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続・辰巳センセイの文学教室~ふたりが紡ぐ物語~  作者: 瀬川雅峰
Ⅲ 智恵子抄_辰巳祐司×咲耶
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終講 月明かりの君へ



「ただいま」

 祐司さんと、二人で同時に言った。



 玄関のドアノブの形にまだ慣れない。生まれてから、ほぼ毎日つかんで、開けてきたドアだった。それが今日からは違うドア。


 今日から、毎日開けるドア。


 真っ暗な玄関の、どこに電気のスイッチがあるのか手探りする。闇の中で、彼が手の上を重ねて導いてくれた。カチリと手応えがあって、ぱっと明るくなった。


 「引っ越してきたばかり、って感じがするね」

 後ろからささやく祐司さんの身体はほっそりしてる。背中から包むような姿勢で、微かな体温を感じた。


 靴を素早く脱いで、玄関にそろえて置いた。私が奥に進まないと、狭い玄関から祐司さんが進めない。

 正面すぐのドアを開けると、その先にリビング、さらにドアを抜けると……二人の寝室だ。


「お腹いっぱい……ちょっと苦しくなっちゃった」


 教育実習のお疲れ会を母校の先生方が開いてくださったので、そちらで一杯飲んで食事もご馳走になってきた。その後、祐司さんが車で迎えに来てくれた。


 祐司さんが冷房のスイッチを入れ、キッチンに入っていく。


「ビール、一緒に飲み直さない?」

「……うん」


 今日からこうして、二人の生活が始まる。

 胸の中に、ふわっと熱いものが溢れる。


「メイク落としてくるね」


 洗面台の前で、お湯が出るのを待ちながら、鏡を眺める。



 ああ、新居だ!

 ここで暮らす。

 緊張感なのか、昂ぶりなのか。なんだかどきどきする。



 洗顔フォームで顔を洗ってからリビングに戻ったら、祐司さんが500mlの缶ビールを半分ずつ注いだグラスを渡してくれた。冬は炬燵になるリビングテーブルを挟んで座ろうかな、と思ったけど、今日は……うん。ひっつきたい。


 彼の左隣にひっついて座る。


「こぼれるよ」

「だいじょうぶ。気をつけるから……二人で並ぶと、テーブルが小さいね」


身体の右側が彼に引っ付いて、そこから熱が伝わってくる。


 そのままぐりっと振り返って、唇にキスした。

 祐司さんが身体を受け止めてくれて。


 両腕で、抱きしめられた。



  ◇



 カーテンの隙間から差し込む月光が、部屋をほのかに照らしている。


 身体を密着させたまま、肩口に咲耶が顔をうずめて、猫のようにぐりぐりしている。

 ビールのせいか、いつもより甘えん坊だ。


「実習……やっと終わったよぉ。いろいろ反省……でも、楽しかったなぁ」

「……最終日、いい感じだったみたいだね」


 うにゃうにゃとじゃれつく咲耶の頭をそっと撫でだ。


「授業の準備で沢山調べものして……自分でもいろいろ考えちゃった。光太郎と智恵子も、二人でずっと一緒にいて、最後を迎えた……なんだか、今日から二人で……って思うとつい『智恵子抄』を思い出しちゃう」


 わかる。力のある作品にのめり込むと、往々にしてそういうことはありがちだ。


 しばらく咲耶が黙った、と思ったら、ぐす、と鼻をすする音がした。


「……泣いてるの?」


「今私達、始まったんだって思うと……『智恵子抄』読んだからかな。どうやって、いつ、終わりがくるのかなって、つい考えちゃって。なんだか怖くなって」


「……初めて『智恵子抄』を読んだときは、衝撃と、疑問を感じたよ。こんなに深く、一途に人を思えるのかって」


「うん。うらやましいと思った。そして、怖くなった。こんな風に、ずっと人を愛して、見守って、逝くところまで見つめて。自分の心はどうなのかって……ここまでいけるのって」


