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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

魔法の血~銀行員・黒川礼子の怪奇事件簿~

作者: まと

最高の朝になるはずだった。憎たらしいほど爽やかな秋の空が広がる、朝八時の渋谷。私はスターバックスでチョコドーナツを食べ終わり、飲みかけのラテを片手に八菱銀行渋谷支店へ出勤するところだった。店を出る前にトイレへ向かうことにしたのだ。

店内を見渡すと半数がマックブックを広げていた。朝早くから真剣に画面を見つめる彼らは機械を働かせているのか、機械に働かされているのか。まるで区別がつかない。彼らも自らの道化に感づいているのだろう。スタバに来ることで気を紛らわせているのかもしれない。都内の無機質な1LDKで灰色のリンゴと向き合い続けて発狂しない変態など、存在するはずがない。

スタバにせよ渋谷にせよ、自分が特別な人間であるかのように思わせてくれる。実際は砂糖と油とカフェインを摂取するデブへの道を、一足先に進むだけなのだが。その意味で特別というのは妥当なのかもしれない。


店に一つしかない女子トイレの前に来ると、空室を示す青い印が目に入る。それは私を嬉しくさせた。今日は良いことがあるかもしれない。しかし期待はすぐに打ち砕かれた。ドアを開けると血まみれの腕を持つ女性が立ち尽くしていたからだ。

彼女は雪のように白い肌、はっとするほど青い瞳、輝くばかりのブロンドを備えていた。おそらく二十代前半だろう。世間一般で言う美人の条件を全て満たしていた。しかし私と同じ日本人であることは何となく見て取れた。つまり彼女の美しさは外科手術とカラーコンタクトによるものなのだ。良い医師と妥当なアイテムに巡り合えば、誰もがこの手の顔に行き着くことができる。SNSでよく見かける個性を欠いた『美しさ』だった。

数秒間、私は彼女の空虚な目を見つめた。

「……ぁ」

彼女は何かを言おうと口を開いたが、ヒューヒューという音が虚しく宙を漂うだけだ。陶器のような顔は青白く、ついさっき手術室から出てきたばかりのようだった。細い手でジャージー生地のワンピースのポケットから紙切れを取り出し、私のスーツのポケットにねじ込んだ。私が咄嗟に紙に触れると、等身大のスマホが目の前に現れた。


『整形してそれ?』『左右のバランス変』『かわいくなくない?』『人中長すぎだろ』


コメント欄へ怒涛に押し寄せるクソリプ。スマホの画面はTik tokで、投稿者は彼女だった。私はそれらに流されそうになりながら意識を保った。彼女の持ち物に触れたことで視えてしまったのだ。物に記憶された、過去が。

「くそ。いつもは勝手に視えること、ないのに……」

私は呻いた。視えた後の副反応を恐れていると、それはいつも通りやってきた。強烈な吐き気と頭痛。私は便器に顔を突っ込み、ラテとドーナツを全て店舗に返した。

頭はずきずきと痛み、続けて嘔吐したい気持ちを抑え込むことに意識を集中させる。そのため彼女の存在をしばらく忘れていた。なんとか顔を上げてトイレを見渡すと、彼女は消えていた。私は立ち上がり、鏡を見た。二十七歳とは思えないほど疲れた顔をした、二日酔いで最悪の朝を迎えたばかりのような女性行員が映っていた。


なんとか遅刻をせずに渋谷支店に出勤すると、法人第二課の伊藤がぎょっとした顔をして声をかけてきた。

「クロさん、大丈夫っすか? 昨日バカみたいに飲んだとか?」

「黒川代理って呼べ。あと酒は飲んでない。伊藤みたいなパリピと一緒にするな」

「パリピって……死語ですよ。あと僕がしてるのは飲み会じゃなくてマッチングです」

依然として痛む頭を抑える。慶應ボーイの新入行員による薄っぺらい言葉は、頭の上を通り過ぎるままにしておいた。

ベストセラー小説『半沢直樹』の影響か、銀行員たちは出世争いや取引先とのトラブルや不倫で忙しいように思われがちだ。事実、出世争いはない。親の職業と本人の学歴で入行前から銀行員人生の運命は定められている。取引先とのトラブルも少ない。厄介な先は銀行本体でなく、関連会社に移管され、そこで面倒を見てもらえる。不倫だけは事実、多かった。

「それより、伊藤。預金の会議資料できたか?」

「まだっす。今期、達成難しそうなんですよね……」

「一課で大口の付替されたからな。でも、今日だから。提出期限」

「クロさんは運用の資料できました?」

「昨日から丸一日かけてやってるからな。ビープロの仕組債で達成、見えてるし」

実際、銀行員の仕事は恐ろしく地味な作業で成り立っている。才能と知性が膨大に浪費されている場所、そこが半沢直樹の舞台になった八菱銀行なのだ。


やっとのことで運用の会議資料が課長から承認をもらえて、支店長のデスクに提出した時、時刻は午前十一時を示していた。素晴らしいタイミングだった。それは昼食が提供され始める時間で、十二時過ぎに見られる混雑を避けることができる。昼食は一人で取るに限る。苦手な同僚や上司とぎこちない会話を続けながら食べる飯ほどまずいものはない。


食堂の扉を開けると予想に反して先客がいた。事務職の五十歳を過ぎたおばさんだった。彼女は片手でテレビのリモコンをいじり、もう片方の手でうどんをすすっていた。それは彼女の好物なのだろう。眼鏡の奥にある瞳には普段の意地の悪い輝きが見られない。細い目は満足によりさらに細められ、キュートですらあった。彼女にそんな顔ができるとは驚きだ。人生は新たな発見の連続でできている。

私はトレイを持ち、厨房の方へ歩いていった。配膳をしてもらう間もおばさんのことを考えていた。確か派遣社員だ。名前は思い出せない。双子の卸し難い悪ガキに生きる活力をほぼ吸い取られていると聞いたことがある。夫は金持ちだが、家に帰ってこないとか何とか。


 うどんを食べ終えてテレビを見ていると、目を疑う映像が流れてきた。

「あれ? この人……」私は声をあげた。

画面には『謎の失踪! インフルエンサーゆきぽよ』というテロップがあった。文字は強調され、着色され、踊っているかのようだ。色も字体も悪趣味際なりないものだった。テレビ局は話題を提供してくれる事件が起きて嬉しいのだということだけは伝わってきた。

斜め向かいに座るおばさんは、いやな目つきでこちらを見た。まるでテレビが聴こえなくなると言わんばかりに。彼女はふくよかな手でリモコンを手繰り寄せ、音量を上げた。満足のない人生は危険だ。人に不快な思いをさせることにしか、楽しみを見いだせなくなる。

テレビには、失踪したゆきぽよの写真が次々に映された。間違いない。彼女は朝にスタバで血まみれの腕で手紙を押し込んできた女性だった。

「いや。まさかな……」

テレビに映し出される写真はどれもインスタグラムだかTikTokだかの投稿だった。目の大きさや顎の細さは加工されているせいか、別人物のように見えなくもない。何なら隣に映っている女性とも似ていた。夜に渋谷の宇田川町を歩いていれば、同じ顔に少なくとも五人は遭遇できるはずだ。テラス席をネオンで彩るクラフトビールの立ち飲み屋か、丁寧な説明とともにヴァン・ナチュールを出すビストロあたりで。


 おばさんが憎々しげに呟いた。

「どうせ炎上目的でしょ」

「ふざけた名前ですしね」

「こいつ、元は料理の発信してたんだよ。それで人気が出て勘違いして、こんな整形女に成り果てて。リンゴ酒とかすごく美味しかったのに……」

後半は私というより彼女自身に話しているようだった。聞いていると呪われそうだった。彼女の手には宇宙の柄をしたポーチが握られていた。強く握られており、時空の歪みを表しているかのようだ。私はポーチに書かれた『Astronomers』というロゴが『天文学者』を意味すると思い出せたことに満足し、視線をテレビに戻した。

