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続・辰巳センセイの文学教室~ふたりが紡ぐ物語~  作者: 瀬川雅峰
Ⅰ 銀河鉄道の夜_辰巳祐司×岩嶺ハルミ
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2 思いの残る部屋


 教育実習の初日は小柳先生の仕事を見せてもらった。


 授業はそれまで進めていた評論の読解。

 最後のまとめと振り返りだった。


 次回の授業からは次の単元に入る――そしてその授業は俺が担当することになる、と小柳先生が生徒たちに伝えると、生徒たちの視線が一斉に集まった。興味津々、という視線を受け止める。


 授業のあとは職員室で明日からの仕事について軽く打ち合わせ。明後日からの授業準備のため、教材を鞄に詰めて学校を出た。


 懐かしい通学路を歩く。

 中学校にいた七年前とほとんど変わっていない。それもそうだ。自宅から中学校までは住宅地を主に歩き、途中に数件のコンビニや商店、二カ所のスーパー。どこも自分が中学時代から営業している店ばかり。


 高校までは通る度に立ち寄って飲み物やサンドイッチを物色していたスーパーに、半ば惰性で立ち寄った。お馴染みの売り場を通りながら、美味しそうに見えた惣菜コーナーの唐揚げを買った……父とのつまみくらいにはなるだろう。


 外に出て、さらに歩いて十分。二年ぶりの実家の玄関に着いた。


 二階建ての洋風建築……父と二人で生活していた時期を思い出す。どことなくがらんとした印象が常にあって、二人で住むには隙間を感じる家だった。


 遠くでもないのに、大学生活を送っている間、すっかり足が遠のいていた。父は一人で住むようになってからは、きっと余計にその広さを持て余しただろう――今はそうでないにしても。


 ピンポン。


 一度だけチャイムを鳴らして、それから待っているのもなんだな、と思ってポケットから鍵を取り出した。かちゃりと解錠。ドアを開けて「ただいま」と言いながら玄関に入ると、ふいっと抜けた空気の匂いが記憶と違っていた。


 家は、住む人によってまとう空気の色が変わる。違う人が住む家になったのだ、とあらためて思い出す。


「こんにちは……祐司さん、ですね?」

 そう言って玄関に出てきた女性は(みどり)さん――と聞いていた。顔を合わせるのは初めてだ。翠さんの後ろからこちらの様子を窺うようにしている視線は(あかね)ちゃん――のはず。


「……父は、まだですか?」


 翠さんの艶々として茶色がかった髪が軽く波打っている。ゆったりしたトレーナーにスリムのジーンズ。翠さんはうっすら笑顔を作った。


「はい……でも、あんまり固くならないでください。もともと祐司さんの家ですから。でも知らない顔がいたら落ち着きませんよね」


 そういう翠さんの言葉も自分に負けず劣らず、他人行儀な気がする。後ろの茜ちゃんも、こちらをじっと見ているが、特に何も言わない。


「茜、ご挨拶は」

「……こんにちは」


 様子を伺っている、という表現がぴったりの幼い瞳。ぽつりと出た挨拶の言葉に、こちらもこんにちはを返した。



 妻を亡くし、一人で住んでいた今年五十になる父。二年ぶりに帰ってきた二十二歳の息子。出迎えてくれたのは、三十代半ばの、父の再婚相手の翠さんと、翠さんの連れ子である茜ちゃん――小学四年生。いろいろ難しいのは、きっとお互い様で、それは仕方のないことだ。


 リビングに戻ると、茜ちゃんはソファに座って中断していたらしい携帯ゲームを遊び始めた。翠さんは台所に戻った。

 俺はそのままリビングに座り、話しかけるでも、何をするでもなく、しばらくじっとしていた。居場所の定まらない、お互いにぎくしゃくした時間。こんなことなら、もう少し時間を潰してから来るんだった。