「人を思う心は、時間の長さだけで計れるものじゃない」


「……美幸さんのこと、祐司さん、ずっと好きだったよね」


 息を呑んでしまった。


「……」

「ごめんなさい。嫉妬じゃないの。祐司さんが……センセイが美幸さんを大切にしたことがどうこうじゃなくて、私の問題なの。負けないように、二人で生きていけるのかなとか……そんなこと考えちゃって」


 咲耶はとても聡明でしっかりしてる。

 だからつい忘れそうになるが、俺より一回りも若い。経験したことないこと、新しいことばかりで、不安になるのは当たり前だ。


「……智恵子抄の『あなたはだんだんきれいになる』覚えてる?」


「うん……智恵子さんが四十代のときに書いたって知って、凄いなって思った」


「あの詩を読むと、何を美しいものとして見るのかは、心が決めてるんだって気付かされる。そこに正しいも、正しくないもなくて。歳を重ねる智恵子を見つめて、光太郎は美しくなっていくプロセスだと描いた。少なくとも、彼はそう書き記した」


「書き記した……」


「うん。そこに彼の意志があったんだと思う。彼は愛そうとして、愛し抜いた。心が壊れて、光太郎のこともわからなくなって、子供のように暴れて――それでも彼女のどんな姿も受け入れながら最期まで見つめる。それは決意であり、覚悟だったんじゃないかと思うんだ」


 そして高村光太郎の瞳は、最後の瞬間に美しい智恵子を映した。


「強いんだね……人って」


 咲耶の潤んだ目。


 彼女の顔をまっすぐ見つめた。形の良い瞳の奥に無限があるように感じる。吸い込まれていきたい、全部を受け止めたいと思う。


「君があんまり素敵で、俺はいつも眩しくて。向き合うと目がくらみそうになる。今みたいに、ずっと受け止めていたい。ずっと……咲耶、覚悟してくれる?」

「……うん」

 月の白い光を受けた咲耶の顔に、ふるっと、緩むように優しい笑みが浮かぶ。


「祐司さん、それならもっと私を見て、慣れないといけないよね?」


 二人で横になっていた姿勢から、ぐっと彼女が身体に力を込めて起き上がる。

 そのままにじるように、上るようにして馬乗りになる。


 彼女がじっと目を近づけて、覗き込んでくる。

「こうしてたら、きっとすぐ、見慣れるよ?」

「そうかな……もう照れてる」

 身体の上に咲耶の身体を感じる。



 彼女がいる。


 ほっそりして、まるで重さなどないように見えるのに、自分の上にあると身動きできないほどに感じさせるずしりとした実体。


 かすかな湿り気を帯びた熱が、温かな波が、じんわり身体に広がっていく。その感触に深く安心する。



 彼女は、ここにいる。


 彼女が身じろぎをする。

 花が咲くように、濃密で華やかな香りに包まれる。


 征服されているのだ、と思う。



 そして――


                  続・辰巳センセイの文学教室  完



続・辰巳センセイの文学教室~ふたりが紡ぐ物語~


これにて完結です。

お読みいただいた皆様、本当にありがとうございました。


もし、まだという方がいらっしゃいましたら、ぜひブクマ&評価をお願いします!



 ◇



 お読みの方は薄々お気づきかもしれません。

 『智恵子抄』編の構想が完成したのは、2022年2月のロシアによるウクライナ侵攻でした。


 コロナで不透明になった世界、始まってしまったあまりにも哀しい戦争……

 先を考えると、不安なこといっぱい。

 今、世界にそんな空気があることは否定できません。



 ――でも、だからこそ、今書けることを。繋げる希望を。



 そんな思いで、精一杯を形にした「智恵子抄」です。


 二人は、どんな時代が来ても、きっと生きていきます。

 最後まで、二人で。


 今書ける、書きたい一番を込めて、祈るように書きました。

 お読みいただいた皆様の心に、何かを残せていたら嬉しく思います。




 感謝を込めて


          2023/7/20 瀬川雅峰でした



追伸


最後に『龍星閣版 智恵子抄』収録作品一覧をつけておきます。

お手元に『智恵子抄』(青空文庫等でも無料で読めます)の原文テキストをお持ちの方は、一度こちらの順に読んでみると、高村光太郎と澤田氏が作った本来の『智恵子抄』テイストが味わえると思います。

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