7 茜
夕食と入浴を済ませ、自室に上がった。
授業をするのは久しぶりだったし、四十人のパワーはやはり凄かった。少人数相手の小さな塾の講師とは、要求される声の大きさも張りも全然違う。少しでも準備を万全にしてプレッシャーを減らしておこうと思い、PCで指導案を見直していた。
こんこん、とノックの音がした。
どうぞ、と言うとドアが開き、翠さんの連れ子、茜ちゃんがいた。
「祐司……さん、アイス食べませんか。お勉強の差し入れです」
ずいぶんと大人びた物言いだが、まだ小学四年生。
小さめのカップアイスを二つ、スプーンを二本持っている。
「頭を使ってるときに甘い物は嬉しいな。ありがとう」
片方のアイスとスプーンを渡された。
「……少しお邪魔していいですか」
「そんな、固くならなくても……」
思わず苦笑してしまう。
「どうぞどうぞ。一応、兄妹、になってるんだし……あ、突然そんな話されてもだよね……」
「嫌とかではないですけど……突然お兄さんが、って言われてもって」
「それは……そうだよね」
……ふっと互いの緊張が和らいだ気がした。
突然家族になれ、と言われても普通は困る。
まあ、少しずつでも、話せるようになるしかないだろう。
「それで、茜ちゃんは……なんか、用事?」
「祐司さんって、どんな人なのかなーって。滅多にこの家には帰ってこないって聞いたから、いるときにお話とか、してみたいなって」
「そっか。それなら立ち話もなんだし……こっちに座ろう」
デスクチェアから降りて、絨毯に座る。小さな低いテーブルを挟んで、向き合って茜ちゃんが座る。なにはともあれ、二人でアイスを開けて食べ始めた。
デスクに乗ったPCの画面を、茜ちゃんがスプーンを口に運びながら気にしている。
「あれ……授業の準備ですか?」
「そうだよ。銀河鉄道の夜……宮沢賢治は知ってる?」
「注文の多い料理店と……セロ弾きのゴーシュと、よだかの星と……あと、なんか他にも読みました。忘れたけど」
小学四年生としては、なかなかの本好きかもと嬉しくなる。
「本好きなんだね」
むふーっとスプーンをくわえたまま、嬉しそうな顔になる。
「うん、一人でいたとき……沢山読んだから」
茜ちゃんの言葉に暗さはない。
でも、ああそうか。そうだったと思った。
詳しい事情は聞いてないが、茜ちゃんには元々のお父さんがいない。翠さんがうちの父と結婚した一年前まで、翠さんは何年か一人で茜ちゃんを育てたはずだ。茜ちゃんはきっと一人で長い時間を過ごしてきた。
「……これから三週間、学校の先生の練習をするんだ。その準備なんだけど、自分で読むのと違って、わかりやすく話をするって大変だね……学校の先生は凄いと思う」
「じゃあ祐司さんは、先生になるの?」
[どうかな。先生の免許を取るために必要な授業だけど……」
「先生の免許……取るのに、先生にならないの?」
「免許を持っていても、学校で働けるかどうかは、また違う試験があって、そっちはもっと難しいんだよ。それに……俺は先生をできるほど、立派な人間じゃない、かな」
茜ちゃんがこちらを見て、首を傾げた。
「……先生って、立派な人がなるの?」
「勉強とか、いろんなことを教える先生だもの。立派な人がなった方が、いいんじゃないかな」
でもさー、と茜ちゃんが言う。
彼女はアイスのカップの底のアイスをさらえて口に入れた。
最後の一口を味わって、スプーンをカップに置く。
「立派って……どういう人なのかな」
「……そう言われると難しいね。間違ったことをしないで、何事にも頑張る人、とか?」
うーん、と言って、茜ちゃんが考える顔をする。
しばらく間があって、彼女は口を開いた。
「立派かもしれないけど、それってなんか……相談したら怒られそうっていうか。祐司さんみたいな……話しやすい先生の方がいいと思う」
わずかにはにかんで、後半の声はつぶやくように小さかった。
茜ちゃんが視線を斜め下に向ける。「ごちそうさまでした」と言いながら、アイスの空のカップをささっと重ねて立ち上がる。
横を向いた立ち姿が翠さんによく似ていた。
部屋のドアを抜けて、一階の台所に降りていく足音がとんとんとんと響いてきた。