じゅう+いち
結局、私とライナスは1年の婚約期間を置いた後に結婚することとなった。
3ヶ月ではいくら何でも短すぎると父がごねたのだ。
悔しそうにハンカチを噛む父を、理解できない生き物のように見てしまう。ここまで嘆いておきながら、どうして結婚自体にごねなかったのか。つくづく不思議で仕方がない。
反対に、母は一月もあれば十分なのにとすこぶる不満そうである。いえ、お母様。たったの一月では、式の準備をするのに時間が足りなさすぎると思います。
そもそも、準備が始まってしまうと後戻りができなくなってしまう。
そういった意味では、1年の期間が与えられたのは父の功労とも言えた。
――――ライナスが、いつ正気に戻るか分からないものね……。
正式に婚約が結ばれても、私とライナスの関係は変わらなかった。
「はあっ、相変わらず第3部隊は書類が回ってこないな」
「あそこの部隊長は机仕事が大の苦手ですからね」
「そんなものただの甘えだ。俺だって好きでやってるわけじゃない」
「やだ、先月の領収書も未提出じゃない……。ちょっと私、回収しに行ってきます」
「頼んだ」
2人の間に甘い空気は流れない。彼は今まで通り淡々とした調子で私に接してくるし、私も変わらない態度を貫いている。
――――ただし、それは仕事中に限るのだが。
「リンジー、少し休憩にしよう」
「ら、ライナス……?」
「いいからこっちに来いよ。…はぁ。リンジーの匂いがする。癒される……」
業務が一段落して、休憩に入ると途端に彼の態度は甘くなる。まるで別人のような変貌ぶりである。
ちなみに、彼のお気に入りは私をぎゅっと抱きしめて、首元で息を吸い込むこと。
……私を猫か何かと勘違いしてないかしら?
慣れない団長の仕事にストレスが溜まっているのか、彼はとにかく癒されたいらしい。
「つ、疲れているならハーブティーはどうかしら? 茶葉もあるし、淹れてあげるわよ」
「いや、いい。もう少しだけ、このままで居させてくれ」
温かな吐息が首筋に触れていて、とてもくすぐったい。
疲れが取れるとライナスは呟いているけれど、私は逆だ。慣れない密着に心臓がバクバクと忙しくなるので、終わるといつもヘロヘロになっている。
「リンジー」
甘い声で囁きながら、ライナスが顔を上げた。満足したのか嬉しそうに目を細めている。
ようやく解放される。そう思ったのは束の間のことで、ライナスはなぜかニッといたずらっぽい笑みを浮かべて、私に顔を近づけてきた。
彼の薄い唇がツンと立てられて、それが息のかかる距離まで迫って来るのを見て…………
焦った私は、するりとライナスの腕から逃げ出した。
「そ、そろそろ仕事を始めましょ!」
「…………ちっ」
不満そうにするけれど、キスはしない方がいいと思うの。
後で我に返った時に、絶対後悔するから。
◆ ◇
婚約をしてライナスとの時間は増えた。職場への往復は時間が合う限り同じ馬車に乗り合わせているし、休日も一緒に過ごしている。
私に気を遣っているのか、ライナスはまるで付き合いたての恋人のように一緒に居ようとする。もちろん私もそのことに不満はなく、彼と過ごせる時間を楽しんでいた。
けれど、職場のランチタイムだけは話が別で、誘われても断固として断っている。
「おめでとうリンジー。私たち、ラブラブハッピーエンドね!」
というのも、こうしてフェリシアと共に過ごせる時間が残り僅かしかないからだ。
「…………そうなる、のかしら?」
「そうよ。私はウィル様と、リンジーはライナス様と強い愛の絆で結ばれたのよ? とっても幸せ者よね、私たち」
彼女はウィル様と3か月後に式を挙げる。
話を聞いて驚いたのだが、あの日の翌々日には2人でフェリシアの実家である子爵領に赴き、その場で話をまとめ上げた挙句、その日のうちに籍まで入れてしまったという。出会いから結婚まで、わずか3日の超絶スピード婚である。
「愛の絆……まあフェリシアたちはそうでしょうね。ウィル様はフェリシアの好みど真ん中だものねえ。ウィル様もフェリシアにベタ惚れのようだし、幸せそうで本当に良かったわね」
向日葵のように満面の笑みを浮かべるフェリシアを見ていると、ライナスには悪いけどこれで良かったと心から思わせられる。
式は3か月後だが、ウィル様からは今すぐにでも領地に来て欲しいと言われているようで、彼女は仕事の引継ぎが終わり次第、退職して辺境に行くことが決まった。
辺境は王都からずいぶんと離れている。そう簡単に会える距離じゃない。
フェリシアが幸せなのは嬉しいけれど……こうして一緒に過ごせなくなるのは、とても寂しい。
「リンジーもよ。ライナス様の態度、すっごく甘いじゃない」
「ああ、それね。たぶん期間限定だと思うわよ。もう少ししたら熱が冷めるんじゃないかしら……」
「そんなわけないじゃない。あんなにも熱い視線でリンジーを見つめていたのよ? 今だけのキャンペーンでは絶対ないから、安心していいと思うわ」
「え? 私を? ……フェリシアの気のせいでしょ」
なにを言っているのかしら。
ライナスが見つめていたのは、私じゃなくてあなたよ?
