第38話 さようなら崑崙
「め゛え゛ぇえ゛え゛え゛っ!」
鼓膜を叩く山羊の鳴き声で、水珠は悲鳴をあげながら飛び起きた。
布団を蹴飛ばし、部屋の隅まで逃げながら、杏の花を剣に変じる。
背筋を流れる冷たい汗を感じながら、辺りに視線を巡らせた。
見慣れた部屋だ。崑崙に来たときに与えられ、六年を過ごした部屋だ。
当然、あの異形――山羊樹人の姿はない。
水珠はへたり込んで肩を抱き、嗚咽を漏らす。
「ごめん……大仁くん……ごめんなさい……!」
彼が死んでから、まだ三日しか経っていない。
水珠は、ほとんど部屋から出ないでいた。
あのとき、どうすべきだったのか。ずっと考えている。
目の下には隈がある。たまに眠れても悪夢を見てしまう。
今も二時間、寝てたかどうか。朝はまだ遠かった。
何度も何度も何度も何度も、大仁の優しい顔が山羊のそれに変わる。
あの絶望的な光景が、目に焼き付いて消えてくれない。
そいつは嘲るように目を細めて、しゃがれた声で鳴くのだ。
め゛え゛、め゛え゛、め゛え゛、と。
あの悍ましき鳴き声が、ずうっと耳で反響し続けている。
起きているときでさえ、聞こえる気がする。
め゛え゛。め゛え゛。め゛え゛。
お前が殺したのだと、嘲笑っている気がする。
め゛え゛。め゛え゛。め゛え゛。
水珠の震えが止まるまで、もうしばらくの時が必要だった。
その様子を白鼬は、籠の中の寝床から、心配そうに見守ることしか、できなかった。
◇
朝と昼の間。水珠は意を決して、白銀君の部屋を訪れた。
呼びかけようと息を吸ったところで、彼が顔を出した。
「水珠、どうかしましたか」
「白銀君さまは、どこかへお出かけですか?」
「ええ、まあ……いえ、急ぎでは、ありませんので」
泣き腫らした顔の弟子を前にすれば、事実はどうあれ、そう言うというもの。
「白銀君さま、少し、お話ししたいことがあります。お時間をいただけますか」
「もちろんです。さあ、中へ。お茶を用意させましょうか」
「いえ、すぐに済みますから」
水珠は椅子に腰掛け、師を見る。
こうして顔を合わせるのは、久しぶりな気がした。
手に握っていた杏花を卓に置いて、白銀君へと差し出す。
「わたしに、花剣道士たる資格はありません」
「そんなことは」
「白銀君さまも、ご承知のはずです。わたしだけが、未だ花剣の香を放つ段階に、ありません。出立の前、それでも他の部分で補うことが出来ると仰ってくださいました。花剣はあくまで、これまでに身につけたものの一つに過ぎず、全てではない、と。それに旅の中で目覚めるかも、とも」
その言葉は間違いなく、彼女を勇気づけた。
白銀君が言うのなら、そうに違いない、と。
「でも!」
また涙が溢れてしまう。
「大仁くんは、わたしのせいで!」
自分が未熟だったから。
そんな自分を庇って彼は死に、異形にまでなってしまった。
「水珠、自分を責めてはいけません」
それが、なんの慰めになるだろう。
事実は変わらないのだ。
「一緒だったのが澄泥ちゃんだったら! 壮さんだったら! こんなことにはならなかった!」
「水珠、そんな風に考えるものでは」
思わず彼女は顔をあげた。
この期に及んで、なにを言うのかと、涙ながらに睨んだ。
「だって、そうじゃないですか!」
あのふたりは、立派な花剣道士だ。香を引き出している。
自分と、彼女たち、どちらと一緒なら万全であったか、明らかではないか。
「夢を見るんです、大仁くんが、山羊になる夢を! 鳴き声が、聞こえるんです!」
「水珠……」
荒れた息を少しだけ整え、絞り出すように彼女は続けた。
「危険なことは、わかってました。怪我も、死も、覚悟の上です」
雪梅を助けてもらった恩に報いるためなら、そんなの、へっちゃらだ。
「だけど……」
目の前で。
自分のせいで。
大切な仲間が死ぬことなんて、考えたこともなかった。
それが、雪梅を失うのと同じくらい、辛いことだなんて、思わなかった。
また、ぽろぽろと涙が溢れる。
「わたしなら良かった……!」
