じゅう+し
……誰かの声が聞こえる。
ぴちゃん、と水面に雫が落ちる時のように。
意識が朦朧とする中、その音だけが明瞭に私の耳に響いてきた。
「すまない、リンジー……」
この声の主を私は知っている。私の大好きな人の声。幼い頃から何度も聞いてきた、あの人の声だ。
「……俺がつまらない嫉妬をしたせいで、君をこんな目に遭わせてしまった」
ああ、そういえば私は転んだのだっけ。あなたを止めようと思って、何もないところで一人で勝手に転んでしまった。
ただそれだけのことだから、あなたが気に病む必要はないのよ?
だからそんなに、辛そうな声で自分を責めないで。
「呆れただろ? 俺は、君に少しでも近づく男がいると心が狭くなるんだ。君がそいつのことを好きになって、俺から離れていくんじゃないかって、不安になる。はは、馬鹿みたいだよな。そもそも君は、俺のことをなんとも思っていないのに……」
頬に誰かの手が触れる。大きな手のひらは剣を握っているせいか、少しガサガサしていた。
けれど、触れられた手はとても温かくて。落ち着く良い匂いがして。
あまりの心地よさに、再び意識が落ちそうになる。
「……知ってたさ。君は俺が好きで頷いてくれたわけじゃない。俺の勢いに流されただけだってな。傷心の君につけこんで、強引に婚約を結んだ自覚はあるんだ。君は優しいから、俺に絆されてくれたんだろう?」
……どうしてそんなことを言うの?
あなただから流された。勢いに飲まれたのは確かだけど、その後も流れに身を任せていたのは、相手があなただったから。
これが他の人なら、抱き締められたら突き飛ばしてるし、冗談でも膝枕の提案なんてしなかった。婚約者になんて、仮初でも絶対にならなかったわ。
「……本当はこんな風に俺に触れられたくないんだろうな。口づけだって……逃げられてばかりいたしな……。はは…………」
乾いた笑い声がして、ぽたりと冷たいものが頬に落ちてきた。
頭がガンガンと痛む。
このまま、まどろんでいたいと叫ぶ身体を叱咤して、身を起こそうと瞼にぐっと力を入れた。
違うと、言いたくて。
逃げていたのは嫌だからじゃない。自分がこれ以上傷つかないように、予防線を張っていただけだ。
この唐突に始まった甘い毎日に、私は不安を抱いていた。今の関係は、いつか覚める夢だと思っていた。
私は彼の気持ちを疑っていた。信じて、それが失われるのが怖くて逃げていたのだ。
不安なのは私だけじゃなかったのに。
何も言えずにいたのは、私が臆病だったから。
あなたには他に好きな人がいるだとか、仕事に影響が出るだとか、いつか我に返るとか、そんなこと全部ただの言い訳だったの。あなたに正面からぶつかって、フラれるのが怖かっただけ。
私が逃げていたせいで、こんなに悲しい言葉を言わせてしまった。
「ラ、イナス……」
ぴくぴくと瞼が動いて、ぼんやりしたものが視界に映る。
いつか贈られたドレスとよく似た、赤い色。
「リンジー!!!」
金の瞳に涙を浮かべながら、くしゃくしゃの顔をして私を見下ろしている人がいる。せっかく端正な顔立ちをしているのに、台無しになってしまっている。私の愛しい人。
「意識が戻ったのか!」
「あの、ね、私…………」
「ああ、無理して喋らなくていい。君は頭を強く打ったんだ。医務官を呼んでくるから、じっとしていろ」
「あなたが好き…………」
「いいから黙って…………………………………、え?」
ライナスが驚きに目を見開いている。
ひとまず言いたいことは言い切った。
私は安らかな気持ちで、再び意識を手放すのだった。
◆ ◇
カーテン越しに柔らかな光を感じて、私は目を覚ました。
頭の痛みは既になく、体調はむしろスッキリとしている。少々のどが渇いてはいるが、それ以外は至って爽やかな朝の心地だ。ふぁ、と軽くあくびをしてから身体を起こそうとして、その存在にはたと気づく。
「~~~~~~、ライナスっ!?」
ベッドの脇には、赤い髪の青年が椅子に座りながら眠っていた。
「――――え、睡眠不足?」
てっきり自分の部屋だと錯覚し、ライナスがいることに一瞬頭がショートしたのだが、現実は違っていた。
ここは騎士団の医務室で、私は朝まで眠っていたらしい。
私の叫び声に目を覚ましたライナスが、事のあらましをざっくりと説明してくれた。
昨日、団長室で転んだ私は机の角に頭を打ち付け、気を失った。再び目を覚ますも、すぐにまた目を閉じてしまう。その後、駆けつけた医務官に診てもらったところ、上記の診断が下されたらしい。
「頭を打った衝撃もあるだろうが、それよりも寝不足によるものが大きいと言っていた」
「それは、つまり」
「失神ではなく、眠くて寝ていただけだ。何事もなくて良かったな」
「……………………」
ホッとした顔で穏やかに微笑まれて、羞恥で言葉に詰まる。そういえばここ数日、考え事ばかりしていてあまり眠れていなかった。昨日なんて一睡もしていない。理由はもちろん、目の前の人である。
じとっと恨みがましい目で見ると、ライナスが急に頬を赤らめ、ごほんと咳払いをした。
「……ところで、リンジー」
「なに?」
「昨日、君が言っていたことだが……」
「昨日……?」
記憶を辿って、じわじわと頬が赤くなる。
すっかり忘れていた。そういえば私、ライナスに告白を……していたんだった。
どくどくと胸の鼓動が早くなる。どうしよう、心の準備が全くできてない。
「リンジーも俺と……その、同じ気持ちでいると思っていいのか?」
ライナスは私以上に真っ赤な顔をして、ごくりとのどを鳴らした。その様子を見て、少し心が落ち着いた。
「……同じだと良いなと思ってる」
「それは、」
「私は好きだわ」
私の想いが伝わるように、明らかに動揺を見せた金の瞳を、射貫くようにじっと見つめた。
もう逃げない。
「ライナスのことが好き。子供の頃からずっと好きだった。4年前に騎士団に入って、あなたが好きなのはフェリシアだと知ってからも、それでも気持ちは変えられなかった」
そう――私はこの4年間、ライナスの心はフェリシアにあるのだと思っていた。
本当に、それは違ったのだろうか。
「――ライナスは?」
冷静になってよく考えたら、昨日のライナスの言葉だってはっきり好きだと言われたわけじゃないのよね。
彼の様子を見ていると、一人の女性としてちゃんと愛されているような気がするけれど……まさかという気持ちも完全には拭いきれないでいる。
なにせ長年、想われていないと思ってきたのだから。
この際、はっきりと確認したい。
「あなたはどうなの? 私のこと、どう思っているの……?」




