13 源氏物語の講座 二
「前回は一つ目の大きな軸となる『紫のゆかり』の女性達についてお話しましたが、今回はもう一つの軸……折々に差し込まれる外伝的な恋愛についてお話ししましょう」
講座も第三回となると、空気がこなれてくる。
夏真っ盛りで外の強い日差しがコントラストを生んで、教室の中が少し暗く感じる。
前回のメインストリームの軸『紫のゆかり』系のお話と違い、今日の挿話系――『玉鬘系』と呼ぶ――のお話にはほのかな暗さが似合う。
「今日お話しするのは、主に恋愛の失敗譚です。この四人を主にしたドラマになります」
①空蝉 ②夕顔 ③末摘花 ④玉鬘
源氏物語の第一部で、恋愛の失敗譚に登場するヒロインたち。マドンナである藤壺やメインヒロイン紫の上……といった光源氏の人生に深く関わってくる恋人たちとは対照的な存在だ。
「二帖『帚木』冒頭で、光源氏の親友である頭中将ら、上流貴族の貴公子たちが集まって、それぞれの女性経験を披露する有名な場面――『雨夜の品定め』があります。恋人との経験をバラしあっての女性評……少々品がないですが。友人たちは、中流貴族の女性にこそ魅力的な人がいる、という話題で盛り上がります。光源氏自身は藤壺との関係で頭がいっぱいなので聞き役に回っていますが、この後しっかり影響を受けて……中流の女性たちと立て続けに恋の事件を起こしてしまいます」
思い人がいても、外に魅力的な女性が、と言われるとそっちについ目をやってしまう男の習性は、いつの時代も困ったものなのだ。
「一人目は①空蝉。雨夜の品定めのすぐ後に泊まった中流貴族、紀伊守の家。そこで光源氏が出会った、若い後妻が空蝉です」
光源氏は半ば強引に迫って空蝉と関係をもってしまい、彼女の控えめで奥ゆかしいところに魅力を感じる。しかし空蝉は、身分の違い、年上で人妻である自分の立場を顧みて、光源氏にときめきを感じつつも、もう会わないことを決める。
「会えないことでさらに思いを募らせた光源氏は、次第に強引になっていきます。忍び込んでまで会おうとするのですが、彼女に察知されて逃げられる。挙げ句に勘違いして、空蝉の隣で寝ていた紀伊守の妹、軒端荻と関係をもってしまう……いくら真っ暗な夜中とはいえ、あんまりな話です」
聴講生の皆さんが困ったような笑顔になる。
今日の講座はこういう「情けない話」づくしである。
◇
「次が②夕顔。うら寂しい、荒れた屋敷に住んでいる彼女のはかなげな魅力に、若い光源氏は激しく惹かれます。後でわかることですが、実は親友、頭中将の昔の恋人でした。頭中将と夕顔の間には娘もいるのですが、正妻に憎まれたため、姿を隠して暮らしていたのです」
夕顔の魅力に夜ごと通い詰める光源氏だが、深夜デートの最中にうたた寝をしていると、嫉妬に燃えた女性が夢に出てくる。何事かと思って目を覚ますと、目の前で夕顔が急死してしまう。どうやら以前から光源氏が付き合っていた恋人、六条御息所の生き霊が、夕顔に取り憑いて命を奪ったらしい。
「人が誰かを思うこと、妬むこと、恨むこと――心の力は大変強いものと考えられていました。源氏物語では、高貴な人ほどそうした力も強いです。御息所というのは、帝の子を産んだとても高貴な女性。恋人の光源氏が深夜に別の女――夕顔といちゃついている。女性として許せない思いが、生き霊となって襲いかかった。この後、御息所の生き霊は、最初の正妻、葵の上も死なせてしまいます。生き霊は、御息所自身でさえ、自覚も制御もできない恐ろしい存在です」
二人でいるところで、恋人が死んでしまうという一大事。スキャンダルになるので、と駆けつけた家来に説得されて光源氏は姿を消す。せっかく気持ちが通じた恋人なのに、死後の対応さえ人任せにした……光源氏は自分を責め、後々まで哀しむ。
◇
「そして③末摘花。皇族の娘でありながら、ひっそり荒れた屋敷に住み、琴ばかりを相手に過ごす令嬢……そんな噂にロマンを感じた光源氏は手紙で口説き、夜に訪ねて関係をもちます」
この頃、貴族の女性は親密になるまで顔を男性に見せない。恋人であっても女性の顔をはっきり見られるのは、何度も手紙をやりとりし、気に入られて夜のデート――寝室で一夜を過ごした翌朝だった。
「ところが、朝の光の中で見たらびっくりするほど醜くてガッカリ……酷いオチです。光源氏は、だからといって邪険にするのも……という微妙な心理で生活を支えてあげたりしますが、恋人になったことは失敗扱いです」
滑稽な中に、光源氏の身勝手さも見える挿話になっている。
だが末摘花との交際は、長い長い間をおいて、後日譚がある。
「それでも末摘花はずっと一途に後々まで……光源氏がこの後、彼女をほったらかしにしても、十年越しで光源氏を思い続けます。その一途な心根を知った光源氏は反省し、恋人の一人として末永く彼女を保護します」
◇
最後に④玉鬘である。
「彼女は②夕顔の娘で、夕顔の死後ずっと後――なんと十八年経って、光源氏が三十代半ばになってから登場します。光源氏は後ろ盾のない玉鬘を義父として引き取ります。美しく成長した彼女には多くの求婚者が現れますが……光源氏まで彼女が魅力的に見えてきて……義父の立場にもかかわらず、横恋慕してしまうのです」
