2 君を見つめて
咲耶の実家での挨拶が終わって、次はその報告を兼ねて俺の実家、という流れである。
うちの父親が反対することがあるとも思えなかったので、ひとまず電話で話すだけでも、と提案したのだが、咲耶に「私もちゃんと挨拶したい」と押し切られた。それで、急遽週末の小旅行が決まった。
「咲耶」
「ん?」
「アメとか欲しかったら……出すよ。まだいい?」
「セン……祐司、さん、まだ、大丈夫。うん、ありがとう」
会話がものすごくぎこちないのも仕方ない。つい先日、プロポーズをした日から咲耶は「センセイ」を「祐司さん」に変えたばかりだ。
返事をする咲耶の頬がほんのり上気して、白い肌がピンクに染まっている。
前を見て運転を続ける彼女をつい見つめてしまう。
――俺の人生に踏み込んできてくれてありがとう。君がいなかったら、こんな安らかな日はなかった。
実家へと伸びる高速道路は快調に流れている。FM曲のDJもいつにも増して調子よく話しているように聞こえる。まっすぐな道を車が滑らかに加速していく。
◇
高速道路に乗って順調に距離を稼いで、実家まで半分ほど来たところで、サービスエリアに寄った。
名物、と書いてあったカツサンドを買って、にこにこと咲耶が戻ってきた。助手席に座って、カツサンドに一切れ齧り付いた。
「んー! 美味しい」
唇にとんかつソースを付けながら、もしゃもしゃとほおばっている。
運転席から一切れつまんで、口に放り込んだ。
二枚重ねた食パンに、大判のカツとキャベツを挟み、全体を9つの正方形に切り分けてある。なんとか一口で入れられる大きさなのが、さすがドライブ用、という感じだ。
あっという間に三切れ食べた咲耶が、ふうふうとコーヒーを冷まして口を付ける。
「運転、緊張したぁ」
ふにゃあ、と笑顔になった。
ここで運転を交代。
咲耶は助手席におさまってリラックスしたのか、口が回るようになってきた。
「それでね、それでね」
「うん」
つい一昨日、教育実習の打ち合わせで母校に行ったときの話になった。
「ちょっと気が早いけど……って来年の教材の話になったの。年間計画から見て、たぶん詩の単元になるよって」
春から咲耶は大学四年。夏に教育実習がある。担当教官になる予定の国語科の先生と話して、教科書などの教材も渡された。
咲耶が手元にかかえたトートバッグの中から教科書を一冊取り出した。高校から預かってきた、来年使う一冊だという。
目次でページ数を確認してから、ぱらぱらとめくっていく。
「教科書に何編かあるんだけど、現代文に使う時間がそれほどあるわけじゃないから、題材を絞って授業をやってもらうことになるって。中心になる予定なのが――『レモン哀歌』だって」
「……定番の名作だね」
レモン哀歌。高校教科書に多く収録されてきた高村光太郎の詩だ。彼の代表作となった詩集『智恵子抄』に収められている。
最愛の妻、智恵子が亡くなったその日を描いたエピソード。『智恵子抄』の悲しみの頂点を成す一編。
――そんなにもあなたはレモンを待つてゐた
――かなしく白くあかるい死の床で
死の数年前から精神を病み、ほぼ正気を失っていた光太郎の妻。「私もうすぐ駄目になる」と嘆く彼女を、光太郎は最後まで……亡くなってからも生涯愛し続けた。
出会い、二人で暮らす喜び、質素ながらも芸術に打ち込む日々、病んでいく妻への苦悩……『智恵子抄』は二十年以上に亘る夫婦の歩みを丁寧に、二十九編の詩で追っていく。
光太郎の体験を、ほぼ時系列で並べた詩集は、読み通すことでそのまま光太郎と智恵子の愛の追体験になる。
「咲耶は『智恵子抄』はもう読んだ?」
「ずっと前、図書室にあった文庫を高校時代に。ひたすら智恵子さんの詩が続いて、亡くなった後もずっと智恵子さんのことを描いてて……凄いけど、重いなぁって思っちゃった。また読み直さなきゃと思ったから、一冊自分で買って。ほら、これ」
咲耶が手元のトートバッグから小さな文庫版『智恵子抄』をちらりとのぞかせる。
「……そっか。」
なるほど。
だとしたら実家にちょうど参考になる一冊があったはず。
今夜にでも、父親に今もあるか訊いてみよう。