スタジオでは、男女が意見を交わしていた。どれも聞くに値しないものばかりに思えた。彼らが額に入れたボトックスは、脳みそのシワまで伸ばしてしまうのかもしれない。私は席を立った。おばさんの後ろを通る際、会話に挑戦してみた。

「Astronomers(天文学者)って、二つのアナグラムができますよね」

 おばさんはこちらを見た。その目には何の感情も読み取れなかった。

「 Moon starers(月を眺める者)、 No more stars(星はもう嫌だ)」

彼女は私の言葉を無視して、スマホをいじり始めた。ツイッターで夫の愚痴を投稿していて、膨大ないいね! とリプが集まっている。

「ツイッターでフォロワーを増やすのは簡単なの」彼女は呟いた。

「夫か義両親の愚痴を書けば良いからね。ノロケはフォロワーが減る。変なウンチクもね」

私は彼女の会話の意図を理解した。彼女は自分のビジネスに忙しいのだ。リプに返信する手付きは、書類をさばくよりも見事だった。


 法人営業第二課のデスクに戻るやいなや、伊藤に声をかけられた。

「黒川代理、そろそろ出れますか?」

「え、何だっけ」

 茶髪の猫毛から咎めるような目つきが覗く。彼の瞳は髪と同様に明るい茶色だ。出生時に男らしさと色素を置いてきたかのような、中性的な顔立ちをしていた。約束を失念された部下というよりは、記念日を忘れられたガールフレンドのようだ。

「中央化学の帯同ですよ」

「あれ、一緒に行くって約束した?」

「スケジューラー飛ばしてます」

  アウトルックのスケジューラーを確認すると、「作業時間」のところにしっかりと「中央化学工業 ワン社長 訪問 w/伊藤」が入り込んでいた。営業車のキーを得意顔でくるくるとまわす伊藤に、私は言った。

「承認、押してないんだけど……」

 彼の目が大きく見開かれた。この二十二歳はスケジューラーを飛ばしただけで伝わっていると思いこんでいたらしい。私はため息をついたが、彼を咎める気は起こらなかった。

銀行には暗黙の掟が多すぎる。稟議書に添付するWord文書では使用されるフォント、『~であると思料』『永年の一行先』といった語彙。手続きに記載されていないルールが山のようにある。勤続年数五年目で二つの支店を経験している私でも分からないことが多い。

「ま、良いよ。どうせ会議資料、作るだけだったし」

 あの訪問が厄災への一歩であることも、分からなかった。


 昼も朝と同じく見事な秋晴れが続いており、九月らしく深い青空が広がっていた。道路は空いていた。時間帯によっては「歩いた方が早い」と思うほどの混雑を見せる明治通りも、駒沢通りも。運転席の伊藤もすいすいと車を走らせることができて嬉しそうだった。髪も目も日に焼けた肌も陽の光を浴びて光っており、身体全体が生きる喜びを表していた。そんな彼は四十歳のミドル課長の目の敵にされている。いつも髪や肌の色を注意されては、困った顔で応対していた。それは私の嗜虐心をくすぐり、薄暗い喜びを呼び起こす。

私はこのまま心地よさに埋もれていたい誘惑を振り払い、上司の顔を作った。そして、どちらかというと窓ガラス越しの空を見て、切り出した。

「スケジューラーのことだけどさ……」ほぼ同時に、彼は言った。

「ドライブデートみたいっすね」

歌うような声色は、私の気を動転させた。彼は良い声をしている。低めで透き通った声。一見ちゃらんぽらんなので、初めは声とのギャップに驚かされた。しかし、たまに見せる誠実さから思うに、恐らく根は真面目なのだろう。彼の声は黒川代理という上司を退場させ、黒川礼子という女性が召喚されそうになる。

銀行で店内恋愛はご法度だ。痛い目にあった先輩たちを何度も見てきた。店内旅行の夜に十歳年上の事務職を妊娠させ、地方店に飛ばされた先輩。女子行員に恋文を送り続けていたことが発覚し、文書管理センターに左遷された課長。

「運転、上手だな」特に面白みもない、無難な返事しかできなかった。

「大学時代に、何度か運転してたんすよ」

慶應の頃か、と思った。助手席には女の子を乗せていたのだろう。東京が大好きで、東京らしい女の子を。私は沈黙を選んだ。特に知りたくもなかった。彼のスケジューラーは『夜予定あり』が多い。昔も今も遊んでいることは明らかだ。その『予定』に私が入ることはない。あと五歳若ければ、というしょうもないエモさを振り払った。今はただ抜けるように青い空の下で、灰色の車に揺られ続けていることにした。


 半年ぶりに足を踏み入れた会社は母校を訪れたかのような、ほろ苦い郷愁感を呼び起こした。楽しい思い出より、心にチクリと棘を残す出来事の方が記憶に残るものなのだ。

あの時は代表者変更書類の記入ミスを機に、二人の女性と仲がこじれた。経理女史と、食堂にいた事務のおばさん。女は他人のミスに厳しい。特に同姓の失敗に対しては。

社長は我関せずという顔をしておきながら、どこかよそよそしかった。私が彼の信頼を失ったことは見て取れた。見かねた支店長が伊藤の取引先デビューも兼ねて、担当先を変更させたのだった。

「懐かしいですか?」

「あぁ。渋谷に赴任してから担当してきた先だし」

あえて明るい声で応えた。信頼を失うことは私のような何も持たない者にとって、何よりも辛い出来事だった。しかし伊藤に言ってどうなる? 失敗は取り返せないのだ。

「当時から廃墟だったんでしょうね」

伊藤の冗談に笑いながら、二人でビルを見上げた。無機質な三階建ての建物は、戦火を乗り越えてきたかのように朽ち果てていた。剥げかかった看板が歴史を物語る。無人の受付を通り過ぎ、階段を上がりながら、私は言った。

「でもこういう建物、悪くないよ」

 背後からは伊藤の、肯定とも否定とも取れない声が聞こえた。

「ビープロの移転先。あそこはひどかった」

「渋谷駅近のシェアオフィスでしたっけ? 住所変更、僕がやりましたよね」

「そう。あのオフィス、嫌いなんだよ」

「えー。お洒落じゃないですか。コーヒー飲み放題だし」

 壁に描かれたアートな落書き、北欧デザインを彷彿とさせる椅子、広々とした机。コーヒーメーカではハーブティーやデカフェもどうぞ。アメリカの風が吹く洗練されたオフィスで、シリコンバレーだかなんだか出身の起業家たちが集まっていた。

シェアオフィスを訪れた時、芸能事務所のビー・プロダクション(ビープロ)の社長に入居者たちを紹介してもらったことがある。全員いけ好かない奴らだった。「え、銀行さんですか」と薄く笑う経営者もいた。毒を甘い砂糖で包むかのように、色鮮やかなオフィスが犯罪を隠蔽しているような印象を受けた。

入居者はだいたいがSaaSカンパニーだった。業界柄、まともな会社は一割に満たない。九割は誰も必要としていないものに『ニッチ市場』『ブルー・オーシャン』とラベルをつけて売りさばく詐欺ビジネスだ。芸能事務所は異色だが、社長がアメリカに留学していたため、その縁で入居したらしい。レッスン場や寮は別にあるため、タレントたちがシェアオフィスに行くことは滅多にないのだという。

ふと、ゆきぽよの顔が思い浮かんだ。彼女があそこにいても違和感はない。フォロワーたちに金を使わせる構図は、詐欺の手口と似ている。


 中央化学の社長室に足を踏み入れると、シェアオフィスの入居者が発狂しそうな光景が広がっていた。机の上にはタバコの灰皿と缶コーヒー、下には酒類の缶やボトル。革張りのソファには乱雑に書類が置かれ、室内の色は黒と茶と灰色で統一のみ。

