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続・辰巳センセイの文学教室~ふたりが紡ぐ物語~  作者: 瀬川雅峰
Ⅱ 源氏物語_宮本綾×黒沢黎
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15 それぞれの痛み



 教師になって三年経った。


 二年目から担任をもって、仕事はさらに忙しくなった。


 週末や、夜遅くまで残って仕事をすることも増えて、黎に会う機会は、ぐっと減っていた。気がつくと前回会ったときから、一ヶ月くらい経っていた。


 仕事の忙しさに追われながら、同時に充実感も感じていた。初めてもった担任の生徒達も、学年が進むに連れて次第に大人っぽく、落ち着いてきている。あと一年で送り出すんだ、卒業なんだ、と思って、ほんの少し寂しさを感じるようになった。


 多くはないけど、給料やボーナスも少しずつ貯金していた。使う暇もない忙しさの中、三年経つとそれなりのお金が貯まっていた。


 一部を使って、中古の軽自動車を買った。

 車の免許は学生時代にとっていたけど、車を買うのは初めてだった。軽自動車とはいえ、自分でした買い物としては史上最高額。


 忙しい生活の時間を縫って、少しでも黎に会うゆとりを作りたいと思っていた。仕事の後、直接黎のアパートまで迎えに行って、軽くドライブをしたり、食事を摂りながら話をしたり。電車の乗り換えや終電に煩わされるより、気楽に会えるようになった。


 土曜日は午前中まで学校に出て積み上がった仕事をこなし、午後から短時間だけ黎と会う時間を作ったり……交際をどうにか続けていた。


「忙しい合間だし……せっかくだから美味しいもの、食べようよ」


 ハンドルを握りながら、助手席の黎に声をかける。


「高いものは……無理だよ」

「高くなくても、美味しいものはあるし……それに、今日はいいよ。お給料出たばかりだし……出世払いで」


 そんな会話を何度かした。でも、繰り返す度に、慣れていって。


 食事も、車のガソリンや高速道路代も私がもつようになってしまった。良いことではないと思ったのだけど、その頃の私には、時間の方が惜しかった。時間にだけ余裕があった黎とのペースがどうにも合わなくて。


 私も自分の世界に入るのが好きだったから、彼は彼で、勝手に自分の世界を作っているくらいの方が、きっと上手くいく……芸術家同士というのはそういう部分があるもんだ。


 ……私は自分にそう言い聞かせて、片目を閉じていた。



  ◇



 教師五年目。


 初めての卒業生を送り出した翌年は、担任を持たなかった。生徒指導部の専任として仕事を覚えながら、美術部の生徒をゆっくり見ていた。

 卒業生を送り出した去年に比べると、学校から帰る時間も少しだけど早くなった。 仕事の後、黎と会う余裕も作れるようになった。


 この頃には黎の生活が以前より夜型になっていた。私と会った後に仕事に行く日もあって……それでは寝る時間は明け方になっていたはずだ。

 どうして、と訊いたら、深夜まで仕事をしていた方が、割も良くて、何かと効率的なのだ、と言われた。


「お酒を出すお店、とかじゃないの?何の仕事してるの」


「夜の仕事いろいろ……だよ。最初は……バーテンで入ったんだけど、お金が昼よりいいから」


「でも、写真屋の仕事から離れたら……その……黎の夢から離れちゃわない?」


 黎は、露骨に不機嫌な顔をした。

「そっちはそっちでやめてないし、大丈夫だって」


 黎の顔には険しさが増していたように思う。


 私は黎のよそよそしい態度が気になった。大学時代からバイトしていた写真屋さんに、用事を作って訪ねてみた。


 店長さんは、久しぶり、とにこやかに迎えてくれたのだけど……。


「いや、黒沢君ね、最近、うちに顔出すのは、ホントにたまにになっちゃったね。夜のお仕事の方で、なんか写真撮る仕事も増えてるって。そっち、実入りがいいみたいでさ」


 黎が、夜の街で仕事として、写真を撮ってる?



 ◇



 本人に確かめようと思っていたら、そのタイミングは突然やってきた。


 久しぶりに、彼の家に来た日。

 大学を出る前に合鍵をもらっていたけど、一度も使うことはなかった。彼も、学生時代のちょっとした背伸びだったのだ。そういう、全て見せている、というポーズ。


 ……長いこと、入ることもなくなっていた黎の部屋。


 訪ねてきたのに黎は留守だった。彼を待つために、一度くらい合鍵で家に入ってもいいか、と思った。


 部屋は、すっかり様子が変わっていた。


 ネガや焼いたばかりの写真が沢山転がっていた。以前来たときよりも、性能のよい機材があるのも見てわかった。写真の多くは、女の子だった。仕事でとったものらしい。大きく引き延ばしたり、ロゴを載せてプリンタから出力したり。水着や、下着の写真も。女の子は、みんな若々しくて綺麗だった。


