということは、そういうことに違いない。
だから、この寺で、過酷な修行の達成と、姉の無事を祈る。
仏なんかいなさそうだけれど、ここでなら姉まで届くような気がしていた。
ふたりにとって、とても思い出深い場所だから。
雪梅は合掌を解き、にわかに目を潤ませた。
姉を思うたび、胸は寂しさでいっぱいだ。
村を襲った病、というか靄のせいで記憶を一部失ったらしい両親は元より、六年で、村の人たちもすっかり、姉の名を口にしなくなってしまった。
姉の幼馴染たちと、最後に姉の話をしたのは、二年前になるだろうか。
無理もないことではあるけれど……。
「早く帰って来てよ、お姉ちゃん」
ぽつりと呟き、袖で目を拭う。
それから、暗い気持ちを追い出すように、息を吐いた。
「よし、帰ろーっと! 朝ご飯、朝ご飯!」
雪梅は努めて元気な声を出し、跳ぶように階段へ向かっていった。
階段の中ほどで、下からあがってくる人に気が付いた。
(あれー? こんなところに誰だろう?)
最初は村の誰かかとも思ったが、違った。
見たことがない。旅の人らしい。背嚢を背負っている。
顔の皺深く、相応の老人のようだが、ひっつめ髪も、長い顎髭も黒々としていた。
すれ違うとき、彼に問われた。
「この先にあるのは、慈照寺で合っていますかな?」
「すみません、名前はわからないんです。すっごいボロで、もう誰も管理してないんですよう」
「おや、そうでしたか。……では、お嬢さんはなにをしに?」
「ただの散歩でーす!」
「はは。元気でよろしいですな」
「お爺さんは?」
「儂はこう見えて、絵描きでしてなぁ」
やっぱり、と雪梅は彼の指をちらと見た。
その十の指先は墨で汚れている。ならば詩画書に携わる者だろう、と。
「絵を売りつつ、画題を探す旅の途中なのです」
「へー!」
どんな絵だろうと思ったが、遅くなると両親が心配する。
ちょっぴり後ろ髪を引かれながら、
「そういうことなら、ボロっちぃけど、趣はあるかもしれませんよ!」
と階段を下りていった。
老人は「どうもありがとう」と、上がっていく。
境内に足を踏み入れ、彼は顎髭を撫でた。
思っていた以上のボロさ加減に閉口せずにはいられなかった。
次の嵐か地震で終わりだろう。
「……さてはて」
気を取り直して本堂の裏へと向かう。
目当てのものは、果たして、そこにあった。
石である。膝丈ほどの高さに、両手で掴みきれない太さ。
恐らく楕円形だろう。と言うのも、半分か、それ以上が埋まっているため、全容が定かではないからだ。
楕円形だとすれば、その尖がったほうが地面から飛び出した状態だ。
なにか刻まれていた跡がある。
辛うじて、最初の一字が『封』であると読み取れるだろうか。
その下の二字がなにか、老人は知っていた。
ある妖怪伝説の通りならば、獰嵐と刻まれていたはずだ。
老人は試しに蹴ってみるが、当然、びくともしない。
次いで懐から一冊の書を取り出した。
ぺらぺらと頁をめくるたびに、様々な異形の図が見え隠れする。
彼の手が、ある頁で止まった。
そこに描かれる異形の名は、遒骨という。
名も無き怪物を、彼が蒐集に際してそう名付けた。
開いた頁を掲げる。
すると、絵が、ぬう、と実体を持って出てきた。
輪郭だけなら、鍬形蟲に近いだろう。
しかして、その背丈は人並み。
その脚は四本――否、その両脚と両腕は、膨れ上がった筋肉を持つ人のそれである。
胴体はぶよぶよとたるんだ肉が、幾重にも層を織り成している。
鍬形蟲の、いわゆる頭にあたる部分は虫のそれ同様、外骨格に覆われているが、色白く、まさに骨のよう。
鍬形蟲がそう呼ばれる所以となった巨大な顎には鋭い刃が鮫の歯の如く列を為して並んでいる。
横広な頭の左右に目玉がぎょろり。その瞳はいくつもあって、それぞれ別の方向を見ている。
また、口はその外骨格と胴体との境目に人のそれより大きなものが、舌と涎を垂らしている。その隅には墨の跡が一筋あった。
老人が、絵より具現化させた怪物に命じる。
「その石を引っこ抜け」
肉と骨の鍬形蟲が触れると一瞬、紫電がパチパチッと瞬く。
しかし、異形の手を止めるほどのものではなかった。
老人は石の抜けた跡の、ぽっかり開いた穴を覗き込む。
底は見えない。暗黒がどこまでも続いているようだった。
やがて彼は溜息をつくと、書に異形を引っ込める。
「封印ばかりか、獰嵐もまた、長い年月で摩耗してしまったか」
そうして彼は町に戻っていった。
もうしばらく滞在していれば、見ることが叶っただろうに。
穴の底より這い出た幽かなる魂が、妖しくて猛々しい、翼ある虎の姿を蘇らせる様を。




