9 源氏物語の講座 一
「源氏物語、全五十四帖を整理すると、三十三帖の藤裏葉までが光源氏の成功物語――第一部です。光源氏は准太上天皇――後継者に位を譲った天皇(太上天皇)と並ぶ地位まで上り詰めます。源氏姓の臣下としては破格の出世です」
栄華を極めた光源氏は平安京に、広大な屋敷『六条邸』を作る。
一辺が二百メートル以上ある敷地は、春夏秋冬の四つの区画に分けられ、それぞれに妻たちを住まわせた。
屋敷は事実上の正妻である紫の上をはじめ、愛した何人もの女性が住む巨大な「城」であり、光源氏の権力の象徴である。
三十三帖の終わりには、天皇と先代の天皇が直接この邸を訪れて祝福する「行幸」が大々的に行われる。
「この三十三帖まで流れをよく見ると、大きく二つの軸に分けることができます。今日の講義では、二つの軸のうち、より根幹を成す『紫のゆかり』と呼ばれる女性達のドラマをお話ししましょう。黒板にまとめます」
①桐壷更衣(光源氏の生母)
②藤壷女御
③紫の上
④(女三の宮)
「この四人が『紫のゆかり』と呼ばれる女性たちです。桐、藤、紫……それぞれの女性に花の名が入っていますが、花の色は全て紫。同じ色をもつ――ひとつの縁に連なる女性達です。最後の女三の宮は、三十四帖以降で登場する重要キャラですので、今日はカッコをつけておきます」
源氏物語の前半で主となる流れをつくるヒロインたち。ここに葵の上、明石の君、六条御息所……といった更に何人もの女性が複雑に絡み、物語は動いていく。
「光源氏は成長しながら多くの女性と関係をもちますが、その根幹にあったのは母親の面影でした。光源氏の母、①桐壷更衣は彼が三歳のときに亡くなります。このことが、後々まで母の面影を追い求める光源氏の方向を決定づけました」
光源氏は容姿と才能に恵まれた「光り輝いている」人だった。しかし反面で寂しがりで、強いマザコン要素をもち、恵まれた資質に対する驕り、無神経さも併せ持つ……わかりやすい完全なヒーローではない。
「①桐壷更衣の死後、帝は寂しさから彼女そっくりの②藤壷女御を妻にします。帝と彼女は親子ほど歳が離れています。まだ少年だった光源氏は帝のお気に入りとして宮廷で過ごしていましたが、母そっくりで、五歳年上の彼女に強く惹かれます」
光源氏は十二歳で元服。一人前の男性と認められる。
成人してまもなく、上流貴族である左大臣に薦められ、彼の娘――葵の上を妻にする。しかし、彼女はプライドが高く堅苦しい。光源氏は安らぎを感じることができなかった。
「妻に満足できず、母の面影を求める光源氏は数年後、ついに②藤壷女御と強引に不倫の関係をもってしまいます。彼女は光源氏の子を妊娠。二人の子は、世間的には帝の子……皇族です」
当時の貴族は何人もの恋人をもつことは珍しくなかった。しかし、帝の妻である藤壺との不倫、妊娠はさすがに一線を越えた過ちだった。
「光源氏と藤壺は自分達の罪深さを畏れます。子の将来を考え、秘密を守りぬくため、藤壺は出家して尼になり、光源氏の元から去っていきます。ここ一番では女性の方がきっぱりと行動するのは、源氏物語全編に見られる傾向ですね。男性は後に残されて……何かと思い切りが悪い。なお、この子は後に帝となって、光源氏の出世において強力な味方になってくれます」
藤壺との過ちの後、光源氏は彼女に似た少女③紫の上に出会う。
出会ったとき、光源氏は十八歳、彼女は十歳。光源氏は強引に屋敷に引き取って、理想の女性にするべく育て始める。
この後、正妻だった葵の上が若くして亡くなり、紫の上が正妻になる。光源氏は彼女を生涯のパートナーにする。紫の上にとっても、光源氏は幼い自分を育て、全てを教えてくれた大切な存在だった。
