19 追加講義「宮本綾」
「みなさん、ありがとうございました」
結局ランチのついでに、宇治十帖まで講義してしまった。
午後から休暇……の安心感でビールを二杯ほど頂戴したせいか、微かな酔いを感じる。職員室の荷物をもったら早々に帰ろう。
「辰巳先生、ありがとうございました。また講座をされるときは必ず来ますから」
「古典って面白いですね。自分でも少しずつ読んでみようと思います」
喫茶店のすぐ外で、聴講生の皆さんに手を振ってから、駅の方向へ曲がった。昼間から飲んだのと、外の陽気でいつもより回っている気がする。
夏休みの昼下がりの空気がゆったり流れていく。夕食の買い物でもしていこうか、と街を眺めながら歩いた。
駅まであと一ブロックのあたりで、声をかけられた。
「辰巳先生、おつかれさまでした」
宮本先生が、一足先に駅前まで来ていたらしい。ほんのり顔が赤いのは、先生もほろ酔いなのだろうか。
「宮本先生、最後まで聴きに来て頂いてありがとうございました。楽しんでいただけましたか」
「はい。源氏物語の本編は先日図書館で開いてみましたが……すごい厚さで気圧されてしまいました。先生に最初から詳しく解説してほしいくらいです」
「……厚みある作品ですからね。使っている言葉も古いので、原文で読むのはハードルが高いかもです」
「もし、辰巳先生お急ぎでなければ……先ほどのお店の続きに、このあたりでコーヒーでも飲んで冷ましていきませんか。私、顔赤いですよね」
宮本先生もあまり強くないらしい。
◇
喫茶店の中は、会社の通勤時間とも離れていて、がらんと空いていた。少し強めに効いた冷房の空気が、顔にひやりと心地よい。
店の奥、外の見える席に向き合って座ってアイスコーヒーを二人分、注文した。
「……私あんまり強くなくて。お昼から飲むのって美味しいですけど、酔っちゃいますね」
照れたように笑う宮本先生と、目の前に置かれた二つのグラス。よく冷えたグラスの水滴が涼しげだ。
ミルクを注いでストローで軽くかき混ぜると、カラカラと氷が鳴った。
「先生の講座を受けて、紫式部のお話を聞いて、しみじみ考えてしまいました。きっと彼女は、源氏物語を書きながら、いろんな経験を積んでいった。先ほどの、最後の部分……宇治十帖ですか。そこに至るまで、彼女自身も厚みを増して、それを折り込みながら大作『源氏物語』を書き上げたんですね」
「……はい。彼女が源氏物語を書き始めた詳しい時期はわかりませんが、二十代後半で夫を亡くしてからの数年間、宮廷に来る前のことだったようです。その時点での彼女は、きっと見たこともない、華やかな宮廷への憧れで書き始めた。そして、講座でお話した『紫のゆかり』系の物語――光源氏が准太上天皇になるまでを書き上げたのではないかと思います」
「英雄として出世する物語ですね……」
「きっとその時点では、光源氏は若い女性読者に受けるような……紫式部がヒーローとして思い描いた存在でした。高貴な出自であるのに、そのまま帝を継ぐことは叶わず、失脚しそうになりながらも、高い地位に上り詰める」
宮本先生がくすりと笑う。
「少女漫画っぽいです。わかりやすい」
「でも、『玉鬘』系の部分では、光源氏は格好悪く、情けない恋をする。なぜそれが混ざり合っているのか……実は書かれた時期がそもそも違ったようなのです。『紫のゆかり』系と、『玉鬘』系の内容は、入り交じりながら話が進んでいますが、細かく分析すると『玉鬘』系に出てくる主要キャラクターは『紫のゆかり』系エピソードに登場していない。これは『玉鬘』系が後から書かれて差し込まれた有力な裏付けです」
「……なぜ、紫式部はそんなややこしいことをしたのでしょう」
「たぶん……想定した読者が違ってきたからではないか、と」
きょとんとした顔で「想定した……読者?」と聞き返された。
「はい。最初に書かれた『紫のゆかり』系の読者は、おそらく紫式部の友人だった貴族女性、宮廷の若い女性たちだった。評判になり、次はきっと宮廷にいた皇子や上流貴族に広まっていった。彼らは、光源氏に近い存在の男性たちです。紫式部自身も、宮廷で実権を握っていた藤原道長の恋人だった時期があったそうです。地位も力もある男たち――彼らの魅力と傲慢さ、振り回される女たちの痛み。それらを間近で見て、自分でも感じて、リアルに描くことで彼女は男達に読ませたかったのではないかと。そうして人物描写の深みが増し、重層的な味わいが生まれた」
「……若い女性の憧れと、大人の女性が見た現実」
「そして、その二系統を統合し、人物が一斉に登場する『若菜上』から先が書かれました。恋多き男であった光源氏は、愛しい人達をぽろぽろと失って哀しみと後悔に沈んでいく。でも、この部分があって源氏物語は傑作になった。これも紫式部自身が執筆者として、女性として経験を重ね、成熟したからこそ――書けたのでしょう」
宮本先生は「紫式部自身の、成熟……ああ、そういうことなのですね」と言って、遠い目をする。
顔が赤い。
