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続・辰巳センセイの文学教室~ふたりが紡ぐ物語~  作者: 瀬川雅峰
Ⅱ 源氏物語_宮本綾×黒沢黎
36/53

16 源氏物語の講座 三



「栄華を極める三十三帖までを一部として、そこからを二部と分けることが多い源氏物語ですが、実は最も優れたところと評されるのは、この二部から先になります」


 特に高く評価され、作品のピークとも言われるのは三十四帖の『(わか)()(じょう)』から、その次三十五帖『(わか)()()』。文章量で見ても、本編全体の六分の一をこの二帖が占めている。力の入りようがわかるというものだ。


(じゅん)(だい)(じょう)(てん)(のう)となり、巨大な六条邸に多くの妻を住まわせる光源氏。彼に先代帝の()(ざく)(いん)――光源氏の実の兄が、娘を嫁がせたいと言ってきます。四十歳の光源氏に対して、嫁いでくる(おんな)(さん)(みや)は十四歳。光源氏は断ろうとしたのですが、娘に心強い後見人が欲しい、と朱雀院に頼まれて断り切れません。女三の宮は紫の上の従妹にあたりますから、一連の『紫のゆかり』の面影を宿し、かつ帝の血を引いた皇女……紫の上よりもはるかに高い身分、はるかに若い姫君です。結婚するとなれば、当然第一の妻、正妻として迎えることになります」


 光源氏に紫の上へ配慮する気持ちはあっただろう。しかしその反面で、帝の娘……最高位の姫を妻にすることへのあらがえない誘惑もきっとあった。


「結婚を承諾してしまったことで、これまで正妻として大切にしてきた紫の上との関係が崩れていきます。身分が高くなく、子供にも恵まれなかった紫の上から見れば、皇女で若く、しかも姿は若き日の自分に似た姫君が、正妻になったのです。彼女は酷いショックを受けてしまう。夜になれば光源氏は女三の宮のために時間を割き、彼女の寝所へ行ってしまう。そんな日々に、紫の上の心は不安と寂しさですり減っていきます」


 成長し、光源氏にとって理想の妻となる流れでは、紫の上の描写はあっさりしていた。

 それが、いざ彼女の存在を脅かす女三の宮が登場したここから、紫の上の心理が繊細に描かれるようになる。


 成功譚が頂点を超えたタイミング……光源氏が人生の下り坂を迎えたところからドラマはより深くなる。


「紫の上が傷ついていく裏で、正真正銘の『お姫様』を手に入れたはずの光源氏は、女三の宮に失望します。長年連れ添った紫の上や、理想の女性像だった藤壺……光源氏が本気で愛してきた彼女たちに、子供すぎる女三の宮は全く及ばないからです」


 若く、美しく、身分も最高だけど、それだけ。

 お人形のような幼すぎる姫に光源氏は興味をもてない。でも先帝の手前、彼女を邪険に扱うことは許されない――紫の上は一人でこっそり泣きながら、出家したいと思うが光源氏は許さない。数年経ち、すっかり心が疲れた紫の上は寝込んでしまう。


「皮肉にも、紫の上が身体を壊したことで、光源氏は彼女の元に戻ってきます。紫の上がどれだけ大切だったか光源氏は気付きます。新婚当時に住んだ二条邸で紫の上を看病し、二人の時間を過ごすようになります」


 ◇


 話が長くなったので、少し休憩を入れた。


 お手洗いに行く人、水分をとって一休みする人。それぞれに寛いでいる。

 前列の四十代くらいの女性がウーロン茶を一口飲んで言った。

「紫の上に戻ってきたんですね……この場面の紫の上、ちょうど私と同世代ですし、共感してしまいます。病気だったとしても、光源氏が戻ってくれてよかったねって……」


 ここからはいよいよ光源氏の晩年にかけての話になる。

 中座していた人が全員席に戻ったのを確認して、講義を再開した。


「紫の上の看病で六条邸から光源氏がいなくなっているこのとき、その裏で大きな事件が起きます」


 光源氏の若き日からの親友であり、今では政敵になっていたった(とうの)(ちゅう)(じょう)。その息子、(かしわ)()は女三の宮に恋をしていた。七年越しで道ならぬ恋を募らせた彼は、光源氏の不在に女三の宮と強引に関係をもってしまう。


 二人の間には子供ができる。


「若かった頃、光源氏は帝の後妻だった藤壺と関係し、子を成しました。今度は自分の妻が不義の子を妊娠してしまった。しかも父親は旧友の息子……自分達の過去が繰り返されたような事件に光源氏は大きなショックを受けます」


 柏木は罪悪感と、光源氏に事情を知られた恐怖から寝込んで、そのまま亡くなってしまう。

 子を産んだ三の宮も光源氏の冷たさを知り、逃げるように出家して去っていく。


「光源氏はそもそも帝の子です。以前、高貴な(ろく)(じょうの)()(やす)(どころ)が生き霊になって人を取り殺したように、光源氏も高貴で大きな力をもった、周囲から畏れられる存在なんです」

 

 そして、最愛の紫の上も衰弱の果て……ついに亡くなってしまう。

「光源氏はこれまでを振り返り、なぜ、もっと紫の上をしっかり愛してあげなかったのか、浮気心で哀しませたのかと悔やみます。最も大切なものを無くした光源氏は抜け殻のようになり、自分の人生に幕を降ろすことを決めます」


 五十歳を超えた光源氏は出家を決めて、手紙などを焼き捨てて身辺整理する。四十一帖『幻』で出家直前までが描かれ、そして次のタイトルのみ存在する『(くも)(がくれ)』で亡くなったことが暗示される。


「光源氏は英雄的な資質を備えつつも、エゴ、さみしさ、愛情……人一倍、人間らしい感情をかかえ、それに振り回された人間でした。若かりし頃の傲岸不遜な態度、数々の失敗、すべてを手に入れた栄華、老いつつの自省……多くを失い、振り返りながら死んでいきました。この、失っていく部分まで含めているからこそ、源氏物語は傑作になりました」


 この後、繋ぎの三帖を挟んで最後の()()(じゅう)(じょう)となる。だが、これは光源氏の死後、八年経過してから語られる子孫の物語。

 プリントに流れをまとめて配布した。


「光源氏亡き後の部分については、ご自宅で読んでみてください。時間いっぱいですね……毎回の聴講、ありがとうございました」


 ◇


教室での講座を終えたあと、聴講生の一人に呼び止められた。

「先生、講義のお礼といっては何ですが、このあとお昼ご一緒しませんか」


 学校のすぐ裏にあるランチをやっている小さなイタリア料理店。これまでも講座のあと、お茶に立ち寄っていた奥様が多かったという。今日は最終日ということで、聴講生二十人ほどでお邪魔すると電話をしたら、ランチを貸し切りにしてくれたそうだ。


「……最終日ですし、先生のお話、もう少し伺いたいですし」


 どうせ、午前中だけの勤務で届けを出していたということもある。

 昼食をつきあうことにした。


「じゃあ、先生、続きはお店で」


 聴講生の皆さんが賑やかに教室を出て、昇降口に向かって歩いて行く。

 職員室によって資料を片付けたら、自分も早々に校舎を出よう。

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