第37話 散花
しばしの沈黙の後、大仁が溜息混じりに言った。
「嫌な、事件だった」
「だね。……わたしたち、全然、助けられなかった」
白鼬が声をあげる。
「それは違いますよ、ふたりとも! これから被害に合う人たちを助けたんです!」
励ますように青蜥蜴も。
「雨過天晴」
「それに仇を取ったんです! とても、そう、とても大事なことをしましたよ!」
ふたりは顔を見合わせ――大仁が不意に目を見開いた。
怪樹のあったほうを指差して、
「あれを!」
見れば、枯れ果てた根元が光り輝いている。
水珠たちは花剣を変化させて身構えた。
光は、次第に無数の玉の形を取って地面から立ち昇り、満月の輝く夜空へと上がっていく。
その光たちのもとに、流れ星の如く、四方八方から別の光の玉が、次から次へと飛んできた。
怪樹から解き放たれた一つの玉と、彼方から来た二つの玉がぶつかり合った一瞬だけ、それは人の姿を見せる。
赤ん坊と、男女の姿を。
白鼬が鼻声で言った。
「ほら……ほら! あたしの言った通り! 大事なことを、成し遂げたんですよ!」
水珠も、はらはらと涙を流す。
苦しみ抜いた魂も、これでようやく安らかに眠れるだろう。
両手を合わせて、ただただ祈る。
次に産まれてくるときには、その生が善きものであるように。
ふたりの道士も、二匹の小獣も――完全に油断していた。
それでも、白鼬が真っ先に気付けたのは、奇跡的なことだった。
「お嬢!」
動くのは大仁が早かった。
突き飛ばされて尻餅をついた水珠は、地面から生えてきた無数の根に友がたちまち包まれてしまうのを目の当たりにした。
すかさず羽衣に変じんと唱えるも、根の一つが鞭の如くしなり、薙ぎ倒される。
「くぅ……っ! だ、だっ、大仁くんっ!」
再び顔をあげたなら、根は一つの玉の如き有様だった。
怪樹が、あの冒涜的な巨人を産んだときと同じだ。
焦燥が胸を焼く。
立ち向かいながら、叫ぶ。
「咲き、こぼれて! 晃蕩槍・白杏!」
純白の羽衣を走らせる。疾く根の塊を斬り払わん。
その切っ先が今まさに触れんとしたときだった。
根塊の上から、なにかが飛び出した。
それは人に近い姿なれど、明らかに、人ではないもの。
背は高く、細身。顔は山羊そのもの。
ぎょろりとした丸い目に、長方形の瞳、突き出した鼻、長い前歯。
二本の角はねじれた樹の枝のようではないか。
そんな山羊の如き頭と、山羊の如き強靭な両脚は、緑色の体毛に覆われている。
それ以外の露出している肌は、樹皮めいている。
水珠の頬を、絶望の色した涙が伝った。
「あ、ああ、ああぁ……っ!」
懐の二匹の小獣も絶句する。
宙に立つ、その異形が身にまとうのは、道士服だった。
胸には青く可憐な花が咲いている。
根塊は、役目を終えたと言わんばかりに枯れ果てた。
その中には、もう、なにもない。
呆然として震える水珠を嘲るように、山羊樹人は目を細める。
そして天に向かって、しゃがれた鳴き声を響き渡らせた。
「――め゛ぇえ゛え゛ぇ!」
青き花びらが、ぱっと舞い上がり、それはたちまち、かの人の手の中で姿を変じる。
その切っ先を向けられても、水珠は動けなかった。
「だ、大仁くん……大仁くん、だよね?」
その、どす黒い魂の影に、彼がいやしないか、探さずにはいられなかった。
また山羊樹人が鳴く。
来る。
白鼬たちが警戒の声をあげる。
そのときだ。
ふたりの間に割って入るかのように、天から音もなく一筋の光が降ってきた。
光が散って現れた姿に、水珠は安堵せずにはいられなかった。
「しょ、青錫君さま……!」
一方の山羊樹人は逃亡の一手。
白鼬と青蜥蜴が早口で状況を説明したなら、仙女は「まさか!」と呟き、奴を追う。
「すぐに白銀君も来ると思うから!」
彼女の言葉通り、間もなく彼は光となって降ってきた。
水珠はひとまず、白銀君に抱きかかえられて、崑崙島への帰還を余儀なくされるのだった。
◇
巳州に隣接する酉州には、一都四京が一つ、索冥京がある。
これは白京や西京とも呼ばれる。
また、そこの長官は白守と言って、三年ほど前から陳邦昌が担っている。
彼の屋敷には、千禧と名乗る道士が食客として滞在している。
赤みを帯びた黒髪の、二十代ほどの青年だ。
その呪いによって政敵を蹴落とした結果、彼はいとも容易く白守という地位を得られた。
邦昌はそう信じている。
と言うのも、彼はなにも指示していないし、千禧も核心を語ることはなかったからだ。
千禧は、ただ問うたのみ。
白守になりたくはないか、と。
そして邦昌は答えたのみ。
なれるものなら、と。
ゆえに千禧は、多くを求めはしなかった。
衣食住があり、いくらかの金銭があり、外に出る自由あり、他の食客などの自分を排除しようとする者がいなければ、それで充分。
彼にとって白守などと言っても、仮の住まいに過ぎない。
夜明け頃、千禧は目を覚ました。