「こういう部屋の方が、落ち着くんだよ……」

伊藤は肩をすくめた。椅子の上でくつろいでいたワン社長が、声を上げた。

「あぁ、伊藤くん。黒川さんも、久しぶり!」

 巨体を揺らして喜びを表し、椅子はギシギシと悲鳴を上げていた。彼はただのデブではない。嬉しさで垂れ下がった目、人懐っこく開かれた口はマスコットキャラクターを連想させる。短く切りそろえられた黒髪は、いつも丁寧に切り揃えられている。彼が六十歳だと判別できる唯一のものは目尻に刻まれた皺だけで、若々しさを保つことに成功していた。

「社長、どうしたんですか? 黒川代理も連れて来て欲しいって……」

「そうなんだよ。まぁ、座りなよ」

 私たちはソファに座り、ワン社長も向かいに腰を掛けた。彼は私だけに、鋭い一瞥を投げかけることを忘れなかった。

「実は、ちょっと頼みたいことがあるんだよねぇ」

 全身に悪寒が走った。指先が冷たくなり、嫌な予感がした。すぐに引き返し、店に戻るべきだと全身が告げている。しかしワン社長の細い目に捕われ、立ち尽くすしかなかった。

「知り合いが消えたんだけどぉ、探してくれない?」

 この子なんだけど、と見せられたスマホの画面は、見覚えのある顔だった。血まみれの腕でスーツのポケットに手紙をねじ込んできたインフルエンサー、ゆきぽよだった。


「どうして受けたんだよ、あんな依頼」

 帰りの車中で吠える私に、伊藤は涼しい顔で言った。

「だって、他行から十億付替してくれるんですよ。預金の目標達成です」

「見つかれば、だろ?」

「黒川さんならできるよねぇ、ってワン社長は言ってましたよ」

「あの、クソ狸……」

 利用されていると気づきつつ、社長から信頼を取り戻せるのではと期待してしまう。しかし見つからなかったら、また失敗することになる。私は気を紛らわせるためにスーツの右ポケットに手を入れた。煙草はない。禁煙中だと思い出し、酒を飲みたい気分になった。さすがに午後三時から飲むわけにはいかない。手にぶつかった四粒の錠剤が、余計に怒りを増長させた。

「その金で運用すれば、クロさんにとっても美味しくないですか?」

「別に。資料の修正も手間だし。ビープロの仕組債で元々、達成予定だったし」

目標を超過達成したがるのは支店長と新入行員だけだし、という言葉は飲み込んでおいた。

「俺だって、目標のために生きてるわけじゃないですよ」

 考えを見透かされた気がして、私は黙った。

「いつか、まちづくりをやりたいんです。そのためには、まず銀行で結果出さなきゃ。個人目標も、店の目標も達成したいんです」

結果か、と私は思った、彼のために会議資料を修正してあげても良い気がしてきた。どうせ支店長からいちゃもんが入り、修正せざるを得なくなるのだから。

「そういえば去り際に、社長から何か受け取ってましたよね。『もし気分が悪くなったら飲みな』って。大丈夫ですか?」

「あー。魔法の薬だよ、二日酔いが治るやつ」

「え、めちゃ羨ましいです! 俺にもくださいよ」

 私は迷い、二粒を切り取って渡した。お年玉をもらった子供のようにはしゃぐ伊藤の姿は、怒りと不安を霧散させてくれた。まるで薬のようだった。


店に戻り、気が進まないが会議資料の作成を再開した。周りの行員も同様に濁った目で画面を見つめ、会議でどう嘘をついて乗り切ろうか画策しているようだった。

法人営業部門の業務は六割が会議資料、三割が融資部向けの稟議、一割が顧客のために割かれる。これが利益を生むわけがない。銀行業界は斜陽産業であることに違いなかった。しかしそんなことはどうでも良い。私たちは月極で給料をもらっている。退屈だが愛すべき日常、それがサラリーマンなのだ。

電話が鳴り、伊藤が取った。

「黒川代理。外線一番、ビープロの横田さん。外線一番です」

私はボタンを押して、受話器をあげた。夕方の電話は不吉だ。ろくな話を持ってこない。

「あのですね、謝らなきゃいけないことがありまして」

 副社長の横田氏は、いつも以上に早口にまくしたてた。

「予定してた月末の仕組債、難しくなったんですよ」

「え?」

「うちに所属する予定だった子が、蒸発しまして……」

「ゆきぽよですか」

横田氏の肯定の意が耳に入る。私は心の中で、退屈で愛すべき日常に別れを告げた。


私は決めかねていた。あの女を探した方が良いのだろうか。しかし過去を視ることが伴う。それは地獄のような頭痛と吐き気に襲われることを意味する。

伊藤に声をかけようと、彼のデスクがある斜め右向かいを見た。彼は別の電話に応対していたが、私の視線に気付いたらしい。デスクに置かれたキーボードを叩き始めた。数秒後に私の目の前で、パソコンの画面が新着メールの通知を告げた。それが彼からで、確認し、開いた。


件名:中央化学

本文:ワン社長から。ゆきぽよの旦那さんと連絡が取れたって


 返信を迷っていると、追ってメールが来た。


件名:Fw:中央化学

本文:旦那さんとは今日二十時にここで待ち合わせ。来ますか?


 食べログのリンクがご親切にも貼られていた。渋谷宇田川町にある雰囲気のいいフレンチ・ビストロだった。この店を選ぶあたり、旦那の趣味の良さがうかがえる。銀行員でこの店を選べる人材は、百人に一人くらいだろう。

 伊藤が目配せしてきて、私は頷いた。逢瀬を重ねる恋人のようだと思ったが、ふと虚しくなった。伊藤のような輝かしい未来を約束された男性が、私のようなサラリーマン家庭出身の早稲女を選ぶわけがない。私の人生には悲劇がない代わりに、逆転劇も見込めなかった。淡い悲しみに包まれていると、通話中の伊藤がこちらを見て、言った。

「黒川代理、社長が代わって欲しいそうです。一番です」

 内線一番のボタンを押し、受話器を上げた。会社員にはセンチメンタルになる暇もない。

「ハロー。あの薬はどぉ? 『二日酔い』は?」

「まだ飲んでませんよ」まだ探していないことが伝わるように返した。

「あれ、好きなだけあげるよぉ? 彼女を探してくれれば!」

 見つけてくれれば、という言葉でないところに底意地の悪さを感じる。しかし何とも魅力的な提案だった。過去を視ることは気が引けるが、気が狂いそうになる頭痛と吐き気が起きないなら、話は別だ。預金も運用の目標も達成できる。メリットがデメリットを上回り、私は心を決めて電話を切った。


 指定されたビストロに到着して、食べログが珍しく嘘をついていないことに感動した。小ぶりだが木の温もりに包まれた、フランス郊外に住む趣味の良いおばあちゃんの家のような、居心地の良さが漂っていた。入ってすぐ手前のテーブルに座る四十近くの男性が、軽く手を上げた。彼の他には女性の二人組しかいないので、間違いなく彼が待ち合わせの人物なのだろう。

彼は不思議な存在感を放っていた。人懐っこそうな温かい目をしている。この年代で柔らかい雰囲気を漂わせている人間こそ、一筋縄ではいかない人生を送ってきているのだ。

「こんばんは。針谷はりやです」

男性にしては少し高いが、不快ではない声だった。彼は立ち上がり、軽く頭を下げた。仕事終わりと思えない程ラフな格好だ。くたびれた様子だったが、彼を疲れさせるものは仕事だけではないのだろう。席につきながら伊藤が尋ねた。

「あれ、お子さんは?」

「実家で預かってもらっています」

 回答しながら椅子に座る彼を、私は観察した。肩につくかつかないかの髪は、ゆるくパーマがかかっている。黒いキャップを深く被っていて、Tシャツは赤と黒のチェック。成功したデザイナーかアーティスト、いずれにせよ渋谷によくいる人種を思わせた。私は言った。