「こうして紫の上は源氏物語のメインヒロインになります。藤壺の面影があるのも当然で、彼女は血縁では藤壺の姪にあたりました。紫の上は長年に亘って光源氏に寄り添い、安らぎを与えてくれますが……子供には恵まれません。それが後々二人の関係に影を落とします」
光源氏は一時期、政敵の目を逃れるために単身、須磨へ隠れ住む。現地でぜひ妻に、と父親が会わせてきた姫がいた。光源氏はその姫――明石の君を妻の一人にし、二人の間にはすぐ娘も生まれる。
「光源氏はこの娘を紫の上に育てさせます。明石の君は生まれが高貴ではないので、彼女の娘のままでは上流社会への参加が難しい……将来を考えてのことではあるんです。でも、紫の上は光源氏の子を産めないままです。預かった娘は可愛い……でも、自分の血を分けた娘ではない、と複雑な気持ちも抱えるわけです」
こうして亡くした母、桐壷への思い、藤壺とのスキャンダル、正妻になる紫の上と、周囲の多くの女性達からの愛や嫉妬……いくつもドラマを折り込みながら、光源氏は出世し、高い地位へ上り詰めていく……これが源氏物語の第一部を作る一つ目の軸になる。
◇
講座を終えて、教室の鍵をかけた。
職員室に戻る途中で、宮本先生が声をかけてきた。彼女も美術の先生に少し話があるとのことで、しばらく廊下を一緒に歩く。
「先生のお話を受けて、源氏物語の解説書を少し読んでみました。光源氏という男性は、ずいぶん自分勝手に思えて、ちょっと腹が立ちます」
「そう読めるのが普通だと思います。彼自身、若い頃は特にそうですがかなり傲慢です。女性に強引に言い寄って、関係を結ぶようなこともします。でも、そういう振る舞いをとがめられない地位と力があり、女性側も彼の魅力にほだされてしまっている面がある。光源氏は関係をもった女性を大切にはするんです。嫉妬が沢山湧き起こって、女性は苦しむ。でも、光源氏の魅力と、愛された記憶によって、心から消しがたい存在になってしまう」
「……ますます頭に来ますね。実際にいたら、懲らしめてやりたい……ああ、でもきっと実際にいたら、女性はほだされてしまうのかも」
男性としては、微妙なところで同意しにくい。
「女性は……駄目な男に優しい方が多いんです、きっと……」
なので、無難に答えた。
「優しいというより、甘いんです……そういう男にも、自分にも」
やれやれ、という顔で、宮本先生が笑って――その表情のまま付け加えた。
「……ときに辰巳先生、源氏物語のお話していると、身につまされたりはしませんか?」
「え……?」
どきりとした。
「いえ。先生もいろんな方から好かれてましたよね……光源氏に共感するところもおありかなって」
いたずらをするような目。宮本先生が僅かに首を傾げて見ている。
答えにくい……彼女の指摘はあながち的外れでもない。今、自分が交際している咲耶は元教え子だ。宮本先生は飛田先生とも仲良くしていたし、おそらくそのことも知っている。
「円城咲耶とは……真剣に付き合っています。他の女性とは、なにもありません」
宮本先生にまっすぐ目を向けてそう言った。
彼女が少しだけ驚いたような顔を見せた。
「……ごめんなさい、辰巳先生。男性ってみんな……光源氏みたいなところ、もってるものなのかしらって。なんだかそんな風に思っちゃって。失礼な質問でした」
「いえ……」
別に宮本先生の質問に、失礼だとは感じなかった。それはきっと、俺の中に迷いもあるからだ。
恋人――咲耶は俺の過去に向き合って、それでも一緒にいてくれた特別な女性。ずっと隣にいてほしいと願っている。そう口で伝えようとしたこともある。
でも、俺と彼女の年齢は光源氏と紫の上よりまだ離れている。やっと二十歳になった彼女は眩しすぎて、つい躊躇ってしまう。
十二歳も上の自分が、どうやって切り出したら――そもそも、彼女にそれを願っていいのかと。