「んもう、気のせいじゃないわよ。ライナス様ったら、食堂でもしょっちゅうリンジーを見つめていたわよ? 目が合いそうになったら慌ててサッと逸らしたりして、ほんっと可笑しかったんだから」
………………え?
ライナスが……私を見ていた?
「ねえ、リンジー。辺境は遠いけれど、式には是非来てちょうだいね」
「も、もちろんよ……」
まさか。まさかね……。
「……私、リンジーには感謝しているの。ウィル様のような素敵な方を私に紹介してくれて本当にありがとう。すごかったわ。彼に会った瞬間、私の世界がぱあっと明るくなったの。私、運命の出会いってこういうことを言うのだと思ったわ」
フェリシアが手を組んでキラキラと目を輝かせているけれど、続いた言葉の半分も私の頭に入ってこなかった。
◆ ◇
休日のライナスは心臓に悪い。
業務中は上司と部下という線引きをしっかりと守っているけれど、ひとたびそこから離れると、彼は驚くほど優しくて甘い青年に変化する。
今日もデートに出かけているのだが、当然のような顔をして恋人繋ぎで手を絡めてくる。
時折、店先に飾られているものに目を止めて立ち止まると、耳元に熱い息がかかってくる。買ってやろうか?と身を屈めた彼に低いボイスで囁かれて、それだけで私の頭からは品物のことがすっぽりと抜けてしまう。
甘い。甘すぎる。
ドキドキしすぎて胸が苦しい。やんわり拒否する私をライナスが残念そうに見ているけれど、本当に勘弁して欲しい。慣れない彼の態度にどうしていいのか、私だって分からないのだ。簡単に言うと混乱している。
まさか本当に、ライナスは私のことが好きなの……?
でも、今まで全然そんな素振りがなかったし……
きっと、気のせいよね。
フェリシアの発言も最初こそ動揺したものの、あれから時間が経って冷静になるにつれ、彼女の見間違いではないかと思えてきた。
ライナスが見ていたのは私とフェリシアは言うけれど、私から見たライナスは逆だった。簡単に信じるには、私に都合よく話が出来すぎているような気がする。
確かにライナスの態度は甘いけれど……とりあえず手近にいる私を盲目に溺愛することで、辛い現実から目を逸らそうとしているのではないだろうか。
「せめてこれくらいは贈らせてくれ」
よほど不満を溜めていたのか、ライナスから懇願され、連れていかれた店はいかにも高級そうな宝飾店だった。
彼が選んだのはゴールドのネックレス。真ん中に嵌め込まれているストロベリークォーツがキラキラと輝いている。
「可愛い……」
ほうっと深い息を吐く。
私は華やかさや可愛さというものに欠けている。ドレスや宝飾品も可愛いらしいものは似合わないので、シックな品を身に着けることが多い。でも、似合わないだけで可愛いものは好きなのだ。
可愛い赤の宝石に見惚れてしまう。
こういうの、フェリシアなら似合うんだろうな……
ネックレスにすっかり目を奪われていると、ライナスが満足そうに頷いた。
「では、このネックレスを頼む」
「え、待って! こんな可愛いもの、私には似合わないと思うわ」
「そんなことない、とてもよく似合っている」
きっぱりと断言して、ネックレスを私の首元に当ててくる。
「似合うに決まっている。リンジーは誰よりも…………可愛いからな」
ライナスの言葉にかあっと頬が熱くなる。
可愛いなんて初めて言われた。
「ほら、リンジーにピッタリだろ?」
「…………そうね」
首元の赤にそっと指先で触れる。
鏡に映る私は、いつもよりほんの少しだけ可愛く見えた。