「お仕事は何をされてるんですか?」

「公務員です。役所で働いています」

 私と伊藤は顔を見合わせた。オフィス・カジュアルが訪れる最後の業界。それを争うのが銀行か公務員だと思っていたからだ。店員がメニューを持ってきて、彼は慣れた様子で何かを注文した。

「あ。元々アメリカに長く居たので、日本は久しぶりなんですけどね」

店員がスパークリング・ワインを三杯運んできた。サービスだと言う。彼は店の常連らしい。こういう店に通う夫を持つ育児中の妻の気持ちは、一体どんなものなのだろう。「私も連れてけよ」と嫉妬とやるせなさに包まれるのだろうか。

乾杯のち、彼は一口飲んでから言った。

「妻は、突然消えたんです」

「予告してから消えることはないでしょうね」と言う伊藤を私は肘で突いた。正直は美徳だが時に仇となる。針谷さんが居心地悪そうに身体を揺らしたので、本題に入ることにした。

「奥さんを今朝、渋谷のスタバでお見かけしました。文化村通りの……」

 彼は冷ややかな目で私を見つめた。血まみれの腕で手紙を見つめていたことは、彼の射抜くような視線により、舌の上で溶けてしまった。

「警察に話しました?」と針谷さんが言い、「いいえ」と私は応えた。完全な沈黙が場を包んだ。

ウェイターが軽やかな足取りでチーズの三種盛りとマッシュルームのフリットを運んできた。どちらもシンプルで大ぶりな器に盛り付けられている。見るからに美味しそうなそれらに目もくれず、彼は続けた。

「彼女のことは、よく分かりません。元々そんなに仲が良いわけじゃない。彼女が日中、何してるか知らないし。ただ、可能性はありますね。家はあの辺りなので」

 私はパンにチーズを乗せ、口に運んだ。山羊シェーブルのチーズはほどよく酸味が聞いていて、まろやかだった。マッシュルームもジューシーで塩加減が程よい。私はこの店を食べログのリストに加えることにした。

スパークリングを飲み、針谷さんは貧乏ゆすりを始めた。男性が帰りたい時に本心を隠すためによくやる仕草だ。私たちが役立たずの銀行員で、ただ食事を楽しんでいるだけに見えるのだろう。だいたいの銀行員は会食でそのような姿を見せているからだ。

店員さんにビールを注文する伊藤を見ながら、私は針谷さんに言った。

「私は他人の所有物に触れると、その人の過去が視えます」

彼は驚く振りをしたが、バカを見る目つきそのものだった。私は空気を読まずに続けた。

「今朝彼女に触れた時、SNSで罵倒されてる場面が視えました。おそらく彼女が失踪したのはクソリプが原因じゃないでしょうか」

「他に何か視えましたか?」

「いいえ。ただ、視ようと思えば視えます。彼女の持ち物を、私は一つ持っているので」


 唐突に針谷さんは笑い出した。細い体からそんな大きな声が出るのかと思う程だった。店の奥にいる女性客が、ちらちらと視線を送ってきた。確かに温かく和やかなビストロに似つかわしくない。

「なるほどね。すごい能力だな」

「針谷さん……」と伊藤が言いかけ、「ハリーで良いよ。そう呼ばれてる」と制された。

 ハリーさんはグラスに残されたものを飲み干した。軽く手を上げて、店員に白ワインを注文した。そして私の肩越しにある何かを見つめるような目で、言った。

「クソリプか。原因はそれじゃない。パパ活だよ。警察が熱心に調べないのも、納得がいく」

「パパ活? なんですか、それ?」

「クロさんは本ばっか読んでないで、流行も追った方が良いっすよ……」

伊藤が説明してくれた。パパ活とは男性と過ごす対価として金をもらうことらしい。犬の散歩に付き合う、といったライトなものから、通称『大人』で知られる肉体関係まで、活動の幅は広い。その為、会社員と兼業で働く子も多いのだという。

「普段は会社員の子だと、活動は土曜日ですね。朝パパとお茶して、昼に別のパパとランチ。夜に飲み会をハシゴ。一日四件で十五万は稼げるみたいっすよ」

「相手はどうやって見つけんの?」

「専用のマッチングアプリがあるんだよ」と、ハリーさんが見せてくれた。指先がきれいだった。彼も遊んでいるのだろう。それに気付いたのか、伊藤は興奮した様子で言った。

「貯金が二千万超える大学生もいるんです。その金でエステサロン経営したりしてますよ」

「やけに詳しいな。やってんの?」

私が呆れた声を出すと、慌てて返してきた。

「いえ、やってないっす! でも、パパ活女子と結婚すれば玉の輿に乗れるかなって。まぁ、そんなにかわいくないんですよね。ラウンジ嬢レベル。顔ならキャバ嬢の方が……」

私はゴミを見るような目で彼を見つめた。銀行員というのは業の深い職業だ。金を扱う仕事をしていると、魂まで拝金教に蝕われてしまうらしい。

「妻も月七十はもらってたな。他に小遣いで百万円の札束とか、ポンって渡されるらしい」

いつの間にか白ワインを飲み干したらしいハリーさんは赤ワインを飲んでいた。酔いが回ってきたらしく、口数が増え、上機嫌になっているようだった。疲れた様子はもはやない。人生に裏切られた者が見せる、年月とともに醸造された色気に代わっていた。

「公務員の俺より稼いでたよ。さすがに子供を放置して飲み行ってた時はやりすぎだと思ったけど」

彼は私の視線を何か勘違いしたらしい。物欲しげな顔をしていたのかもしれない。

「黒川さんもやってみたら? 何なら、俺とする?」と笑顔で誘ってきた。


「クロさんがパパ活!」

 私が相手をぶっ飛ばすような一言を探していると、伊藤が間髪入れずに声を上げた。彼の爆笑が場を包み、そのまま言葉が続いた。

「確かにモテそうですよね。色白だし、肌きれいだし、ストレートの黒髪ロングだし。背が高くて女王様気質だから、ドMの経営者とかに好かれそう」

「みんなドMだよ。経営者なんて」

男二人がハイタッチをする中、私は勢いよく目の前のグラスを空にした。酒は便利だ。何が起きてもアルコールのせいにできる。伊藤の顔が青ざめていく。私は彼のビールを手から奪い取り、飲み干して言った。

「言わせてもらうけどな。あんたら二人はゴミだ。ゴミ・オブ・ゴミ」

 彼らの視線が私に集まった。珍しい虫を見るような顔をしていた。

「確かに銀行員の給料なんて、あいつらに比べたらクズみたいなもんだ。収入という軸では劣っている。でも私には美学がある。だから、しょうもないことはしない」

「へえ、どんな美学かな」

 愉しそうに見下ろすハリーさんを、伊藤が緊張した顔つきでちらりと見た。

「未来に繋がらないことはやらない。法人営業は将来どこかで役に立つ。しょうもない仕事だけど経歴にはなる。履歴書にパパ活なんて書けるか? 金のために時間を売るなんてごめんだね。それをコスパと呼ぶなら、私は限界までパフォーマンスが悪い人生を選ぶ」

「素敵だね」

ハリーさんは意外にも熱っぽい声で呟いた。初対面の時よりもセクシーに見えた。ワインのせいもあるかもしれない。私はチャンドラーの小説を思い出した。アルコールは恋に似ている、と登場人物は言った。

最初のキスは魔法のようだ。二度目で心を通わせる。そして三度目は決まりごとになる。あとはただ相手の服を脱がせるだけだ。


「君ならパパ活がバレそうになって、失踪したりしないんだろうね」

「同じ女性としての憶測に過ぎませんが、彼女が消えたのは身を隠すためじゃない」

彼はたいして興味がないらしく、うつむいてワインを飲んだ。目はキャップで隠れていて表情は読めない。口元はどこか楽しげに歪んでいた。まるで殺人を終えた犯人のように。私は慎重に言葉を選んで続けた。

「ファンだかアンチだかの期待に応えることに疲れたんですよ。妻、母、インフルエンサー。誰かの人生を生きることに疲れたんだ。だから整形を繰り返して、別の自分になろうとした。満足のいく自分にね。そして消えた」