 ◇


 三十分ほど粘ってみたが、やはりいたたまれない。ひとまず自室に引っ込むことにした。


 父から聞いた話では、部屋はそのまま、二年前のままにしてあると。

 二階へ上がる階段を上り、短い廊下の先にある自室のドアを開ける。こもった感じはなかった。マメに空気を入れ換えてくれているらしい。


 部屋の隅にはベッドがあり、机と、大人二人分の肩幅くらいある本棚。押し入れと、幅五〇センチほどのクローゼット。机の上には何も載っていないが、そこで使っていたノートPCは、一人暮らしの部屋から今日もって帰ってきている。


 机の上、元あった場所にPCを置いて、電源ケーブルを差し込んだ。

 PCの立ち上がるのを待つ。このノートPCもすっかり年季が入っている。そろそろ新しいものに買い換えないと……と思いながら、文書ファイルを開けた。


 「銀河鉄道の夜」の授業の作りかけの指導案が画面に表示される。明後日の実習の準備を、今夜じっくりやるつもりで持ち帰ってきたのだ。



 宮沢賢治――日本における詩、童話の世界で外すことのできない巨人。しかし、実際の彼の有り様は驚くほど質素だった。

 生前に発行されたのは自費出版による詩集『春と修羅』のみ。しかもそれでさえ、ほとんど購入してもらえず、地元の運動会で景品として配られたという。

 童話世界を鮮やかに描き出すイマジネーションの豊かさと、生死に関わる哲学性の高さが、彼の作品を構成する大きな柱である。

 はじめて読んだ中学生の頃は……正直苦手だ、と思っていた。


 ◇


――「ねえ、祐司は宮沢賢治って、どれくらい読んだ?」


 美幸の声がする。賢治の童話集を開きながらこちらへ左の肩ごしに顔を向けている。

 夏休みの宿題に渡されたワークシートを目の前に広げながら、返事をした。


――「風の又三郎とか、いくつか読んだけど、あんまり面白く感じなかった。自分からもう読もうとは思わないかな」


 くす、っと美幸が笑う。


――「祐司らしいね……難しく考えすぎなんじゃない? 注文の多い料理店とか、すごく童話らしくて、可愛いのに」


 思い出すつもりもないのに、交わした会話が自然に思い出される。この部屋で、二人で本のことを話した夏休み。

 二人とも中学生だった。身長がやっと美幸を追い抜いて、その事が内心凄く嬉しかった。美幸の前ではおくびにも出さなかったけど。


――「うーん。オツベルとかゴーシュとか……読んでて重いというか、なんか苦手な印象あるんだよな」

――「童話っていうけど、テーマが生きることと死ぬこと……二つをあえて重ねてくるのが宮沢賢治らしいと思って。そうすることで、見えてくるもの……気楽な作品じゃないのはそうかも」


 お隣同士の気安さで、美幸とは頻繁に行き来をしていた。一つ年上の姉のようで、一番自然体で話をできる身近な女性だった。


 その頃、俺の母親はもういなかったから。


――「賢治は、ずっと仲の良かった妹を亡くして、しばらく書いていなかった時期があったんだよ。妹のことを書いた詩、知ってる?彼女を亡くした日付の書かれた三編の詩があって」


 詩集『春と修羅』のページを美幸がパラパラとめくる。

「あった」と言って、三編の中でも知られた一遍『永訣の朝』を美幸が読んでくれた。


けふのうちに

とほくへいつてしまふわたくしのいもうとよ

みぞれがふつておもてはへんにあかるいのだ

(あめゆじゆとてちてけんじや)

……


――「妹を亡くすことをまっすぐ描いてるのに、ただ喪失だけで終わってない。痛いほどの祈りがこもってて、凄いよね」


  ◇


 それほど授業準備は進んでいないというのに、いつしかベッドにごろん、と転がって天井を見上げてしまっていた。


 実習授業の準備はまだまだかかる。寝るわけにはいかないな、と思いながら、心に湧き上がってくる感情をもてあます。


 この部屋、彼女の面影、ふたりの時間。

 こみ上げてきた何かが、あふれそうになって、どうしていいかわからなくなる。

 俺にとって大切なものは何だったのか。失ったものは何だったのか。


 疑問ばかりが胸に浮かぶ。

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