そっちのほうが絶対に良かった。未熟な自分よりも、彼のほうが。
恋人もいる彼のほうが、生きているべきだった。
「死ぬべきは、わたしだったのに!」
「水珠!」
それは初めて聞く、師の怒声だった。
一度は立ち上がった白銀君だったが、静かに腰を下ろして、首を横に振る。
そして、途切れ途切れに言った。
「水珠、お願いですから、そんなことは、言わないでください」
顔でも声でも、彼がここまで感情を露わにしたことはない。
流石に水珠も、このときばかりは申し訳なさのほうが上回った。
「……ごめん、なさい」
「貴女は、私の、自慢の弟子です。強く、優しく、多くを助けた。報告を聞くたび、誇らしい気持ちでした」
白銀君は深く息を吐くと、いつもの調子に戻った。
「すぐには受け入れられないのは、わかります。だから何度でも言います。貴女に責任はありません。あるとすれば、私たちのほうです」
「そんなことは!」
「私たちのせいです。私は貴女に恩を着せ、この危険を伴う世界に引きずり込んでしまった。他の仙人もそうです。各々、わかっていながら……だから、全ての責任は私たちにあるのです」
深々と頭を下げる。それはとうてい、師が弟子にする格好ではない。
なにより、大恩人のそんな姿は見たくなかった。
「は、白銀君さま! どうか、お顔をあげてください」
彼はそうすると、水珠を優しく見つめて、言った。
「しばらく休んで……少しずつ、仙術の研究に集中すると良いでしょう。もちろん、私も引き続き、協力しますから」
「……すみません。今日はもう、失礼します」
水珠は目元を拭い、花剣を置いて部屋を出る。
廊下を歩いていると、また涙が流れてきた。己の不甲斐なさに腹が立つ。
自慢の弟子と言われても、それで白銀君から受けた恩に、どれだけ報いられたものか。
大仁に救われたこの命だというのに、彼のために出来たことなど、恋人にその最期を語ったことくらいだ。
石蜜とは、帰還の翌日に会った。
責められると思った。殴られるとも思った。
怒りや憎しみをぶつけられると思った。
そうであったら、いくらか楽になれたろう。
そういう卑しい気持ちがなかったとは言えない。
だが石蜜は、深々と頭を下げて、
『ありがとうございます』
と。
『彼の最期を、教えてくれて。貴女も辛いはずなのに』
再び面を挙げたとき、その目には涙が浮かんでいたけれど、決して流れることはなかった。
なんて立派な女性だろう。
だから本心から、思ったのだ。
あのとき、自分こそ、死ぬべきだった。
なのに、どうして生きているのだろう。
水玉から産まれた、普通じゃないようで、普通の、人間のようで、人間でない、人を助けられるようで、人に助けられる、半端者がなぜ、未だに生きているのだろう。
どうして、みんな、優しくしてくれるのだろう。
「そんな価値……わたしにはないのに……」
覚束ない足取りで自室に戻った水珠の足元に、白鼬が駆け寄ってくる。
心配そうな目で見上げ、
「お嬢。その……少し散歩でもしませんか?」
窺うように話し始めたかと思えば、急に元気な声になった。
「崑崙! 崑崙観光でも、しましょうよ! そうだ、あたしの故郷に行くのは!?」
水珠は喉が詰まるような思いだった。
今は、優しくされれば、されるほど、辛かった。
「……ごめんね、心心。まだ、そんな気になれないや」
「そう、ですか……そうですよね……すみません」
「ううん、心心は悪くないよ。ごめんね」
次に掛けるべき言葉を探しているらしい彼女に、水珠は戸を開けて言った。
「ちょっとだけ、一人にしてくれる?」
「……わかりました」
「ごめんね」
「謝らないでくださいよ。ねえ、お嬢。謝らないでください。お願い、ですから……」
「うん。……ごめん」
一人になったところで、水珠は道士服を脱いだ。
村娘らしい、地味な麻の服に着替え、筆を執る。
「白銀君さま……申し訳ございません……」
――大恩を返すことなく、崑崙を去ること、どうかお許しください。