「へえ。よく分かるね。まるで自分のことみたいだ」

「分かりますよ。女の人生は承認欲求との戦いだから」

 私も人のことを言えない。取引先の社長や経理、支店の課長や支店長から信頼を得ることで、自分は生きるに足る人物だと実感できる。フォロワーやいいね! の数で自分を満たす彼らと何の違いもない。

沈黙が重い雲のようにテーブルを包んだ。伊藤は黙って水を飲んでいる。ハリーさんは少し遠くを見て、口を開いた。

「子供が産まれてから、全てが狂ったんだ。俺は仕事が忙しくなった。ちょっと家を空けたら、あんな動画を上げてて……」

「あんな動画?」

「観たほうが早いかな」

スマホで見せてくれたのは、ひたすら赤ちゃんに授乳をする動画だった。

「ゆきぽよの授乳動画。めちゃくちゃバズりましたよね」

 解説する伊藤を睨もうとして、止めておいた。彼女でもない私にそんなことをする権限はない。

「そのシリーズがバズったんだ。料理の投稿してた事務職女子が、一気にインフルエンサーだよ。そしたらクソリプが来て、慌てて整形を始めた。手術って金がかかるだろ。だからパパ活に走ったんだよ。こんなグッズも出してね」

 彼はグッズたちをカバンから出した。下敷きらしい。毒々しいピンク色で、銀行員として平凡なセンスを持つ働く私には到底理解できない代物だった。原宿の竹下通りあたりなら理解されるのかもしれない。

「ちっとも売れなかったよ」

「でしょうね」

 伊藤の軽口は場を和ませた。親しい友人の間に流れる時間が、天使のように舞い降りた。私は下敷きを手に取って見つめた。小さく『A persecution』と書かれている。迫害。アナグラムではI run to escape(逃亡する)だな、と思ったが、言わないでおいた。


場の流れが代わったのは、伊藤がトイレに立った時だった。私は何故か「行くな」と引き止めなくてはいけない気がした。しかし押し留めた。後に気付くことになる。直感には従った方が良いのだと。

「ねえ。彼女の持ち物って、何持ってるの」

 ハリーさんは内緒話をするように、無邪気に聞いてきた。

「あの彼にあんまり聞いてほしくない様子だったから、さっき聞けなくてさ」

「あぁ。それは……」

 私は手紙のことを言おうか迷った。言うべきなのだ。だが、何かが引っかかっていた。ハリーさんが話した失踪の原因は、理解をしているように見せかけて、答えになっていない。

「これですよ」

 私は薬を差し出した。ワン社長からもらったものだった。

「薬? 錠剤だね」

「生理痛に効くって、女性の間では有名なんです」

 私は偽りの笑みを浮かべた。

「どうしてこんなもの、黒川さんに渡したんだろうね」

「私が体調悪そうにしてたからでしょう。過去を視ちゃったから」

 彼は薬を私に返してきた。

「今は触れても何か視えないの?」

「ええ。普段は自分から視ようとしない限り、視えません。よほど強い感情がある時は、勝手に視えてしまうこともありますが」

 薬をポケットに戻すと、鋭い痛みが指先に走った。錠剤の入ったケースの角で手を切ったらしい。突如、中央化学の社長室が目の前に広がる。


彼はチシャ猫のように笑いながら、錠剤を小分けに切り分けていた。「気をつけて……」それは甘美な歌のように、部屋に響いた。

「飲むのは一錠。二錠飲むのは、やばい時。絶体絶命の危機が訪れて、命をかけてでも守りたい何かがある時だけ……」

愉しげに揺れる瞳は、まるでそんな未来が訪れるかのような口ぶりだった。 


「大丈夫かい? 水飲む?」

 ハリーさんの声で現実に戻された。私は渡されたグラスの水を飲み、なんとか声を出した。

「物の中には、過去を視せようとしないものもあるんですが……」

 私は話すことで何とか理性を保とうとした。

「血を吸わせると、視ることができる……いや、勝手に視えてくる」

 彼はほとんど訳が分らないといった顔をしていた。いつもの頭痛と吐き気の波がじわじわと押し寄せてくる。グラスに映った私は、ありとあらゆる暴力が降り掛かったかのような悲壮感を漂わせていた。ハリーさんは心配そうな顔をしてお会計を頼んでいる。薬を飲もうとしたが叶わなかった。目の前は真っ白になり、世界は途絶えた。


 現実はホテルのベッドの上で再開した。従業員の愛想の無さと低サービスが売りのラブホテルだ。渋谷にしては安いため、学生や手っ取り早く済ませたい会社員に人気がある。部屋を見ただけで分かるのは、過去に担当したことがある取引先が経営していてからだ。

渋谷そのものはゴミ箱をひっくり返したような街だ。しかし、そのゴミ箱にはキラキラした装飾が施されており、中にある薄汚い欲を覆っている。このホテルの経営者は覆い隠すことすら諦めていた。据えた臭いがところどころから放たれている。築四十年の歴史の中で、掃き溜めの役割を堅実にこなしてきたのだろう。


部屋にいるのは私だけのようだった。ラブホテルは一人では入ることができない。私をここに連れてきてくれたハリーさんか伊藤は、外に出ているのだろう。

私は立ち上がってトイレに入り、手を洗った。タオルで手を拭こうとして、止めておいた。ここのホテルの経営者から過去に部屋で行われてきた数々の行為を聞いていたからだ。その行為が染み付いたもので手を拭くことは、綺麗になった手を汚すように思えた。ハンカチを持って来たか確認するために、無意識にポケットに手を入れた。気付いた頃には遅かった。あの手紙に触れていたのだ。


 映像が洪水のように流れ込んでくる。高級住宅街にある、2LDKのマンション。壁紙はデザイン性の高いものに張り替えられ、カウンターキッチンにはこだわりの一枚板が使われている。床は酒の瓶、絵、バッグ、散乱した絵本やおもちゃだった。

男の子が一人でリビングに座っている。外の暗さからおそらく真夜中だが、カーテンは開け放たれている。部屋はめちゃめちゃだが彼は気にする様子もなく、鼻歌を歌いながらダイニングテーブルの上で、何かを描いている。

「できた! ママと、ぼく!」

 笑顔で手を繋いでいる、棒人間のような二人。

「これ、お手紙にしよ……」

 彼は真剣な顔つきで、文字のようなものを書き始めた。


「……っ!」

覗き見している場合ではない。目の前の景色を振り払い、まず頭痛が、次に吐き気が襲ってきた。社長からもらった錠剤を取り出す。一錠を飲み込んだ。急速に頭痛と吐き気がひいていく。効果は抜群だ。先程の不穏な空気が漂うリビングでの一場面は、すっかり目の前から消えていた。

ふとポケットにスマホの振動を感じた。伊藤からだ。他にもワン社長から着信が数件入っている。悪い予感がしつつ、私は洗面所に立ったまま電話に出た。

「クロさん、今どこですか?」

「渋谷だよ。具合が悪くなって休んでる」さすがにホテルだとは言えなかった。

「薬、飲みました?」

「さっき飲んだよ」

「あの薬、飲んでみたんです。そうしたら店の人に警察呼ばれて、連れて行かれちゃって」

「は?」

「多分ですけど、あの薬を飲むと……」


 割込通話が入った。ワン社長からだ。本来なら伊藤との通話を切り上げてから出るべきだが、今は事情を知っていそうな方を優先させた。私は伊藤に詫びを入れて、社長からの電話に出た。