まだお酒が抜けていないのだろう。
「彼女自身もきっと恋をして、振り回されて……」
宮本先生は小声で言ったあと、ふぅっと大きめの息をつく。
ゆるっと僅かに首を傾げ、しばらく黙った。
十秒近く間が空いた。それから一度ゆっくり瞬きをして、そっと口を開いた。
「実は……この前の返事のこと、まだ決めかねていて」
この前の返事――宮本先生に届いた十五年ぶりのメール。今はほとんど使っていない、という古いアドレス宛に、昔恋人だった彼から連絡が来た話。
――追加講義でしょうか……ここからは。
宮本先生が自分のことをぽつぽつと語っていく。
黒沢氏との交際。すれ違い、別れるまでのいきさつ。この十五年、一切連絡をとらずにいたこと。両親が他界してひときわ孤独を感じるようになったこと。出世作になった黒沢氏の写真を雑誌で見て、一目で彼の作品と気付いたこと。
嬉しくて、こっそり一人で祝福したこと。
昨年、自分が美術を目指したきっかけを思い出して、もう一度創作に向き合って挑戦したこと。
夢中で描き上げた作品でコンクールに入賞し、雑誌に掲載されたこと……
それを見た黒沢氏からお祝いの言葉と「会えないか」と書かれたメールが届いたこと。
心の中にあった一つ一つの思い出を、もう一度そっと外に出して、並べていくような話し方だった。
「……自分の話をこんなに……すみません。少し、整理したい、気持ちもあって……夏休みで、他の先生に会う機会もなくて。辰巳先生の授業で紫式部のお話を聞いてたらなんだか他人事に思えなくなったというか……私、少し酔って、口も軽くなってますね」
宮本先生はほんのり赤い顔で、照れ笑いをした。
これまで生きてきた時間を、一歩離れて眺めているような。
「黎……黒沢君に連絡するかどうか、迷ったままふんぎりが付かなくて。頭にずっとそのことがあるんです。彼を懐かしく思う気持ちはあります。それでも、今さら……とも思って」
「……黒沢さんの作品について先日お話ししましたが……彼の件があれからもずっと頭に」
「はい、ずっと。講義の間も……先生には、ごめんなさいですが。光源氏となんだか黒沢君が重なってしまって。懐かしかったり、腹が立ったり」
――それなら。
答えはシンプルですよね。
「宮本先生ご自身、答えは出ている、ということですね。先生は、ずっと黒沢さんを忘れなかった……いや、忘れたくなかった。だから、あとは前に踏み出す決断の……きっかけがほしい」
はぁと宮本先生はため息をついて、しばらく黙る。
こちらに視線を向けてから、またいろいろ思い出している様子になって……赤いままの顔で苦笑した。
「ばればれ……ですかね……」
「はい」
笑顔で応じた。
「そんな連絡はしない方がいいと私が言っても、宮本先生は行動を変えませんよね。忘れた方が本当に良いと思っていたら、会話にも出さず、記憶の奥に沈めることを考えたでしょうし。ここでお話をされている時点で、先生は黒沢さんのことを忘れたいと思ってないでしょう」
宮本先生の表情からさらに力が抜けた。
肩がすとんと落ちて、柔らかな動きで首を僅かに傾げる。
「……もう、もうなんなの、悔しいなぁって」
ふふ、と少し笑みを漏らして、続けた。
「あんなに……あんなに、振り回されたのに、でも、やっぱり彼は私の中にいたんだって。彼の作品を見て、すぐにわかってしまったことが嬉しくて。でも悔しくて。メールをもらってから、ずっとそればかり思ってる私が馬鹿みたいで」
グラスの氷がカラ、と小さく音を立てた。
「……先ほど、ご両親は、もうお亡くなりと」
「……はい」
「それなら今こそ、なんのしがらみもなしに、宮本先生ご自身と、黒沢さんの関係だけを見つめてみても。会いたいから会うじゃ、何なら、孤独じゃ寂しいから会うじゃいけませんか」
「そんな……」
「プライドや意地は、ひとまず横に……宮本先生も黒沢さんも今ではそれぞれの分野でプロになられた。誰に遠慮する必要もないはずです」
「でも……一度は壊れた関係ですし……ってああ……不安なだけですね私。こんなに歳取っちゃって、あの人にどう見られるんだろうとか、ほんとはそんなことばっかり……」
宮本先生は、少しぎこちない、でも優しい笑顔になっている。
黒沢氏との長い空白と、その果ての再会。
それは、宮本先生にとってそれだけ大きなこと。大切ゆえに、怖くなった。
「……黒沢さんがどんな思いなのか、まずはお話されてから……先方の希望はわかりませんが、今ならお互いに前とは違う形で向き合えるかもしれません。それが宮本先生の望みなら、自分に素直になったほうが」
受賞の記事を見て、宮本先生に連絡してきた黒沢氏。
雑誌で黒沢氏の写真を見分けた宮本先生と同じように、黒沢氏にもそのアンテナが、感度が残っていたなら……彼の胸の内くらい確かめたって損はないだろう。
「素直に……そうですね。素直に。素直になるしか、ですね」
すっかり氷が溶けてしまったコーヒーを一気に飲んで、宮本先生は素直に、を三回繰り返した。