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続・辰巳センセイの文学教室~ふたりが紡ぐ物語~  作者: 瀬川雅峰
Ⅱ 源氏物語_宮本綾×黒沢黎
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7 赤かったボート


 日差しを眩しく感じる初夏のある日。


 私は大学の食堂にいた。

 食堂は少し洒落た作りで、カフェテリア形式になっている。


 洒落た、といっても学内の、学生相手のお店だ。ただでさえ学費お高めの芸術大学。

 通ってきている生徒は、裕福な家庭の子が多めとはいえ、そこまで余裕のある家ばかりってわけじゃない。キャンバスだって絵の具だって、熱心に練習するほど減っていく。気がついたら、びっくりするほどお金がかかっている。


 だから、外のオシャレなお店にいつもいく余裕はない。エアコンで涼めるお手軽なこのカフェテリアが私のお気に入りだった。


 缶コーヒーより少しだけ高いアイスコーヒーをブラックで。コンビニエンスストアのスイーツくらいの値段で買えるモンブランを組み合わせて。


 上に乗った甘い栗をフォークでつついていると、授業の終わった黒沢君が、いつものカメラを首から下げてやってきた。


「宮本さん、今日はもう授業ないの?」

「うん。今日は三時()()目で終わり」


 大学の講義は一時限九十分。三時限目は午後2時過ぎに終わる。午前中からの授業は計三時限とはいえ、合計二百七十分……休み時間抜きで四時間半もある。頭の方はもうくたくただ。


 黒沢君の視線を気にせず栗を口に放り込む。甘い。

 座学の後って、糖分がほしくなる。実際に手を動かす絵画の実習の後は甘い物、というより、がっちり食べたくなるのだけど、頭だけ使うとやっぱり甘いものだ。甘い栗のあとはすかさずブラックのコーヒーを啜る。高級じゃなくたって、この組み合わせはおいしくて幸せ。世界は今日もそれなりに泰平です。


 よく校内で一緒にいる紀子は、今日は四時限目がある。まだ授業に出ているので、ここで一足お先におやつタイムしていた。


「俺さ、隣の公園散歩に行くけど、一緒にいかない?」


 ちょっと言いづらそうに、でもちゃんと言ってくるマイペースな提案。画集の話をしたときと、そういうところ変わらない。


 黒沢君はいつも飄々としている。春の新入生歓迎パーティー……で知り合ってから、校内で顔を合わせると話をするようになった。彼は映像学科で、愛用のカメラをいつもたすき掛けにして歩いている。


 女の子とべたべたしてる印象はないのだけど、マイペースで、自分がしっかりあるというか、ぶれない感じが私は嫌いじゃなかった。私以外の女子からの受けも結構よかった……本人はどう思ってるか知らないけど。


 散歩のお誘いに、うんいいよ、でも、ケーキとコーヒーの後ね、と言ってこちらもマイペースで食べる。

「俺もコーヒー取ってくる」と言って、黒沢君はカフェテリアのカウンターへ向かった。


 コーヒーを買うより先に、私を散歩に誘ってくるところが彼らしい。でも、悪い気はしない。


 彼は席に戻ると、美味しそうにぐびぐびとアイスコーヒーをストローなしで飲んだ。私よりも先に飲み終わってしまったが、別に催促するわけでもなく、私がケーキの残りを食べ、コーヒーを飲むのをちらちら眺めては、自分のカメラをいじっている。


 2分ほど遅れてケーキとコーヒーを片付けた私は、じゃ、いこっか、と声をかけて彼と席をたった。


 ◇


 公園の緑地を抜けて開けた広場へ。傾きかけた陽の下を黒沢君が歩いて行く。


 速すぎないが、やはりマイペースだ。私がついていくにはほんの少し無理をしないといけない。


 初夏の日を受けて、木々の影が黒々と落ちている。深い緑の葉が茂り、夏のピークが近いことを感じさせる。


 昼よりは暑さの抜けた空気を吸いながら、彼は長袖のTシャツとジーンズ姿で、肩からカメラを下げたまま、あちらこちら、落ち着きなく眺めながら歩いていく。

 何を撮ろうとしてるのだろう。時折手を出して、指で区切って構図を確かめるようにしながら、振り返りながら、あちらこちらを見ながら歩く。


 彼は何が撮りたいのだろう。私は何が描きたいのだろう。


 やがて、公園の北側に広がる大きな池まで来た。平日の午後、夕方近くとあってか人はまばらだ。池のほとりにはさびれた貸しボートの小屋。


 受付の窓口らしきところを覗いてみたけど、板戸が閉まっていて営業している様子はなかった。何艘もの小さなボート。そして、ボート小屋の裏には、すでに使っていなさそうな、色あせたボートがひっそりと数艘、隠すように置いてあった。


 傾いた日を受けたボートがセピア色を帯びて水面に揺れていた。


 黒沢君は、そのボートの中で特に古びた一艘……一番手前にあるそれを見た瞬間、素早い動きでカメラを構えた。


 パチリ、とシャッターを切る音。


 ファインダーには、元は赤色で塗られた、今はその色がはげて何色かほぼわからなくなった、くたびれたボートが収まったはずだ。


「黒沢君、いつも何撮ってるの?」


 彼の三メートル後ろから声をかけた。

「大学じゃいろいろやるけどさ。将来は風景っていうか……世界を撮りたい」


「人物撮るの上手いって聞いたけど」


「うん……人物撮るのも嫌いじゃないんだけど、一番惹かれるのは生き物そのものじゃないっていうか」


 実は、彼が古びた、以前は赤かったボートにカメラを向けたとき、私も同じモチーフに「絵になるな」という直感のようなものを感じた。たくさんあるボートの中で、どうしてそれを撮ったの、とは、聞くまでもない問い……まるで、必然のように。


「このボートとか、なんだろな。ドラマがあるっていうか。味があるっていうかさ」


 ふふ。

 なんだか、うれしくなった。


 黒沢君は、言葉を続ける。

「街角でさ、ただのポストとか、それが夕日にたたずんでる様子とかさ、不意に悲しいほど美しく見えるとき、ない? そこに目が向いてさ、ずっと見つめちゃう感じがしたりして」


「……特別なモチーフじゃないのに、って思う瞬間は、あるかな。無性に描きたくなる感じ、私にもあるよ。ただの電柱と電線を見上げた瞬間にどうしようもなく美しく見えたり。歩道の石の隙間から伸びてる草が魅力的だったり。世界って、豊かだよね」


 今度は黒沢君が、ふふっと笑った。


「……なに?私、おかしいこと言った?」

「いや。やっぱり宮本さんと散歩してよかったなぁって」

「なに、それ」


 黒沢君は、またふふっと笑った。

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