「ごめぇん。間違えた薬、渡しちゃったみたい」

「ちゃんと効きましたよ」

「そう? そんな作用もあるのかな。実はあれ、『ゆきぽよに見える薬』だったんだよねぇ」

「は?」

 私は鏡を見た。先程までの黒川礼子は、透き通るような肌と青い目を持つ、見事なブロンド美女のゆきぽよに変身していた。

「どうしてそんなもの、私に渡したんですか」

「それはぁ、彼女が殺されそうになってたからねぇ……」

彼のためらいは、男の子のリビングでのお絵描きを思い起こさせた。厄災前の、小休止。

「旦那さんに」


部屋に人が入る音がして、咄嗟にスマホを置いてトイレの鍵をかけた。「飲み物買ってきたよ」というハリーさんの声は「あれ、いない」と続く。少し沈黙があり、洗面所のドアノブがまわされた。

「いるんでしょ。返事もなし?」

 ガチャガチャと不快な音が響く。何か武器になりそうなものを探すが、安ホテルなので備品も最小限だ。T字カミソリすらない。私はタオルを触り、この風呂場の過去を視た。


夏のある日、冷たいシャワーを浴びせあっている男女が視える。七十歳を過ぎているだろうジジイと孫くらいの女性だったが、とにかく男女だ。歓声、水音、度々起こる老人の咳は心和むものがあった。ずっと視ていたかったが、今はそんな場合ではない。私はシャワーの温度を下げ、出力を最大限にした。


「ま、良いや。開けちゃうね」

薄手の長方形をしたものがドアの隙間を激しく上下する。用を済ませたそれが落下した時、それらが下敷きであると気がついた。A persecution(迫害)。 I run to escape(逃亡する)。彼が現れるや否や、冷たいシャワーを浴びせたが、水もしたたる色男に、妖艶な笑みをうかべさせただけだった。


「あれ? お前。どうしてここにいるの?」

長髪の男は水に濡れると色気が出る。状況が状況でなければ両手を上げて歓迎していただろう。彼は私の警戒心に気付いたのか、獲物をとらえた豹のようにゆっくりと近づいてきた。濡れた腕で私の腕をつかみ、無機質な声で言った。

「やっぱり俺を騙してたんだ。ワン社長とグルで?」

「違う。そもそも私はあんたの妻じゃない。薬でそう見えてるだけだ」

「クスリ? あぁ、お前よく飲み会で、怪しい奴らとつるんでたもんね」

 ぎらつく彼の目は欲情しているように見えたが、性的興奮から来るものでないことは明らかだった。どちらかというと映画に出てくる凶悪な連続殺人犯のそれだった。彼は私を引き寄せ、意外にもそのまま抱きしめた。

「俺がもっと子供の面倒、見てれば違ったのかな……」

 感情を押し殺した声が洗面所に響く。泣き方を忘れてしまった男性の声だった。

私は彼に身を任せた。このまま解放してもらえるかもしれないと、心のどこかで淡い期待を抱いていた。彼は顔を上げた。吸い込まれるように黒い目が、私を捉えた。

「ねえ。また髪、触ってくれない? 昔やってくれたみたいに」

幼い子供がお菓子をねだるような、甘い口調で彼は言った。私は彼の髪に手を伸ばし、あることに気が付いた。彼の髪の毛が伸びている。ビストロでは肩の長さまでだった髪が、胸の辺りまで到達していた。

なかなか髪を触ろうとしない私に痺れを切らしたのか、強引に手をつかんで頭に持っていかれた。ぎこちなく髪を触っていると、どこからか泣き声が聞こえてきた。幼稚園児くらいだろう。さすがに受付でストップをくらうはずだ。私は言った。

「どこかで男の子が泣いてないか?」

「……お前、自分の子の声も忘れたの」

怒りを全面に表して言い終わるや否や、彼の髪は急激に私の手に絡みついた。強い感情を持つものに触れてはならない。勝手に流れ込んでくるからだ。気付いた時には遅かった。髪に触れた指先から、記憶が視えた。


先程と同じリビングだった。絵を描いていた男の子はテレビ前のソファに座り、アニメを観ている。泣き疲れた顔と空虚な目で、画面を見つめていた。アニメ自体に興味があるというよりは、何か気を紛らわせるものが欲しいのだろう。

廊下からリビングへ続く扉が開き、ハリーさんが入ってきた。男の子がいるソファへ近づこうとして、カウンターキッチンの横を通り、顔を歪めた。

「何、この臭い」

すべてが過剰に消毒されている現代に、およそふさわしくない臭いが漂っている。原因ははっきりしていた。シンクだ。食べかけの白米や鶏肉やらがたまり、コバエが沸いている。かつては美味しかったはずの食材たちは、今や憎たらしいだけの存在となっていた。

「ママは?」

男の子は答えなず、空虚な目でアニメを観ている。それは口で物語るよりも明白だった。母親の不在を悟ったハリーさんはスマホで連絡を取り始めた。

 

数分後、息を切らせたゆきぽよが帰ってきた。ハリーさんは腐った食べ物に向けていた目と同じ視線を彼女に向けた。

「どこに行ってたの?」

「ち、ちょっとコンビニに買い物……」

「ばっちりメイクして、その服で?」

 ハリーさんは彼女を感情を欠いた目で見つめた。彼女は一瞬ひるんだが、気の強そうな目を彼に向けた。

「な、何よ。あんただけ飲み行って……あたしだってリフレッシュしたいわよ」

「子供と家にいるだけだろ」

「あの子と一緒で休めるわけないじゃない!」

「あのね。俺は日中、仕事してるんだよ。金、稼いでるの」

ハリーさんはうんざりした様子で男の子に目をやった。男の子は不安げな顔で成り行きを見守っている。ハリーさんは苦しげに顔を歪めた。幼い息子に辛い思いをさせたことに罪悪感を覚えたようだった。

彼が怒りを帯びた目でゆきぽよを見ると、意外にも彼女は笑っていた。

「お金なら、あたしだって稼いでるわよ」彼女はスマホでTikTokの画面を見せた。

「たかがフォロワー千人だろ」

「でもライブで三十万は使ってくれる。乳、見せればもっと行くかも」

彼が口を開きかけたところでスマホが鳴る。彼のものだった。硬い表情で何かを話し、ため息とともに通話を切った。

「職員が逮捕された」

「そんな嘘、よく付けるわね」

「アプリで出会った女性を睡眠薬で眠らせて暴行。もうすぐニュースになる」

 ゆきぽよが何か言いたげな視線をよこし、彼はそれを制すように短く言った。

「お前は家にいろ。育児放棄、ネグレクト。犯罪だから」

 慌ただしげに彼が去った。彼女は背中を見つめていたが、目からはどんな感情も読み取れなかった。怒りと悲しみと諦めを一度に混ぜたら、こんな顔ができるのかもしれない。

「ママ、ぼくね……」

男の子にすり寄られる。しかし彼女はうんざりした顔で舌打ちをした。まるでそこに救いがあるかのように、スマホをいじり始めた。

「あー、ムカつく。もう無理……え、何?」

「おてがみ、かいたの。ママにあげる」

 小さな手に握られた紙くずを、彼女は受け取った。男の子の期待とは裏腹に、視線はすぐにスマホへと戻っていった。

「飲み直して来て良い? お留守番、できるよね?」

「うん。おてがみ持って行ってね。もういっこは家にあるから。おんなじだよ」

「あー、これね。ありがと。良い子ね」

手紙が母親のカバンに入れられたことを確認し、男の子は微笑んだ。この夜のために、ずっと練習してきた笑みだった。


 次の瞬間、現実に戻された。頭が割れるように痛い。吐き気をもよおし、髪の毛の拘束が緩んだ隙に、便器に向かって吐いた。トイレは渋谷中の背徳感をかき集めたような臭いがして、嘔吐の勢いを増長させた。マッシュルームもチーズもワインも、今となっては全てが悪臭の原因でしかなかった。

「あれは私じゃない……」

 精一杯の抗議も彼には無駄のようだ。彼は舌打ちとともに私の腕をつかみ、身体ごとベッドに放り投げた。馬乗りになった彼を見ると、髪の毛がまた伸びていることに気付いた。それは伸び続け、再び私の指先に絡まった。