聴講する皆さんの顔が微妙に引いている。
光源氏に口説かれて困る玉鬘。経済力と権力をもった義父が、義理の娘に添い寝をしたり、口説いたり……玉鬘も迷惑がりつつも、立場上きっぱり拒否できない。光源氏に痛々しい『勘違い中年』の雰囲気が漂う。
「玉鬘のエピソードは、玉鬘十帖とも呼ばれ、文章量こそ多いのですが、心の逡巡や繰り返し的な行動が多いです。光源氏が恋愛感情を何度も玉鬘に見せたり、かと思うと若い求婚者に玉鬘の美しさをアピールしたり……何だか落ち着きません」
最終的に、玉鬘は強引に言い寄っていた若者、髭黒の大将に横取りされてしまう。
「どの女性とのエピソードも共通していることは、光源氏の恋の失敗を描いたものであるところです。『紫のゆかり』系は、母親の面影によって繋がれた、栄光への連続した物語でした。しかし『玉鬘』系のエピソードは、それぞれ独立性が高くなっています。二つの系列は絡み合うように並んでいるので混乱しやすい。ですが『紫のゆかり』系をメインストーリーとして、今日の『玉鬘』系を、挿入された外伝と捉えると、わかりやすく読めます」
◇
講座の終わった後、職員室に戻って書類仕事をしていた。午後は休日出勤の代休を入れていたが、少し片付けたい仕事があったので、軽くやっていくつもりだった。
宮本先生が俺の机までやってきて、お昼でもどうですか、と誘われた。
ご馳走しますと言われたので、割り勘ならOKです、と返事をした。
校門を出たところで、宮本先生に言われた。
「この前は失礼な質問を……すいませんでした」
ああ――あの『光源氏が身につまされる』云々をまだ気にしてか、と腑に落ちた。全く気にしていませんから、と返して講義を話題に歩く。
「……源氏物語というと、ずっと英雄的な、イケメンがどんどん恋を手に入れていく……浮いた話のイメージでした。でも、今日の『玉鬘系』のお話は……かっこよくない話ばかりなんですね」
「はい。四人が登場する失敗譚の部分は、光源氏の素が出ている感じで、人々もよりリアルに描かれています。光源氏も欲に動かされ、時に道を間違える。恋人ひとり守れず落ち込む……哀れなところを見せます」
「……英雄の人生も甘いことばかりじゃないって感じですね。でも、前よりは光源氏に親しみを感じるかも。どんな男性でも、裏には情けない部分を抱えてて……千年経ってもきっと」
宮本先生の向けてくる視線に柔らかいものが混ざっている。
駅の近くまで来ると、人通りが増えてくる。構内に入る手前の壁に、旅行キャンペーンのポスターがあった。
宮本先生がポスターの前で足を止める。
俺も隣でポスターを眺める。人気のなくなった街の一角で、美しい少女が佇んでいる。少女の服装も落ち着いたもので、旅行キャンペーンにしてはずいぶんしっとりした雰囲気だが、見ていると引き込まれそうな独特の魅力がある。
黙って足を止めたままの宮本先生に声をかけた。
「いい写真、ですね……この写真、雰囲気がとてもいいです」
「……辰巳先生も、そう思いますか」
宮本先生の口元がわずかにほころんだ。
◇
駅舎の中に入っていた昼間は軽食、夜はバーになるお店。
二人掛けの席に向かい合って座って、ランチメニューからパスタを頼んだ。
しばらく宮本先生は黙っていたが、やがてぽつりと、半ば独り言のように言った。
「実は……あのポスターの写真、知人が撮ったんです」
「知人……ですか?」
「お恥ずかしいのですけど……」
そこで宮本先生は一拍置いた。
「……昔、つきあっていた人で。もう、ずっと会ってなかった人です。すっかり有名なカメラマンになってますけど、昔は本当にお金もなくて、不安定で……夢しかないような人で」
ぽつり、ぽつり、と空間に言葉を置いていくように、宮本先生が話す。
「昔のことです……私から別れを切り出して、それっきり」
「……今になって、何か気になることがありましたか?」
宮本先生の話し方が、ただ昔を懐かしんでいるように聞こえなかった。まるで今、彼とのことで悩みを抱えているような……そんな響きに感じた。
水をぐっと一口飲んで、ほんの数瞬、逡巡した様子を見せた後、宮本先生は口を開いた。
「……どう返事していいのか、ずっと、迷っていて」
言いにくかったのか、誰から、何に、の部分が後追いになった。
「彼からメールが来たんです……十五年ぶりに」
宮本先生の視線がテーブルの上にそっと置かれている。そこには懐かしさと照れくささと、いろいろな色がまざっているように見える。
「……ずいぶん久しぶりですね」
「彼、会いたいと……」
かちゃん、とウェイトレスの手でパスタが置かれた。
宮本先生の表情がはっとして、催眠が解けたようになった。
気恥ずかしそうにあたふたする。
「ああ! すみません。辰巳先生にお話しすることじゃないのに……どうかしてます私……」
宮本先生は食べましょう食べましょう、とフォークとスプーンを手に取った。
いかにも美味しそう、という表情でパスタに視線を向け、会話はそこでおしまいになった。