怪しき存在が屋敷に入ってきたのを、結界から感じ取った。
賊ではない。
人外だ。
覚えがあるような、ないような気配が、ここ、寝室へと向かっている。
寝台から降りて戸を開けてみれば、案山子のように細身な坊主頭が立っていた。
見知った顔に笑みを見せ、
「貴方でしたか。独覚、今度は随分と変わりましたね。道士に宗旨替えですか?」
「前の俺は、駄目になっちまいましてねェ」
「それはそれは……詳しく聞かせてください。さあ、中へどうぞ」
千禧は酒を注いでやってから問うた。
「前の体は殺されでもしましたか?」
十中八九そうなのだろう、と。
千禧は独覚に初めて会ったときのことを想起する。
十年ほど前のことだ。
仙境から行方をくらまし、俗界に降りて最初に目についたのが、この男だった。
山中で死に掛けていた。
周囲には他の僧侶の亡骸もあり、彼らと争ったこと明確だった。
後に話を聞けば、修行元の寺で高僧を殺して霊験あらたかな錫杖を奪ったために、追手を放たれたとのことだった。
千禧は、まだ苗木だった生命を産む樹の力を使い、延命を図った。
若き枝葉が独覚と周囲の遺体を飲み込んで、新たに産み落とした独覚の肉体は、正直に言って期待外れであった。
不老不死で病に強いことくらいしか元の肉体との差異がなかった。
不死と言っても、仙人のそれと同じく外的要因では死ぬ。
そのくせ、仙人ほどの頑強さはない。
(まぁ、僕も彼も、あのときの望みは延命であったから、そうなったのだろう)
彼は捨て子であったらしい。寺は、そんな彼を育てあげたというのに仇で返されたとなれば、千禧もどうして、彼の口にする報恩の望みを信じられようか。
それでも、なにかしらに使えるかもしれぬと傍にいることを許すこと一年。
どうやら彼に裏心がなかったらしい。
あるいは、母なる樹が、真に報恩の心を植え付けたのかもしれない。
己を芽吹かせてくれた千禧のために。
ともかく、千禧は独覚に母なる樹を与えて、贄の調達を任せることにした。それは彼の悪辣なる性質とも合っていた。
九年に渡って各地から、様々な手法で産まれ損なった者を献上してくれた。
そして今、この邪悪なる男は、完全に人間でなくなった。
(つくづく良い拾い物をしたものだ)
千禧は改めて、そう思った。
「さて、どこから話したものですかねェ。……まずは、ある道士の話を」
経緯を聞き終えた千禧は「ふむ」と顎を撫でる。
「眼帯仙女は、ちゃんと撒いたんですね?」
「おかげで、へとへとですよォ」
しばし意識を集中させる。
都市に張り巡らせた結界には、確かに、それらしい気配はなかった。
「彼女や道士たちは……口にしませんでしたか? 赤銅君の名を」
「いんや、全く。くはは。今日は知らねェ名ばっかり、聞かされますなァ」
千禧は眉間に皺を寄せた。
赤銅君を探してのことでないとするなら、青錫君の出現は、単なる偶然なのだろうか。
そう思いたいが、彼女には精度の高い占いも、いざとなれば未来視もある。
それに、花剣なる宝貝の製作者は、あの黄金君ではなかろうか。
「独覚、花を」
渡されたそれに術をかける。これで探知されることはなくなった。
もっとも、すでに、索冥にあることくらいは気付かれていると考えられる。
(雲隠れするか。母なる樹が失われてしまっては仕方がない。代わりの手を考えなくては)
茶を一口含み、溜息。
「念のために訊きますが、母なる樹の代わりになりそうなものの話は耳にしませんでしたか? 君はここ数年、色んな術師と関わりがあったでしょう」
「いやぁ、関りがあったのは州守のほうですぜ。で、そんな話は奴からは聞きませんねェ」
でも、と。独覚は己の腕を見せつける。
すると、その人肌がたちまち樹皮のようになった。
「間一髪でしたぜェ。小娘に斬られる前に、根を通して魂を逃がせなかったら、俺もこいつも終わりでしたねェ」
千禧は目を見開き、身を震わせる。
「守ってくれましたか!」
「なにがあっても、樹だけは生かせと言われましたから」
「ありがとう、独覚。本当に僕は、良い拾い物をしたものです」
心は決まった。これは天命だ。
全身が、そう叫んでいる。ずっと叫んでいる。
この宇宙を、あるべき姿に還さなくては。
痛みも、苦しみも、無くさなくては。
樹は無事。贄は充分。
手駒もある。そのうちの一つは人外の力に、花剣なる武器も得られた。
仙人との邂逅は必要なことだったのだろう。
青錫君ほど信憑性がない自分の占いで、七日後が良いと出たのは、あながち的外れではなかったようだ。
これは天命だ。
千禧は心の内で、そう繰り返した。
「独覚。君には最後に、もう一仕事してもらいますよ」
「あんたは俺に、好き勝手させてくれました。いくらでも付き合いますぜ、千禧の旦那ァ」
この日、白守の屋敷から、一人の食客が消えた。
それはかつて、赤銅君の号を頂いた仙人だった。