 なに、これ。


 中には下着姿の写真もある。お酒を飲みながら接待……するようなお店の内装の写真もあった。彼が好きだったはずの風景は……世界を写した作品はいつの間にか仕舞われて、女性の写真ばかりだった。


玄関に気配があった。


 黎が、見たこともない女性と一緒にいた。


「……黎? それ、だれ?」


 明らかに狼狽している黎に腹が立った。

 私の剣幕を見て、黎が何かを言い含めて女性を外に出して、私の方を向いた。


「……仕事の、写真をさ、撮りに来たんだよ」

「……嘘」


 こんな散らかった、こんな狭いアパートで写真の撮影の仕事……あり得ない。もう少し、嘘なら上手についてほしかった。


「写真の仕事って言ってたけど、女性の写真ばかりじゃない。下着しか着てない写真とか……裸のまで」


「だって、仕事っていっても多いのは、ホステスや風俗の女の子の宣伝用写真だから。あとは、店舗の内装とか、PR写真とか、広告作りとか、頼まれていろいろ引き受けちゃって」


 バーテンの仕事から入って、カメラマン志望だって話題に出したことで、いつの間にか周りから仕事が来るようになったという。


「お店じゃカメラマンの黒沢君、で覚えてくれている人もいるんだよ。ホームページのデザインなんかも結構請け負ってて、それなりのリピーターもついてるんだ」


 夜の街でカメラマンをして、デザイナーのようなことまでしてるなんて、私は全然知らなかった。女の子の写真を沢山撮っていて、それが評判になってる、というところにカチンと来ていた。


 何より、それを全部私に秘密にしていた。

 私の写真は撮ろうともしなかったのに……。


「俺の写真さ、これでも結構評判いいんだよ。女の子のいいところっていうか。可愛いところをしっかり引き出してるって言われてて」


 マイペースな黎は、相手に警戒させない、優しい雰囲気を昔から漂わせていた。私もそんな彼と一緒にいるのが好きだった。

 きっと女性に独特の安心感を与えるのだろう。部屋にあった写真に写った女の子の表情も、リラックスして見えた。そしてそのことが余計に私をいらだたせた。


「なんで、勝手にこんな……女の子の写真とかでバイトしてんの?」


「勝手にって……別に、割のいい仕事してたら、自然とこうなっただけだって。自分の写真続けるのにだって、お金がかかるのは、知ってるだろ」


 黎は何も変なことは言ってない。


 でも、さっき女を連れていた。


 本当のことを言っていても、全部を言っているわけじゃない。

 そうわかってしまうことが、とにかく哀しかった。素直に騙されていられたら、もっと楽だったのに。


「……私の写真は撮ろうともしなかったのに。女の子の写真沢山とって楽しそう。こんな写真が……黎が撮りたかったものだった? さっきの(ひと)から、黎、話逸らしてるよね」


 女の子の写真だろうがなんだろうが、黎の写真が認められて、それでお金をもらえていることはめでたいことなのだけど……こんな状態じゃ、喜べない。


 黎は下を向いて、しばらく黙ってから、こっちを見た。


「そんなさ……理想どおりのチャンスなんて転がってるわけ、ないだろ」

 こちらを見た黎は、とても寂しそうだった。


 その目を見たとき私は自分の間違いが、今始まったことじゃない、と理解した。


 ずっと前から間違っていた。始まりは僅かだったレールのずれが、どうしようもなく大きくなっていたことに、今夜気付いたというだけだ。


「何度もさ、コンテストだって、新人向けのいろんなの、挑戦したんだよ。俺」

 甘ったれで、優しくて、大好きだった黎。


「結果出たら、綾に言おうって思ってさ。でも、いいところまで行っても、大きな賞取れるわけでもなくて。雑誌の仕事も細かいのばっかりで、実績としてアピールするのも難しくて……ギャラなんて、本当に学生の小遣いみたいな額だよ。そんなのいつまでもやってていいわけないって思うだろ。綾はもう先生になって五年……卒業式もやったよね。生徒たち、立派になったって、嬉しそうにしてたよね……きっと立派な先生なんだよな……俺なんかもう、釣り合わないくらい」


「……今さら情けないこと、言わないでよ。黎は凄いんだって、才能あるんだって、私はずっと思ってたんだよ……黎はきっと……」


 きっと、何と言いたかったのだろう。

 言葉に詰まった私に黎が被せてきた。


「ごめん。期待に沿えなくてごめん。俺さ、カメラやってるわけだって、たいしたことじゃなくてさ。今まで続けてるのも、俺には他に何にもないから、しがみついてるだけなんだ。そんだけなんだよ。俺、せいぜいこんなくらいのヤツなんだよ」


 泣き虫の黎。

 大好きだった黎。


 私はそのあとしばらくして、別れを切り出した。

 黎には身軽になって成功してほしかった。


 一番邪魔なのは、きっと私だった。

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