きゅう
「わぁ、思ったより広いのね!」
あれから私は、ライナスと2人で植物園を見て回ることにした。辺りからは爽やかな風に乗って、草花の青い香りが漂ってくる。
「右も左も植物だらけで、どこに何があるのかさっぱり分からないわね」
ふふっ、とはしゃぐように笑った。少しでもライナスの気を紛らわそうとして、殊更明るく振舞ってみる。少々わざとらしいかと懸念したのだが、違和感を持たれている様子はなさそうだ。
「足元に気を付けろよ。浮かれるのはいいが、慌てて転ぶんじゃないぞ」
「大丈夫よ、今日はヒールじゃないもの」
「手を貸そうか?」
「エスコートなんて必要ないわ。心配しすぎよ、もう!」
はは、とライナスが笑った。柄にもないのは彼も同じで、やけに優しいトーンで話しかけてくる。
別行動が始まってから、ライナスはあの2人について一言も触れていない。先程の衝撃を忘れたいのか、彼も普段より明るい態度を取っていた。
「リンジー。ここからもう少し先に温室があるんだが、行ってみるか?」
「温室?」
「南方の植物がたくさん植えられているらしい。バナナの木もあるらしいぞ?」
ライナスがニッと笑った。
「やけに詳しいのね。来たことあるの?」
「いや、これを見ただけだ」
「……入口に置いてあったパンフレットよね。見ても分からないから取らなかったのよ。私はいいからライナスが持ってて」
「俺も必要ない。もう全部覚えた」
けろりと答えているが、この植物園の敷地はなかなか広大である。メインはこの国の植物が植えられている中央のエリアになるのだが、そこから大きく4ヶ所ほど道が伸びていて、それぞれ周辺諸国の植物が植えられているエリアに分かれているのだ。
「王城の地下通路に比べたら、単純でわかりやすい道だな」
「…………王族と騎士団長にしか知らされていない道と比べられても、コメントに困るのだけど」
私には、永遠にお目にかかることのない道である。
地下通路は追手から逃れることを目的としているため、おそらく無駄に入り組んでいる上に迷路のような作りになっているのだろう。ギミックや罠もありそうだ。
――私なら間違いなく迷っておしまいね。
王太子殿下の婚約者に選ばれなくて本当に良かったわ。
家柄のせいで実は第一候補だったのだ。あざと可愛い伯爵令嬢のおかげで、すぐに候補から外されたけど。
「まあ案内は俺に任せてくれ。ルート選定は上手い方なんだ。どう動けば敵の裏をかきつつ効果的にダメージを与えられるか、戦略を考えるのは俺の得意分野だからな」
いえ、植物は敵ではないわよ?
しかし豪語するだけあって、ライナスは案内役としてとても優秀だった。
見たい場所を伝えると、効率よく目的地まで連れていってくれる。もちろん、ルート上にある目ぼしい植物も見て回りつつである。
「こちらは随分と可愛らしい花ね」
「茎の部分は猛毒だがな」
「ええっ!?」
「安心しろ、そのまま食べても害はない。あれは加熱することで毒が出るんだ」
「茎なんてそのまま食べないわよ……」
おまけに、ライナスは意外にも植物に詳しかった。解説も混ぜてくれるし、人混みも上手く避けてくれたので、今のところスムーズに見学を楽しめている。
「これが噂の花ね」
北方の花エリアには、植物園の目玉である氷結花が植えられていた。名前の通り非常に低温の場所でのみ咲く種で、厳重に温度管理がされているのだそう。建物の中でも日の当たらない一階の奥にあり、透明なケースの中で厳重に陳列されていた。
色は無色透明にも似た薄い水色で、表面に艶があるせいか、室内の明かりを受けて潤んでいるように見える。氷をそのまま花びらの形にしたような、繊細で美しい花だ。
「はぁ……」
私の口から感嘆の息が漏れる。
「とても綺麗ね……。まるでガラス細工みたい」
「ああ…………綺麗だな」
「あ、見て! あそこに小さな芽が出ているわ」
ささやかな発見に興奮して、ライナスの白いシャツをくいっと引っ張った。はしゃいで隣を見上げると、彼とばっちり目が合った。私を見つめる金の瞳は、蜂蜜のようにとろりと蕩けていて……
ひゅっと息を呑んで、固まってしまう。
「……っ!! ちょっと、どうして私を見ているのよ……!」
盛大に焦った私は、とっさに大きな声で叫んでしまった。
口にしてすぐに後悔する。
やだ、まるで自意識過剰な発言じゃない……!
