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続・辰巳センセイの文学教室~ふたりが紡ぐ物語~  作者: 瀬川雅峰
Ⅱ 源氏物語_宮本綾×黒沢黎
31/53

11 カレーとこれから



(れい)、早いね」


 息が白い。

 隣で黎が革のジャケットの襟元を合わせた。


「早いね……ほんとに。あと、一年か……」


 二人で行きつけのカレー屋のドアに貼られた、少し気の早いチラシを見ている。


『新入生の皆さまへ、トッピングサービス!』


 間もなく新入生がやってくる時期なのだ。そうなれば、私達の大学生活は最後の一年がスタートする。入学式まではまだ二ヶ月近くあるけれど、早々に合格を決めた新入生が、入学準備のため大学周辺に姿を見せていた。


 黒沢君、から黎に呼び方はとっくに変わっていた。


 黎も私を(あや)と呼ぶようになっていた。私にとって一緒にいることはもう当たり前すぎて、卒業による別れは受け入れたくない、と思っていた。


 一年生の頃と比べると、ゆとりのある大学生活……とはいいながら、それでも結構忙しくなっていた。キャンパスではお互い、専門分野の創作に割く時間が増えて、私は絵を描いているか、講義に出ているか、その合間に黎の家にいるかの生活になっていた。


 彼も同じように、自分の写真の合間に写真屋さんのアルバイトをしながら、そこの機材と暗室をほどよく使わせてもらいながら、自身の創作に励みつつ忙しい日々を送っていたと思う。


 カフェテリアや、講義の後で交わす同級生とのお喋りの中に少しずつ就職の話が出始めていた。


 あの頃の就職活動はエントリーハガキを企業に出して、その後書類を送り、何度も面接を重ねて、というスタイルだった。


「エントリーハガキ、何枚送った?」

「何社から返事来た?」


 挨拶代わりに、そんな言葉が飛び交っていた。民間企業への就職を希望する同級生……女子には百枚ハガキを書いたという子もいた。就職氷河期で、100枚以上ハガキを送ってやっと一社面接に進めた、なんて話も珍しくなかった。

 

 カレー屋のテーブルを挟み、目の前でスプーンをくるんでいる紙ナプキンを黎がほどいていく。ここは学生にも安心なお値段で、学生のお腹も満足な盛りで出してくれるありがたいお店。


「私は……ちょっとカタいところで先生狙いなんだけど、黎、考えてる?」


 私は教員になるための勉強を進めつつ、セットで地方公務員の試験も受けるつもりでいた。一部の勉強内容はかぶってくると聞いて、どうせならと。


「ね、卒業したらさ、黎はどうするの?」


 ライスとルーをスプーンの先で混ぜはじめながら、自然な感じになるように言った。


 どちらかが実家に帰ることや、就職に伴う引っ越しなどを区切りにして、卒業までで別れるカップルは先輩達で何組も見ていた。大学卒業なんだから……もう社会人なんだから仕方ない――淋しいけど、そうやってどこかで納得をして、先輩達も別れていたように見えた。


 流行りのポップスを聴いていると、恋こそ人生の最優先事……なんて気分になれた。でも、大学の終わり近くまで、じっくり青春を過ごした私たちはそれなりに理解していたのだ。


 「現実」や「限界」という概念を。お金に、距離に、時間……愛も恋も干されたり、冷やされたり、割かれたりすると。


 それだけに、相手の黎がどんな気持ちでいてくれるのか……私と釣り合うような気持ちでいてくれるのか気がかりだった。将来の計画は、そのまま二人のあり方を左右する話題だけに、重い雰囲気で切り出したくなかった。カレーを食べながら話すことが正解とも思えなかったけど。


 黎は、こんな話題を持ち出したときでも、やっぱりマイペースだった。


「……写真で食っていきたいのは変わんないから、俺はそっちでやってけるように……どうにかするよ。必ず食えるようにする。俺はやっぱりこれでなんとかしたい」


 そう言って彼が手にして見せる「これ」はもちろんカメラ。

「そっか……うち、両親もいるから、自分は結構しっかりしなきゃって、思うんだ」


「……」

 黎の顔の表情が、少しだけ寂しそうに見えた。


 だから、黎、あなたもしっかりして――今思えば、私の言葉は外側にそんな要求の空気を纏っていたんだろう。


「綾の期待に、ちゃんと応えるようにするよ。頑張るからさ……」


 黎の声をどこか遠く聞いた。今なら、あのあたりから変わっていったんだとわかる。


 でも、私はそのとき、明るい声を出して、心に絡みかけた色々なものを吹き飛ばそうとした。


「そっか。黎はやっぱり据わってるね……卒業で引っ越したりはしない?田舎に戻るとか……」

「田舎に帰ったらチャンス減るから帰らないよ。どうにかお金作って、この辺に住み続けて……結果出すまであきらめたくない」


 黎はここにいる、そう決めてた。


 揺るぎのなさを少しうらやましくも感じた。


 私は、別れるつもりなんて全くないのに、それでもここに居続けることに対して躊躇する気持ちもないわけではなく……田舎の両親を思ったり、自由にここに居続ける未来を夢想したり。


 いろいろ中途半端で、それでいて、黎には自分に都合のいい未来をどこかで期待した。


「私はさ、両親のこと考えると、心配になるんだ……」


「田舎に帰る、とか?……ご両親になんか、心配なことあるの」


「私、一人っ子なんだよ。両親には、凄く大事に……過保護なくらい大切にされてきた。そんなに裕福でもないのに、芸大に入れてもらったのも無理させたと思う。だから、卒業したら早く安定した生活をして、安心させなきゃって……」


「綾はそれで……」

 黎は一瞬口ごもった。


「……いや、優しいと思う。それは、立派なこと、だよね」

 言葉の方向を修正して、そう続けた黎。


 本当は、私ももっと自分の絵描きとしての素質に期待をしたかった。あのときの黎もきっとそう思って私の気持ちを汲んで、でも、それを口に出すべきじゃないって気遣った。


 私は早く自立しなきゃと思っての教員志望だったけど、どこを本命にするか決めかねていた……今のまま、大学の近くで受けるか、地元に帰るか。今の大学の近くで受ければ、このまま引っ越さずにすむし、黎ともいられる。だけど、生活費……家賃はかかるし、両親をずっと放っておいていいのかとも思う。


 カレーに入っている牛肉がちょっと固い。口の中で繰り返し噛みながら、ちょっとずつほぐしていく。何事も、一つずつ、ほぐせば、なんとかなるよね?


「黎の家は、自由にさせてもらえる感じなの?」

「……させてもらえる、か。そう言えば、そうなんだろうな」


 黎の目が少し険しくなって、でもそれは怒っているというよりはどこかなげやりな、どうでもいい、という雰囲気でもあって。


 あ、ごめん、俺、あんまり実家……というか父親とうまくなくてさ、と黎は付け加えた。


 黎の家には母親がいなかったと知ったのは、このときが初めてだった。黎は家庭の事情をあまり私に詳しく話したがらなかったからだ。横柄すぎる父親に愛想を尽かし、黎が小学生の頃、母親は突然家を出て行ったという。

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