4 『智恵子抄』
二階の自室のドアを開けると、咲耶がベッドに腰掛けて本を開いていた。
咲耶は昔、俺が使っていたベッドに、俺は床に敷いた布団で寝ることにしたので、部屋は寝具で埋まっている。足の踏み場がほとんど残っていない。
咲耶は小さな紙片をしおり代わりに挟み、こちらに顔を向けた。
「夕食の後、お父様が渡してくれたの」
B6くらいの小ぶりな本に、茶色い紙でカバーがかけてある。
「リビングで教科書と文庫を置いてたら、お父様に話しかけられて……教育実習で高村光太郎をやります、って言ったら、これを持ってきてくれて」
茶色のカバーの背表紙には、手書きで『智恵子抄』とあった。滑らかな筆跡の墨書きだ。
後で父親に言って、見せてもらおうと思っていた一冊だった。
「父さんに言って出してもらうつもりだったのに……先に渡されてたか」
父子で同じようなことを考えるものだ。おかしくなった。
「凄く古くて……奥付見たら、昭和十八年ってあって驚いちゃった。紙もざらざらしてるのは、当時からなのかな。触ったときにあったかく感じたというか、不思議なぬくもりがあって。中も活字の濃さにムラがあったり、手作りっぽくて優しい感じなの。本当に長い時間を過ごしてきたってわかる……凄く素敵だなって。お父様にお礼言わないと」
真ん中あたりのページを開き、日灼けで退色しざらついた紙の手触りを、咲耶が愛おしそうになぞっている。
「……よかった。『智恵子抄』を読むなら、きっとこの版の方が良さを感じられると思ったんだ。読んでみて、内容でも、なんか気付かなかった?」
こうして質問をすると、高校の教室で国語を教えた三年前に還ったような気がしてくる。咲耶が手元にこの古い『智恵子抄』と、自分の持ってきた文庫の『智恵子抄』を並べた。
「うん。私が持ってきた文庫の智恵子抄より、かなり薄い……よね。載ってる作品の数が全然違って、順番も……違ってる?」
うちにあった古い方の『智恵子抄』を手に取る。巻末の収録作品一覧の頁を開いて久しぶりに――本当に久しぶりに眺める。
「この古い方……龍星閣版『智恵子抄』が、本来の形なんだ。詩は二十九編。それに短歌が六首。あとは、高村光太郎の書いた文章が三編。光太郎は長期に亘って同人誌や雑誌に詩を発表したけど、詩集は若い頃に一冊出したままで、それぞれの作品はばらばらのままだった」
「『レモン哀歌』は、『智恵子抄』の一部、として書かれたんじゃないんだ」
「順序は逆になる。龍星閣の創業者だった澤田伊四郎氏が、光太郎の詩『風にのる智恵子』に感動して、智恵子の詩を一冊にまとめた詩集を出したい、と強く頼み込んだことから『智恵子抄』は生まれた。もう六十に近かった光太郎は、病んで亡くなった妻で本を作るなんて……と最初はきっぱり断ったそうだ。それでも澤田氏は光太郎の詩に惚れ込み、他にない「愛情の書物」になるのだと語り、試作版を作ってまで光太郎を説得し続けた。一年半後、光太郎はついに出版の承諾をして、澤田氏の試作版に若干の修正を加えて完成にした。載せた文章についても、手直しは光太郎自身で禁じたという。光太郎の詩と、澤田氏の編集センスと熱意……二人のこだわりがやっと形になったのが龍星閣版『智恵子抄』だった」
「え? ……じゃあ、私がこれまで読んでた文庫版は、他の人の手が入ってる?」
「智恵子抄がヒットしたあと、龍星閣は『智恵子抄その後』という続編を出してる。戦争の影響もあって龍星閣は一時期業務を止めていた。その復帰作品としてヒットした『智恵子抄』の『その後』を出したい計算はあったと思う。でも、こっちはあまり売れなかった。光太郎もあまり乗り気でなかったそうだ。『その後』は智恵子の死後に光太郎が書いた詩を主に収録した本になった」
「それ、作者としては微妙な気持ちになったんじゃないかな……」
「……そうだね。でも、ここまではまだよかったんだ。光太郎も、『智恵子抄』については澤田氏がいたから生まれた本と明言していたし、他の出版社で光太郎の詩集を出す話が出たときも、『智恵子抄』の作品を勝手に載せることは禁じていた」
「光太郎も、澤田さんの功績はちゃんと認めてた」
「澤田氏の熱意がなかったら、そもそも『智恵子抄』が生まれることはなかったからね……しかしこの後、光太郎が昭和三十一年に亡くなると、たった三ヶ月後の七月、他社の文庫から草野心平編集版の『智恵子抄』が発売された。光太郎の余命が約一ヶ月の頃……毎日血を吐いて、生死を彷徨っていた時期に、文庫化の許可をもらい編集も任された、と草野氏は後で書いてるけど……そもそも、澤田氏とのそれまでの経緯を無視してるし、本当だろうかと思ってしまうな。そして最大の問題は、その文庫版が未収録だった詩や『その後』に載った詩を含んだ上、並びまで変えた「拡張+並び替え版」にされてしまったことだ。二十九編だった詩は四十七編まで増えた。これだけ増えれば、通して読んだときの印象なんてまるで違ってしまう」
「えええ。それはちょっと、やり過ぎ、どころではないのでは……」
「智恵子に関係した詩を網羅したかった、と草野氏の但し書きがあるけどね……正直、詩集としての味わいは大きく損なわれたと思う。アーティストが信頼したプロデューサーと十曲入りのベスト盤を作ったのが龍星閣版『智恵子抄』とすると、死後に他人が十八曲入りに増やして曲順も変えて、なのに同じタイトルで出しちゃったのがこのときの文庫版……ちょっと酷いかな」
あまりのことと思ったか、咲耶は沈黙している。
「その後、昭和四十年頃の全集ブームで他の多くの会社からも『智恵子抄』に似たタイトルで高村光太郎の詩集が出たんだけど……このときも各社それぞれで内容が異なっている」
「……ええええ。なにそれ……って、もう呆れて驚くの通り越しました……」
「詳しい事情はわからないけど、龍星閣と同じ構成にして、批判されたり編集権の問題になるリスクを避けたかったのかもしれない。近年、龍星閣版を再現した本も新たに出てるけど、一番多く読まれているのはこの古い文庫版だから……これが本来の『智恵子抄』だと思っている人は多い」
「なんか、少し残念な気持ち……でも、すっきりした気もするかな。高校生のときに文庫で読んで、凄い詩集って言われるのはわかるけど、くどくどし過ぎというか……最後まで読む前に重く感じちゃったから。この龍星閣版は、真っ直ぐで力強い……絶対こっちの方がいいのに……」
「父さんが渡してくれた甲斐があったね」
咲耶がくすっとした。
「俺も、高校時代に高村光太郎を文芸部で取り上げたんだ。そのとき、家にあったこれを読んで凄いと思って『智恵子抄』の事情をいろいろ調べた。文庫や類書も読み比べてね。そしたら、さっき話したみたいな怪しげな事情がね……だからこの本のことはよく覚えてた」
「セン……祐司さん、もこれを高校の頃読んでた」
とそこで、咲耶の目にいたずらな光が差した。
「ふむ」
「ん?」
「……すると……ねえ祐司さん、これは知ってた?」
「ん?」
咲耶が本を閉じ、外側にかかった手書きのカバーをそっと外していく。