4 源氏物語の講座 始
2021年 7月下旬 辰巳祐司
夏休みに入って一週間ほど経った。
七月もそろそろ終わる。
資料の束と、付箋を貼った書籍を教卓に置き、教室の前から眺めると、いつもと違う顔ぶれが並んでいた。
学校が無料で公開している夏の教養講座。題材は『源氏物語』。
今日はその第一回目である。
生涯学習が提唱されるようになって、こうした講座を開く学校が増えている。テニスコートなど、施設の一般貸し出しも昔より盛んになっているそうだ。
聴講生には、近所に住んでいる主婦の方が多いと聞いていた。三十代から五十代くらいの女性が中心で、全部で二十名ちょっと。教卓に、興味深げな視線が集まってくる。
「源氏物語の講座を担当する辰巳祐司です。どうぞよろしくお願いします。短期間の入門講座ですが、古典を楽しむきっかけにしていただけたら嬉しいです」
教科書を持ってくる授業ではないので、必要な資料はプリントで事前に配布した。
源氏物語から所々抜粋し、解説を書き足した冊子を手にした顔は、みなさんなごやかだ。でも、いつもの顔なじみの生徒達と違う、初対面の人ばかりというのはなかなかのプレッシャーを感じる。
おまけに、なぜか去年まで一緒に働いていた美術の宮本先生が窓際の端にいる。同業者に授業を受けられる、というのは研修などであることとはいえ、どうしても照れくさい。
咲耶に行っていい? と訊かれたとき、断るのは可哀相な気もした。でも正直この状態を見ると、来させなくて良かった……とほっとしていた。
「源氏物語は全部で五十四 帖におよぶ大長編です。この夏期講座では全体を大きくつかみ、物語の要所を押さえることで、作品全体の流れと面白さを感じてもらいたいと思います」
――いづれの御時にか、女御更衣あまたさぶらひたまひける中に、いとやむごとなき際にはあらねが、すぐれて時めきたまふありけり。
有名な冒頭だ。
主人公は、光る源氏の君――「輝くほど美しい、源の姓を名乗る男子」である。
いづれの御時にか、と舞台設定を濁しているが、作者の紫式部が朝廷に仕えたのが西暦一〇〇五年。物語はさらに一世紀ほど前の醍醐天皇の治世をモデルにしたとされる。
日本の国を治める天皇――帝にとって世継ぎを残すことは何より大切であり、ゆえに帝は多くの妻を娶った。有力な貴族は美しく聡明な娘を育てて、妻の座を狙わせた。娘が世継ぎを産み、次の帝を自分の家系から出すことができれば、その血族は大きな権力を握る。
帝の元で妻たちは互いに、誰が帝から愛され、先に皇子を産むことができるかを競い合った。
「そんな妻たちの中に、『やむごとなき際』ではないけれど『すぐれてときめきたまふ妻』だった桐壺の更衣と呼ばれる女性がいました。現代語訳すると、高貴な生まれではないけれど、とても帝から愛された妻、となります。『桐壺』とは桐の植えられた庭――宮廷で彼女に与えられていた部屋のこと。『更衣』が妻の身分によるランク付けです。第一夫人は『中宮』と呼ばれ、その下が『女御』、さらに身分が低い『更衣』。これは女性の実家の身分を反映しています」
高貴な生まれでもない更衣が帝を独占する……というのは貴族社会のバランスを崩す行動ゆえに、あってはならないことだった。桐壺の更衣は男子を産むが、周囲の嫉妬も一層激しくなり、宮中で苛められ、心労で寝込んでしまう。
「桐壺の更衣は心労から衰弱して亡くなります。帝は悲しみ、喪失感で何も手に付きません。そして、桐壺の生んだ三歳の息子が遺されました――彼こそが『輝くばかりの美しい源氏』――主人公の光源氏です」
帝は、遺された子の美しい風貌、抜きん出た利発さに将来を期待する。
しかし、占い師からは、彼を世継ぎにすれば世が乱れると告げられてしまう。身分の低い母が産んだ皇子を強引に帝にすれば、他の妻達、それを擁する実家の貴族たちが黙ってはいない。
「帝は仕方なく、この少年に『源』の姓を与え、皇族ではなく、臣下として扱うことにします。姓をもたないのが天皇家だけなのは、現在と同じですね」
こうして姓を与えて家臣とすること――臣籍降下という――はモデルになった醍醐天皇の時代、盛んに行われた。
「帝の血を分けた息子なのに、世継ぎの道は閉ざされた……しかし、生まれながらに飛び抜けた美しさと能力をもつ光源氏――彼は己の才能と運で恋も、権力も手に入れていきます。彼から見れば、母親を含め不当に奪われたものを『奪い返す』物語とも読めます」
多くの女性との交際。その女性達の力にも後押しされ、高い地位へ上っていく光源氏。
彼は自分と付き合いのあった女性たちに親切で、後々まで贈り物など心づくしを欠かさない。浮気者ではあるけれど、それなりの誠意をもって振る舞う光源氏は、現代でいえば見事な女たらしである。
さらに、何度も本編で語られているように、光源氏には「心づくしなることを御心に思しとどむる癖」――厄介な恋に思い詰める癖がある。
帝の後妻である藤壺との道ならぬ恋、政敵であった右大臣家の娘、朧月夜との危険な恋、空蝉や夕顔、末摘花といった女性たちとの失敗譚の数々……光源氏はあえて障害のある恋に踏み込んでいく。
「また、源氏物語は人間ドラマの小説であると同時に、神話や英雄譚に近い一面ももっています。占い師が語る内容が未来でことごとく的中したり、光源氏を追い詰めた政敵たちが祟られたように病気で倒れたり。光源氏も生まれつき英雄的な自分の資質を自覚していますし……まあ、現代人の感覚で読むと、どれだけナルシストなの、となってしまいそうですね」
みなさんの笑い声を聞きつつ、一回目の講座を終えた。