「覚えてないのか? この後どうなったか」

 髪の毛はまたもや私を、あの悪夢に送り込んだ。


リビングにあるテレビの前にはテーブルがあり、男の子が描いた力作が置かれていた。ふと大きな揺れが起こる。地震だ。男の子はぐらぐらと揺れるテレビを、はっとした顔で見た。今にも倒れそうだ。

「ママのおてがみ!」

男の子はソファから飛び降りた。テーブルへ走り、『おてがみ』を取ろうと手を伸ばした。

「先程の地震は余震と思われます。本震に備えて……」

テレビは臨時テロップを流しながら、台の上から倒れた。鉄の塊は彼の頭上に倒れ、角が彼の目を突き刺した。


「嘘だろ」

声を出すと、ベッドで私を押し倒している彼と目が合った。

「すぐに病院に運ばれていれば助かったんだ。けどお前は外で飲み歩いてて、発見が遅れた」

 私は血まみれの腕を見つめていた女性を思い出した。あの血は息子のものだったのだ。

「これを飲め」

ペットボトルの水と睡眠薬を渡された。髪の毛の拘束が緩む。彼の髪の毛も本来の長さに戻っていった。

「代償を払うんだよ。承認欲求と、稼いだ金の」

解放された手を使い、私は水を飲んだ。少し頭がはっきりしてきた。もう一度、朝のトイレで視た彼女を思い出す。彼女はそれしか頼るものがないという表情で手紙を見つめていた。私はスーツのポケットに入った紙を思い出し、それに触れた。


ごめんね、ごめんね、ごめんね、ごめんね。でも、これ以上は無理だよ。


 居酒屋へ向かうタクシーの中で、ゆきぽよはシートにうずもれていた。

「あの子が産まれた日には、世界で一番大事にしようと思ったの。でも、どうしてこうなっちゃったの……」

運転手さんは困った声で、はぁ、と言った。彼女はフロントミラーに映る自分を見つめた。ヒアルロン酸とボトックスを入れ、削り、切り、整えられた顔だ。しかし全てを台無しにするくらいひどい顔をしていた。

西麻布のバーへの到着を運転手に告げられ、カバンをあさった。そこには手紙が入っていた。広げて見ると、男の子とママが笑顔で遊んでいる絵が描かれている。上に書かれた下手くそな文字は『まま だいすき』。

「すみません、やっぱり今来た道を引き返して……」

 そうして、ひどい揺れが起こった。


「は……はははは!」

突き上げるような笑い声。それが自分のものだと気付くのに、数秒を要した。身体が喜びで満ち溢れ、腹の底から力が沸いてくる。ハリーさんの手から睡眠薬を取り上げ、床に放り投げた。唖然とした顔をした彼の表情を楽しみながら、私は言った。

「もう、どうでも良いよ。私か誰かなんて。誰を救うべきか、はっきりしたからな」

 憎しみで彼の顔が歪む。それを真っ直ぐ見据えて続けた。

「男はバカだから分かんねえか? 誰でもああなるんだよ。動画がバズったり、効率よく稼げたり、子供が産まれたらな」

「へえ、開き直り? 醜いね」

 射抜くような目に見下される。自分は上に乗られて圧倒的に不利な状況にあるが、言葉は止まらなかった。

「開き直るしかないよ。過ちは誰でもある。そこから修正していくもんだろ。一度でも間違ったら殺すのか? じゃあどうして神様は犯罪者を野放しにしておくんだ?」

 彼を睨んだまま、ポケットに突っ込む。手は忌々しい薬にぶち当たった。一粒飲んだ今、私はゆきぽよになっている。じゃあ、もう一粒飲むと? 確認前に電話は終えた自分を呪った。いつだってそうだ。手遅れになってから気付くのだ。運とタイミングの悪さが、黒川礼子の人生には重低音のように響いていた。それらをぶち破って生きていくしかない。だって―――

「人生はな、いつだって、やり直せるんだよ!」

 薬を飲み込んだ。押し寄せてくる吐き気と頭痛に襲われながら、なんとか意識を保つ。ポケットに入っていた『おてがみ』を取り出し、彼はそれをひったくった。すると手紙からみるみる血が溢れてきた。


血液はものすごい勢いでベッドを覆いつくし、シーツの吸水許容量を超えて床を覆い始めた。それを無言で眺めている私たちの存在に気付いたかのように、赤い液体は動きを止めた。そして彼の身体にまとわりつき始めた。

「なんだ、これ……!」

彼は身体を起こし、振り払おうとベッドの周辺でもがいている。彼の努力もむなしく、完全に血液に取り込まれてしまった。血液は女性の姿となり、完全な人間へと変貌した。血まみれの手で手紙を見つめていた女性へ。


「あいつがあたしを殺そうとしてたのは」

血の気が引いた顔で、ゆきぽよは言った。もう今朝トイレで見かけた時のような、虚ろな表情ではない。決断に慣れていない人間が何を決めた後に見せる、愚かで泣きそうな顔をしていた。

「気付いてたわ。だから他人をあたしだと思い込むように、細工をしたの」

 ぽかんと口を空けて彼女を見つめる私を一瞥し、彼女はベッドから床に降りた。私はベッドに腰を掛け、仁王立ちをしている彼女と見つめ合う形となった。この図は長いホテルの歴史の中で始めてかもしれない。

「疲れてた。育児にも仕事にも、人生にも。蒸発したいって、いつも思ってた。でも子供がいるじゃない。だから別の人間に『ゆきぽよ』になって欲しかったの」

「じゃあ、どうして私に手紙を渡したんだ」

 彼女は大きな目を更に見開き、驚いた様子で私を見た。

「社長から聞いてなかったの?」

「何も」

「なのに手紙を受け取ったわけ?」

この手の感情を隠さないタイプの人間は苦手だ。知性がまるで感じられない。国内最大のメガバンクでは、感情を隠すことだけは長けている人間が多い。そのため久々にこの手の人間と接触し、私は戸惑っていた。

「あんたが勝手に入れてきたんじゃないか」

不快感を抑えて言った。感情的になると相手と同じレベルまで堕ちてしまう。

「それは、ワンさんに言われたのよ……」

彼女はバツが悪そうにうつむいた。この間抜けにも羞恥心があるとは驚きだった。私は彼女を嫌いになりかけていた。女同士は第一印象で性格の不一致が分かる。この印象はほぼ覆らない。

「……黒川さんなら何とかしてくれるだろう。彼女が期待に応えなかったことは一度もなかったんだから。僕は彼女を信頼してる、って」

最も欲しかった言葉を、くれない限り。


こうして私は彼女と仲良くなりました。インフルエンサーという、社会の上層にいるのか底辺にいるのか、どこから巻き上げた金で生きているのか分らないような有象無象たちと、渋谷で楽しい夜を過ごしましたとさ。めでたし、めでたし。


「そんな話、俺が信じると思います?」

 翌日の昼間。中央化学の駐車場で、運転席の伊藤が声を上げた。

「いきなり飲食店から消えられた矢先に連絡きて、ホテルに呼び出されて」

「はいはい。悪かったって。今夜の飲み会、伊藤の分は私が出すから」

「え。僕のディール祝いなのに、タダじゃないんですか?!」

 午後一時のスマホのアラームが鳴り、伊藤は舌の上で言葉を溶かした。不機嫌そうな彼の顔を見て、私は言った。

「感情を出されるも、悪くないな」

「なんですか?」

「いや、別に。時間だぞ、急ごう」

ビルへ向かう伊藤の背中を見つめながら、私は昨晩の最後の会話を思い出していた。


「僕は彼女を信頼してる。って」

 この言葉を絞り出した彼女は惨めだった。TikTokでバズった経験があるどころか、投稿する出来事なんて人生でひとつもないように思えた。人生を頑張って生きた結果、裏切られ、疲れ果てた人間の顔だった。人間というものは不思議なものだ。自分にひとつでも似ているところがあると、全てを許してしまうのだ。

