8 森林公園へ
10月7日(金)
朝七時半、学校に乗り付けた大型バスに乗り込んだ。
バスの到着前、七時には出勤していたので、まだ眠い。気を抜くとついつい居眠りをしそうになる。
半分目を閉じた状態で、バスに揺られていると、ほぼ二時間で森の中に入った。
今日は日帰り遠足だ。こういう行事があるときは、実習生も同行して先生方の仕事を学ぶ。二年B組のバスにはクラス全員と、小柳先生、俺が乗っている。森の中にある大きなダム湖と、その周囲にある森林公園を目指している。
キャンプもできる炊事場で昼食を調理してから、全員で施設見学、森林公園で自由時間になるスケジュールだった。
昼食は定番のカレー作り。不慣れな生徒が多い割には、問題なく出来上がってくるのがカレーの偉大なところかも知れない。炊事場の周辺はカレーの匂い一色だ。
「先生! 一口食べてみてください」
行く先々で、一皿ずつ食べさせられそうになりながら、クラスの班を一通り見て回った。男子の班がいくつか微妙な水の多すぎるカレーになっていたり、飯盒に焦げつかせた白米と格闘していたが、これは想定内だろう。
◇
食事の片付けを済ませ、しばらく緑地で休憩をしてから、再集合して移動を始めた。クラス全員で、ダム湖の周囲の歩道を歩く。
広大な湖に、空の雲が映る。秋晴れの空が高い。ついつい伸びがちになる2年B組の生徒の列の先頭は小柳先生が担当。俺は一番後ろから、軽く追い立てるようについていった。
突然、生徒が一人うずくまったのが見えた。
その周囲で生徒の列の流れが乱れる。
「どうした?」
列の一番後ろから駆け寄ってみると、しゃがみこんだのは岩嶺ハルミだった。顔色が真っ青だ。
話しかけても、気持ち悪いのか、反応が薄い。
「大丈夫?」
「すみません……ちょっと……」
しゃがんだままの姿勢で、苦しそうにあえぎ始める。すぐそばにいた保健委員も心配そうに見守っている。
「……すいません。バスに、戻って……ちょっと休んでいいですか」
「わかった。でも、歩けるか」
「大丈夫……ですから」
ふらふらと立ち上がり、バスへと覚束ない足取りで歩き出す。こちらの返事を待たずに歩いて行くので、保健委員と後ろから追いかけた。
バスからそれほど遠くなかったのは幸いだった。一分もかからずバスにたどり着いた。
シートに横にならせたところで、担任の小柳先生に連絡しようと携帯を出したが、ここは圏外だ。保健委員に小柳先生に状況を伝えてもらうよう頼んだ。
◇
荒い息をつく岩嶺とバスの中で二人になる。
たぶん、症状は……過呼吸だ。ときおり、彼女が過呼吸になる、と小柳先生からも言われていた。本人もある程度慣れている様子で、息を吸ってからしばし止めて、ゆっくり深く息を吐く、という対処法を自分から始めている。
静かなバス車内に、まだ不安定な岩嶺の呼吸音が響く。
「すい、ません」
「いいから。落ち着いて。話さずに、吐くことに集中して呼吸しよう」
「私、水が苦手……なんです。すいません」
「……いいから」
岩嶺が呼吸を少しずつ安定させていく。
「すぐ保健の先生くると思うから、じっとしてよう」
「もう、大丈夫です。すいませんでした」
バスの入り口から足音がして、石野先生が乗り込んできた。小柄な、40代の保健の先生だ。状況を簡単に説明すると、石野先生が優しく岩嶺の手を握った。
「ゆっくりしなさいね」
荒かった息は、二、三分でだいぶ落ち着いてきた。
バスの入り口に、また別の足音。生徒が石野先生、と大きな声で呼んだ。
「石野先生! ダム公園の広場で、生徒が怪我しました」
担任の先生方が石野先生を呼ぶための使いをよこしたのだ。
「あっちもこっちも……」
そう言いながら、石野先生がバスから出て行き、再び岩嶺と二人で残された。
五分も経った頃、すっかり呼吸が収まった岩嶺が言った。
「先生、質問していいですか」
「……なんだい」
「最初の日……もう恋人作らない、って言いましたよね」
うわ、覚えられていたかと思った。我ながら、何という話を初日からしたのかと。
「あれ……どうしてですか」
つい、質問に本音を入れて答えてしまった……なんて答えるわけにもいかない。それ以上、踏み込まれたくない質問だった。
岩嶺は続ける。
「失恋したから、じゃないですよね。先生の言い方、そんなんじゃないって思った」
俺の息が詰まる。
押し出すように、答えた。
「どうして……そう思う?」
「違いますか?」
この子は手加減をしない。中学生らしいのかもしれない。
「……そうだな」
言葉を選び選びしながら、答えた。
「幸せに、するのが下手だったから、かな。酷い……間違いをして、恋人を不幸せにしたことがあるんだ。だから、もう作っちゃいけないって思った」
岩嶺の視線は、どこか遠くを見ているようだった。
「先生の顔が、目が気になったんです……あのときの先生、すごく気になる目をしてて。あの目は……あの頃、たくさん見た目だって」
彼女は淡々とそう言うと、それっきり黙ってしまった。