第35話 冒涜の巨人
日が沈み、どれほどの時間が経ったろう。
水珠は正面の屋敷の屋根を勝手に借りて、ただ、そのときを待っていた。
今宵は雲一つない満月。視界は良好。
かの姿を、決して見逃しはしない。
「――来た!」
屋敷の門の屋根に青蜥蜴が現れた。
すぐさま、そこへ舞い降りる。
「危機! 睡眠薬! 大仁、解毒中!」
水珠は花剣を羽衣に変じてまとうと、青蜥蜴を懐に入れる。
どこへ行けば良いかは、問うまでもない。
ここまで飛び移ったときに、一瞬、見えたのだ。
奥の中庭に、二つの篝火が灯っているのを。
外からでも窺い知れた、大樹の傍に違いなかった。
渡り廊下の屋根に降り立てば、やはり、樹の前に彼らはいた。
大樹に向かって立つ男が、ふたり。
片や恰幅の良い壮年、片や――痩身の坊主。
ふたりは、震えを多いに含んだ発声で、いかなる国、いかなる民族でも聞かれることがないのではないかと思うような、奇怪な言葉を熱心に唱えている。
そう、ただの不快な音、虫の羽音にさえ思えるそれは、間違いなく、言葉だった。
まるで知らないものなのに、その確信があった。
そしてまた、その言葉の意味も、わかった。
――偉大なる母よ。全てを愛する偉大なる母よ。
――あなたのために、捧げよう。
――良き血と肉と骨を、良き魂を、捧げよう。
――偉大なる母よ。全てを愛する偉大なる母よ。
――哀れなる魂に、あなたの愛を与え給え。
――産まれ損なった血と肉と骨を、あなたの仔にし給え。
あまりにも異常な現象に、水珠は頭がおかしくなりそうだった。
(な、なんで? こんな言葉? 知らないのに!?)
だが、それはまだ、序の口に過ぎない。
彼らの言葉に呼応するかのように、樹がざわめく。
その根元には大仁を含めて十数人ほどが寝転がされている。
そのうちの一人に向かって、傘の如く広がる枝葉の一部が、伸びていく。
それはさながら、腕のよう。
(まずい!)
水珠は飛んだ。
邪法師らの頭上を越え、樹の腕に羽衣の両端を差し向けんとしたところで、
「お嬢、後ろ!」
白鼬に助けられた。
おかげで間一髪、振り下ろされた邪法師の錫杖を躱せた。
「なんて跳躍力!」
「来たなァ、小娘! お前からは良き《《贄》》ができよう!」
着地した独覚は愉快そうに言いながら、符を投げつけてくる。
その隣で州守は、怯えた顔しながらも呪文を繰り返している。
「お前の相手は後!」
反射的に羽衣で符を払い除けた途端、
「んなっ!?」
符が先端に貼り付き、急に重くなった。
独覚が更にまた符を投げてくる。
水珠は無事なほうの切っ先で符のくっついたほうを斬り離し、その追撃を躱す。
逃げた先へと独覚は、今度は錫杖を振るって霊力の塊を放った。
それは、ほとんど見えざる攻撃だった。
小石ほどのわずかな空間の歪みが、その存在を教えてくれるが、矢の如き速さで飛来するそれを躱すのは容易ではない。
「ああもう! 邪魔をするな!」
水珠は「疾!」と霧を生んで目暗まし。
すぐに消されるとしても、
(この隙に!)
と樹に迫れば、かの腕はすでに一人の術師を手中に収めていた。
中の様子はまるでわからない。
だがきっと、まだ間に合うはずだ。
布槍を全速力で走らせる。
その切っ先を樹そのものが阻んだ。枝葉を鞭の如く振るってきた。
にわかに、術師を握る大樹の拳が膨らんだ。
二倍三倍と瞬く間に膨らんでいき、
「また――間に合わなかったなァ?」
独覚の、悪意に満ちた笑い声と共に、それは冒涜的な産声をあげた。
拳めいた枝葉の塊がほどけ、赤黒き異形が立ちあがる。
その、ずんぐりむっくりした巨躯は大人の三倍はあろうか。
そいつには頭がなく、本来なら乳首のあるところに目があり、へそのあるところに口があった。
それはまるで――首のない赤ん坊。
水珠の両目から、自然と雫が流れ落ちる。
脳裏に二つの光景が過ぎった。
最初に愛する妹、雪梅の産まれた日の思い出。
それはすぐ血塗られた景色に変わった。あの家族が凄惨な最期を迎えた日に。
全身が熱かった。
怒りの炎が、血と肉と骨を、魂を焼き尽くさんばかりだった。
(あの家族だけじゃない……!)
多くの家族がきっと、あの幸福な日を迎えるはずだった。
無頭の巨人が、おぎゃあ、おぎゃあ、と。泣き声なのか、鳴き声なのか、わからぬ声を上げながら、水珠のほうへと両手を伸ばす。
よちよちと言うには重量感のあり過ぎる歩みで寄って来る。
花剣でもってしても、これを人に戻すことはできない。
もはや、全く別の存在になっている。
水珠は元凶を睨みつけた。
邪法師、それに州守もだ。
「お前たちだって、人の胎から産まれたんじゃないのか!」
「それがどうした!」
独覚の投げた符を水玉の術で吹っ飛ばす。
そのうちの一枚が無頭の巨人に貼りつき、水珠を捕らえる直前で膝を折る。
すかさず水珠は州守に狙いを定めて晃蕩う槍を差し向けた。
まずは、この非道な儀式を止めなくては。
「後悔させる! 人の道を外れたこと!」
「ひぃ!」
と尻餅ついた彼を守るべく、邪法師が間に入った。
「弱い者いじめは人の道かァ?」
「どの口で!」
「州守さまよ、安心して続けなァ!」
彼は激しく首を上下させると、蹲って一心不乱に、より大きな声で呪文を唱え始めた。
「お嬢!」
無頭の巨人が立つ。符の効果は一時的らしい。
その巨腕を躱しながら布槍を大きく振るい、
「……ごめんね」
無頭の巨人を真一文字に両断。
切り口から鮮血と共に白い花びらが、ぱっと舞う。
その花びらは地につく前に、消えていく。
「謝るくらいなら殺すなよォ。二度目なんだぜェ? 可哀想になァ」
「人の神経を逆撫でする!」
懐の二匹が
「落ち着いて!」「冷静!」
と言うのが、かすかに聞こえた。
「わかってる!」
羽衣で独覚を攻めつつ、ちらと怪樹を見る。
次の獲物に狙いをつけたようだった。
だが、焦ることはもうない。
「――咲き初めようか、五重偃月刀・緑絨蒿!」
頼れる仲間が目を覚ましたのだから。