「……まあ、良いよ。結果としてどうにかなったから」

 疲れが一気に襲ってきた。ベッドに腰をかけ、時計を見た。経過時間からして休憩でなく宿泊だろう。朝まで時間がある。ジャケットを脱いで入り口付近のハンガーにかけた。ベッドに横になり、掛け布団を被った。すぐにでも眠りにつくつもりだったが、彼女の呆れた顔が遮った。

「あたしに聞かないの? どうして殺されそうになったか」

「聞かない。だいたい視えたから」

 彼女はぎょっとして、すぐに冷たい無関心に戻った。それは賢明な反応だった。東京でうまくやっていくには無関心が一番だ。人に迷惑をかけず、人に迷惑をかけられない。これが都市部で最も好かれる人間の条件なのだ。私は地方出身だが、五年間の東京勤務で身も心も東京の人間になってしまったのかもしれない。

「息子くんの目、治ると良いな」

 私の呟きは彼女に聞こえたらしい。彼女は微笑んだ。

「あぁ、それなら大丈夫よ。あいつをアメリカの病院に飛ばしたから。アメリカに知り合い、多いみたいだしね。何とか交渉して手術を受けれると思う」

 弾むような声に安堵の波が押し寄せ、目をつぶった。もう何も見るべきものは無い。

「銀行員さんはおネムかしら。最後に良いこと教えてあげましょうか」

薄目を開けて彼女を見ると、楽しげに続けた。

「社長に聞いたの。黒川さんをあたしだと思い込ませて大丈夫? って。そしたら何て返されたと思う? 『あれくらいの男に殺されるタマじゃない。黒川さんを殺すのは、彼女が惚れた男だよぉ』。その男はね……」

「聞きたくない」

 自分のことくらい自分が一番よく分かっている。スマホで伊藤に短い連絡を入れ、返事が来る前に意識を手放した。軽やかな別れの挨拶が、遠くから聴こえた気がした。


 中央化学の社長室では、机の上に預金の預入用紙が置かれている。伊藤はそれを見て目を輝かせたが、すぐに眉をひそめた。

「あれ、印鑑が押してないですよ?」

「そうそう。預金印、八菱はどれを使ってるか分からなくてねぇ。伊藤くん。悪いけど、あっちで経理の村田さんと確認してきてくれない?」

「はい!」

 明るく朗らかな声ととも、伊藤は社長室を出ていった。人生で一番取り繕う日である新入行員の配属日にも聞いたことがないくらい、良い返事だ。軽く嫉妬を覚えるほどだった。彼の背中を見送り、私は話を切り出した。

「黒幕は社長だったんですね」

「なんのことかなぁ」

「ハリーさんは息子を怪我させたゆきぽよを殺そうとしていた。これを知った社長は、私やがゆきぽよに見えるように仕向けた」

「警察は伊藤くんに、旦那さんは黒川さんに行ってくれたからねぇ。君たちが時間を稼いでくれたから、彼女は手術の段取りを済ませることができた。見事だったよぉ」

 社長は拍手をする素振りをしながらドアを一瞥した。そして応接室のテーブル越しに身をよせ、内緒話をするようにささやいた。

「今回みたいな仕事、またやらない? かなり稼げるよ」

「やりません。てっとり早く金を得たらどうなるか、見せられたんで」

 苦笑いを浮かべて社長は立ち上がった。窓のそばへ歩き、陽の光を浴びている。九月の穏やかな日差しは、あたたかく社長室を包む。そこに漂う全ての罪を浄化していくかのように。

「黒川さんにも、ご褒美あったんじゃない?」

 社長はこちらを向き、言った、逆光で表情は隠れているが、口元は下卑た笑いを浮かべている。男はクソガキの頃から、この手の笑いを一生に渡って浮かべ続けるらしい。

「イケメン年下の慶應ボーイとホテルで……」

「何もありませんでしたよ」

 社長は目を丸くして、ぽかんと口を開けた。午後の陽光と相まって、心和む光景だった。

「体調悪すぎて朝まで寝てました。伊藤は目覚まし代わりに呼んだだけ。任務を忠実に果たしてくれましたよ」

 つまらなさそうに口をとがらす社長に、私は言った。

「人の色恋沙汰より、家に戻ったらどうです? 奥さんに散々、悪口ツイートされてますよ」

 彼の表情はたちまち青くなった。伊藤が戻り、私たちは廃ビルを出た。

「良かったな、運用もOKもらえて」

「はい! これで店の目標も達成ですね!」

書類の不備がなけりゃな、という皮肉は心の中にとどめておいた。不備がないわけがない。銀行の書類というものは、そういう風に作られている。仕事のための仕事。しかし、今日は金曜日だ。法人第二課で伊藤のディールを祝う会も予定されている。週明けにミスを指摘しても、期末の実行には間に合う。社長の奥さんのアカウントを酒の肴に、今は楽しみたい気分だった。


滅多にない楽しみな飲み会が控えた日に限って、仕事が振ってくる。金曜の飲み会に参加できなかった私は週明けに有志を集い、伊藤のお祝いを設定した。月曜だが何名か来てくれると、伊藤から聞いている。やっぱりこの日も顧客対応に追われ、私だけ遅れて飲み会に合流することとなった。

渋谷支店を出てスクランブル交差点で信号待ちをしていると、自転車に乗った親子が横に停まった。若い母親と男の子だ。荷物の多さが保育園帰りだと物語っていた。渋谷にも保育園はいくつかある。ハロウィンの翌朝は、ゾンビみたいな大人の横を通って登園するのだろう。たくましい人間に育ちそうだ。ふと、彼らの会話が耳に飛び込んできた。

「夜ご飯、どこが良い?」と母親が聞く。彼女は帽子とサングラスとマスクをしていて顔を確認できないが、聞き覚えのある声だった。男の子は元気に応えた。

「サイゼリア!」

「いいね! 好きなもん食べていいよ!」

幸せそうだった。数え切れないほどの人々に踏みつけられた街で、陽だまりのような二人だった。私は男の子を見た。眼帯をしていることをのぞけば、どこかで見た顔だ。男の子がこちらを見た。彼は微笑んだ。あたたかく、満ち足りた笑みだった。彼は眼帯を外し、私の目を見つめた。


 飛び込んできたのは、渋谷の個室居酒屋だった。私が設定した、伊藤のディールを祝う飲み会の場所。支店でよく使うチェーン店だった。個室の扉を開けると、伊藤が一人で座っていた。

「あれ? 店のみんなは?」

「来ません」

「は?」

「クロさんと二人で話したいことがあって。実は、俺……」


 突如、雑踏に引き戻された。信号はいつの間にか青に変わっているが、足を止めたまま、私は呟いた。

「なんだったんだ? あれ……」

 言葉は宙に浮き、親子の姿も雑踏に消えている。通行人が立ち止まる私に向かってイラついているのが伝わってきた。今すぐ渡らなくてはならない。渋谷で立ち止まることは許されないのだ。進むか、去るか。足を踏み出そうとして、ゆきぽよとワン社長の、鈴のように楽しく揺れる声が聴こえてきた

『黒川さんを殺すのは、彼女が惚れた男だよぉ』

私は足がすくんでしまった。信号が点滅し始める。飲み会をキャンセルして、スーパーで惣菜を買い、家に戻るべきなのだろう。そうすれば伊藤の一挙一動に心を乱されることはない。二日酔いとも無縁で、読書に耽溺する平和な週末を過ごせる。こういう声に忠実に従えば銀行では出世し、イクメンの夫と結婚し、世田谷あたりに家を買えるのかもしれない。しかしそのゲームには全く魅力を感じなかった。正解かつ成功ルートは、とっくの昔に選択肢から除外している。

私は顔を上げ、走り出した。居酒屋で伊藤が待っている。行くしかない。昼食は一人で取れるが、一人で飲み会はできない。

未来は自分の目で確かめなくてはならないのだ。たとえ地獄への幕開けだとしても構わない。人生はいつだって、やり直せるのだから。

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