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続・辰巳センセイの文学教室~ふたりが紡ぐ物語~  作者: 瀬川雅峰
Ⅲ 智恵子抄_辰巳祐司×咲耶
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8 ふたりの追加講義



――ありがとうございました。


 研究授業と振り返りが終わったあと、職員室の机に戻って『智恵子抄』をそっと置いた。表紙に小声でお礼を言った。


――おかげさまで、無事に授業が終わりました。


 今日の授業で何を話すか。それを決める指針に、この一冊がなってくれた。


 昨年の秋、祐司さんの家に挨拶にいった日を思い出す。私がこの本の巻末に、奇妙な暗号を見つけた夜のこと。



 ◇



 祐司さんは、私が見つけた暗号をちらりと見ると、『智恵子抄』をパラパラとめくった。そして、何カ所かを開いてチェックをした後で言った。


「これは……解かせるための暗号だね。解読自体はとても簡単というか。簡単であることが逆に重要だった暗号なんだと思う」


 祐司さんの目が優しかった。


「簡単であることが……重要?」

「そう。解いてみる?」

「……うん」


 書き込みのページを再確認した。

『智恵子抄』に収録されている詩のタイトルが六つ。少し離れて二つ。それぞれのタイトルには続けて数字が書かれている。


レモン哀歌五……レモン哀歌の五文字目?とすぐに思いついたけど、それだと



レモン哀歌五 = も 

郊外の人に一 = わ

智恵子の半生廿六 = 症

梅酒六 = 子

深夜の雪七 = ス

愛の嘆美五 = な



    晩餐六 = つ

    冬の朝のめざめ八 = ル



 どうも……通じない。違うみたい。


「……祐司さん、ご家族に、ツルさんっている?」

「いや、いない。この読み方だと上手く読めないね……でも、そうなると他の読み方は限られてくるでしょ」

「……うん。あと考えつくのは……それぞれの詩の行数、くらいかな」



レモン哀歌五 = トパアズ色の香気が立つ

郊外の人に一 = わがこころはいま大風の如く君にむかえり

智恵子の半生廿六 = になれなかった。

梅酒六 = おのれの死後に遺していつた人を思ふ。

深夜の雪七 = もう一面に白かったが、

愛の嘆美五 = ふりしきる雪は深夜に婚姻(ヴオル・)飛揚(ニユプシアル)の宴をあげ


    晩餐六 = (たく)(わん)を一本

    冬の朝のめざめ八 = つつましくからころと下駄の音も響くなり



 これだ。

 それぞれの一番上の文字を取る。



トわにおもふ 澤つ


――永久に想ふ 辰



「これ……告白?」

「たぶんね――これは、たぶん――うん。明日にでも親父に確認して、それからだな」


 そう言ったあと、祐司さんは何やら押し入れを開けてごそごそしてた。今日のところはおやすみ、と言われてしまったけど……なかなか眠れなかった。



 そして翌日。


 実家から帰る途中、運転席の祐司さんが続きを話してくれた。私はトートバッグから『智恵子抄』を出して、その表紙をまじまじと眺めながら、祐司さんの話を聞いた。


「昨日の夜、古い年賀状を出して筆跡を確認したんだ。祖母からの年賀状の筆跡が、背表紙の墨書きと一緒だった。この暗号の堅い筆跡は、俺が直接は見たことない人……生前の祖父。祖父は結婚前の名字でタツと名乗った。祖父から本を受け取った祖母は茶色いカバーをかけて、あの告白が目に付かないようにそっと隠した」


「どうして、こんなわかりにくい……あ、でも、解ける暗号、っていうのはそういう。伝えるために書いた暗号、だった」


「うん……祖父はきっと、どうしても伝えたかった。暗号にした理由はわからない。戦時中で、浮ついた話題を出しにくかったのかも知れないし、恥ずかしかっただけかも知れない。でも、この龍星閣版は昭和十八年十月の十一刷……アジア太平洋戦争の真っ只中だ」


 大きな、大きな戦争。日本人だけで三百万人以上の方が犠牲になった、と学校で習った。そんな時期に、この愛の詩集はベストセラーになっていた。


「翌年、昭和十九年から人員不足で徴兵対象の年齢が引き下げられた。それまでは出征を免除されていた十代の青年も、徴兵されて戦場へ行った……これは推測だけど、招集されて戦場に行くことが決まった祖父が、祖母に詩集を贈って、そこに書き残したと考えたら……『永久に想ふ』こんな強い言葉を織り込んだ理由もわかる。祖父がこんな言葉を使ったのは、二度と会えないかもしれない――その覚悟があったんだと思う」


 最後かもしれない。だから、ありったけの思いを、たったの六文字に込めた。


 そうやって届けられた恋心だったとしたら。


「祖母は、祖父からもらった告白が書き込まれた本をずっと大切にして……それが父に受け継がれ、本棚に置かれ――咲耶、君に渡された」


 智恵子抄の表紙が、いきなり熱をもったように感じた。


 思い出した。

 お父様に渡されて初めて触れたとき、熱のような、エネルギーのような何かを確かに感じたと思った。触れたこともない古い書籍の手触りかとも思ったけど……今ならわかる。


 私が感じたのは――きっと。



「父が言ってたよ。初めて尋ねてきた君が「智恵子抄」を持っていたのを見てびっくりしたって。不思議な縁を感じたって」

「……それでお祖父様は……戦争から帰って、来られたんですか?」


 祐司さんの笑顔が、さらに優しくなった。


「無事だったはずだよ。そうじゃなきゃ父も生まれていない。そのあたりの事情も少し訊いた。戦後すぐは祖父の安否も不明で、日本への復員も遅れて三年近くかかったそうだ。祖母は数年ぶりに帰ってきた祖父と結婚して生活を建て直して――時間はかかったけど、うちの父を含めて三人の娘息子に恵まれた。祖父は長生きこそしなかったけど、それなりに幸せな人生だった」


 そうなんだ、よかった。

 ……ほんとによかった。


「そうだよね。そうじゃなきゃ……祐司さんが、ここにいない」

「……ああ。そういうことだね」

 二人で笑った。


「お祖父様からお祖母様、お父様、そして……祐司さん。繋がっているんですね。始まりの縁を結んだ智恵子抄が、ここにある」


 ほろっと、表紙に涙を落としてしまった。


 ここまで思いが、命が繋がって。私がここにいて、この本に触れている。

 祐司さんが隣にいる。長い長い時間を繋いだ、小さなつながりを抱きしめる。


 こうして私達へ。そして私達から――また繋いでいけますように。

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