6 ピサロの絵
「印象派っていえば、ルノワール?モネ?……あのへんの光の描き方、好きな人多いよね」
美術大学の一年生。私……宮本綾は十八歳だった。
四月の終わり……もうすぐゴールデンウィーク、という時期に開催された学部合同の新歓コンパの席。
高校を出たばかりの開放感で、念願のピアスを空けたけど、まだ慣れない。
ついつい指で触ってしまう。
大学の近くの大人数で入れる居酒屋で、ぎゅうぎゅう詰めで席に着いた。で、四十分ほどお酒が入って、ほろ酔い学生達の、とめどもない芸術談義が始まっていた。
「初めて見た時、モネの日傘は衝撃的だったけど、さすがにやりすぎじゃない?って思ったの。でも、その後で、その印象がぐるっと180度ひっくり返った」
高校からの美術仲間で、同じ大学にきた紀子。彼女が横で、ワイングラスを片手に話している。飲み放題メニューに入っている軽い赤ワインを、ぐいぐい飲んでいるけど……大丈夫だろうか。高校時代にはお酒を飲むなんて、したこともなかったと思うのに。
開放感、なんだろうな。
「印象派の絵って確かにそう見えるといえば、そう見えるけど、大げさって感じるのはわかるな。でも、ひっくり返ったのは、なんで?」
同じく絵画専攻の男子に話しかけられている。
「高校時代に……ヨーロッパ旅行でフランスに行ったの……田園風景を見てたら、太陽の光、影、小麦の輝き、全てがあの景色そのまんまだって思った瞬間があって。衝撃だったなぁ。ああ、あれは本当に、見たままを、印象を写し取ったんだって。凄いなって……そのまましばらく印象派かぶれになって、帰国してからも美術館回って見まくった」
「うっわ、すごいお嬢さんじゃん……家族でヨーロッパとか、贅沢だぁ」
「いや、うちだって、両親の結婚二十五周年だもん……特別だよぉ」
紀子の家はそれでもそれなりに裕福だったのだろうと思う。
彼女のふわふわっとした、人を疑わないところも、育ちの良さを感じさせた。
「それにしても、あんな表現をはじめてやろうって思ったセンスは、俺も流石と思うね……表現を開拓するって、憧れる」
そこで紀子が私の方を向いた。
「ねえ、綾も好きだったよね。印象派。綾の描き方、光の捉え方とか、結構それっぽいし」
「……うん、中学生の頃、美術の教科書で見た頃から好きだったよ。特に私はピサロがお気に入りかな。抑え気味の表現で、実際に目に映った景色を誇張せずに取り出してる感じがして。知名度もルノワールみたいにはないけど、優しい絵で素敵なんだよ」
「……へえ。俺、その人知らないや」
斜め前に座っていた男子が、こちらに顔を向けて話しかけてきた。
カメラケースを持ち歩いていた……たしか映像科の男子だったなぁ、くらいの認識。
名前、なんだっけ。さっき聞いた気もしたけど、と頭でぐるぐる考える。
あまりお酒に強くない私も、乾杯のビールとその後の二三杯でほどよく酔っていた。
「ピサロか……見てみたいなぁ」
「じゃあ、私画集もってるから、今度貸してあげよか」
お酒のイキオイ、だったのだと思う。自分でも大切にしている画集を、名前も覚えてない男の子に貸す申し出をするなんて。アルコールなしの私では、きっと言わなかった。
「ほんとに貸してくれる?いや、結構気になるな……来週、学校もってきてもらっても、いい?俺、写真専攻の黒沢黎……さっき一回自己紹介タイムで言ったけど、覚えてないよね」
覚えてなかった。
素直にごめん、と言ったら黒沢君が笑ったので、私も笑った。
「忘れちゃいそうだから、メモメモ、と」
手帳にふにゃふにゃっとした字で「ピサロ、クロサワ」とだけ書いた。字も酷いもので、翌日見返したとき、お酒って怖いなあ、と思ったことを覚えている。
次の週の月曜日、私は黒沢君に画集を貸した。
黒沢君もしっかり覚えていた様子で、必修の美術史の授業のとき、教室までわざわざやってきた。
◇
その数日後、学校で感想を聞かせてくれた。
「すごく良かった!」
その一言で、ほっとした気持ちになった。
「ピサロの光って、どっか寂しげなところもあってさ。目に見えてる光だけじゃないって気がした。描き手の心の色まで、絵の具の中に籠もってるっていうか……それはクセなのかもしれないけど、俺は凄く魅力的だと思った」
「……気に入ってくれて、よかった」
「ねえ、もう少しだけ、あの画集、貸しておいてもらっていいかな。もう少しだけ、見たい気がして」
「あ、うん。いいよいいよ。私は何度も見てるし。同じものを気に入った人がいるって、ちょっと嬉しい」
黒沢君は、くしゃっと笑顔になった。
「ありがと。ここのコーヒーおごるね。本、大切に扱うから」
そしてこの画集はその後、長いこと私の手元には返ってこなくなる。