目を見開いて固まっていたライナスの、精悍な頬がじわじわと赤くなっていく。
「リっ、リンジーこそ……俺を見ているだろっ!」
「わ、私は今振り向いたばかりよっ」
「お、俺だって君の方を向いたのは、たった今だ」
「ライナスを見たのは、私の方が絶対に後だわ!」
誤魔化そうと言葉を重ねる度に、更なる羞恥に襲われる。ライナスも似た状態なのか、2人で不毛な言い争いをしてしまっている。
もう何を言っているのか、自分でもよく分からない。
「っ、とりあえず移動しよう」
周囲にいる人たちが何事かとこちらを見ている。
恥ずかしさと混乱で涙目になっていたら、私よりもいち早く冷静になったライナスが、私の手を引いてさっと建物の外に出た。
「………………ごめんなさい」
建物の裏手には美しい薔薇園が広がっていた。
北方のエリアには氷結花に惹かれて来る人が多く、薔薇園は閑散としていた。
「いや、俺も悪かった」
「ううん、私が騒がなければ良かったのよ。まだ見ていない花もあったのに……本当にごめんなさい」
「気にするな。これだけ広いんだ、どちらにせよ今日一日では回り切れないさ」
尚もしゅんとしていると、ライナスが私の頬をむにっと摘まんだ。
「そんな顔するなよ。どうしても見たいものがあるなら、また来ればいいだろう? リンジーさえ良ければ、俺が何度でも案内してやる」
……ライナスは優しい。
落ち込んでいる私を慰めるために、ここまで言ってくれている。
「それは……忙しいのに、迷惑じゃない?」
「迷惑だったら、案内するとは言わない」
団長になったばかりで忙しいのに、貴重な休日を私の為に費やそうとするなんて。
私が、お言葉に甘えちゃったらどうするのよ。
「ありがとう、社交辞令でも嬉しいわ」
「社交辞令じゃない。本気で連れて行ってやるつもりでいるんだ」
ぶすっとした顔で言われて、くすくすと笑ってしまう。
「まあなんでもいい。そうやって笑ってろ」
ライナスの長い指が私の頬に近づいた。
さっき摘まんでいた場所を、指の背で、慈しむように優しくそっと撫でられる。
「……っ」
ぐっと息を呑んだ。彼は今、家族に向けるような優しい気持ちで私に触れている。そう頭では理解していても、身体の方は触れられた歓喜でぞくぞくと震えが走ってしまっていた。
彼の向こうにあるのは、一面の赤い薔薇。
絨毯のように敷き詰められた薔薇園の奥には、一組の男女の姿が見えた。
それは、清楚な白のワンピースを着たフェリシアと……
「……ウィル様」
2人は薔薇園を挟んで私たちのちょうど反対側にいた、私に見られているとも知らずに、真っ赤な薔薇の前で情熱的に見つめ合っている。ウィル様の右手は彼女の腰に回り、もう片方の手はフェリシアの顎を掬い上げていた。
―――ああ、すっかり忘れていた。
「リンジー?」
ライナスが訝しげに眉を寄せた。私の視線を辿ろうと、背後にある薔薇園の方を向く。
いけない。今、そこにいるのは。
「あ、駄目……っ!」
「ウィルと…………フェリシア嬢?」
制止の声が間に合うはずもなく。
ライナスが見ている目の前で、フェリシアはウィル様と熱い口づけを交わした。
「あぁ………………」
自分の無力さに愕然として、力のない声が漏れる。
植物園を2人きりで見て回るのは、夢のようなひとときだった。美しい花も、珍しい木も、ライナスが隣にいるだけでキラキラと輝いて見えた。デートのようだと、実は一人密かに浮かれていた。
何もかもが楽しくて、私はすっかり忘れていたのだ。
ライナスが私を連れだしたのは、あれ以上想い合う2人を見ていたくなかったから。それなのに、ただでさえ傷ついている彼に最悪の場面まで見せてしまった。
罪悪感で胸がズキズキと痛む。この事態を招いたのは、私だ。ウィル様とフェリシアを引き合わせたのは、この私なのである。
彼は今、どんな顔をしているのだろうか。
とてもじゃないけれど見ていられなくて、目を伏せていたら頬に温かいものが触れた。
ライナスの手のひらだ。
「なあ。俺では駄目なのか……?」
絞り出すような声がした。驚いて見上げると、ライナスが酷く真剣な顔をして、じっと私を見つめている。金の瞳には焦がれるような熱が見えた。
それは夜会でダンスを踊った時の彼に似ていて。
どくん、と心臓が跳ねた。