1 窓際の少女
2011年 10月3日(月) 2年B組教室
起立、気をつけ――礼。
号令係の声が響く。教卓の後ろに立った俺は、ぴしっと背筋を伸ばして礼をした。
しっかり三拍数えて顔を上げると、ずらりと並んだ顔に圧倒されそうになる。
「辰巳祐司、です」
少しうわずった声が出た。前列に座った女子が、くすりと笑ったのが見えた。
緊張している。そしてどこか、自分の身体を遠く感じる。
先生をしている自分の声。昨日鏡の前で練習したとおり、はきはきと、聞き取りやすく話すように心がけて、先生をしている自分。
その裏に、どの顔で先生を名乗るのか、と冷ややかな顔で見ている自分がいる。二人の自分は重なり合いながら、微妙にズレながら同居している。
……!
気持ちをそっちに取られてる場合じゃない。自分の中のスイッチを一つ、強引にオフにする。目の前だけに注意を向けた。
「今日から三週間、教育実習をさせてもらいます。7つ上の君たちの先輩ですが、先生として中学校に来るのは初めてです。一緒に勉強させてください」
教壇に立つからには、胸を張ってきなさい、と大学の教官からも言われた。そのまま、できるだけ声を張って挨拶を続ける。もう一度あらためてお辞儀をした。
全体から大きな拍手の音が聞こえた。とりあえず、熱意は伝わったらしい。クラス担任、小柳先生の元気な声がかぶさる。
「辰巳先生は、この中学校のOBです。なので、みなさんの大先輩です。それでは質問コーナーいってみましょう。何か質問ある人!」
小柳先生は、細身でショートカットで、ジャージ姿。きびきびと動く。
専門は国語科だが、外見だけ見ると体育科のようだ。年齢は……三十歳くらいだろうか。
ばらばらと質問の手が上がった。
「辰巳先生、大学はどこですか」
「沢山受験勉強しましたか」
「趣味はなんですか」
「恋人はいますか」
一つ一つの質問に簡単に答えていく。
大学は、このあたりではそれなりに知られた国立大学……全国でも知られた、とまではいかないが、地元ではそこそこのネームバリューがある。勉強の得意な地元の子にとって、手頃な目標になっているのは自分が中学生だったころと変わらないらしい。
「勉強」……うーん、受験期の高校生としては、普通にやってた、かな。小さな頃から本好きだったから、たぶん勉強の効率は良かったと思う。
「趣味」……ずっと続いているのは読書くらいか。大学時代は付き合いでいくつかスポーツもやったけど、そのままやり込んでいる種目があるわけでもない。我ながら、インドア派だと思う。安く譲り受けた小さな車を持ってるので、それで軽くドライブしてよく気分転換している。
恋人は……いない。
「別れたんですか」「作らないんですか」「もてそうなのに」……前列の女子が中心になっていろいろ追加のコメントが飛んできた。特に積極的に絡んできているのは、前から二列目に座っている……席表で確認すると、荻野奈月という生徒。
周囲の声に上から被せるように、ねぇねぇ、と食いついてくる。
ついつい、質問に質問を重ねられて答えてしまう。
「前はいたけど、もう作ろうと思えないんだ」……本音が入ってしまった。
何を言ってるんだ俺は、と思った。
わいわいと続く質問。
一人一人の生徒の顔を見るとまだまだ幼い。ペースに飲まれてどうする。
「……はいはいはいはい。では質問コーナーはそこまで。みんな、ずいぶん遠慮がないね。あんまり辰巳先生を困らせないように」
見かねてか、小柳先生が切り上げてくれた。
「辰巳先生には明後日からさっそく授業も担当してもらいますから、お話はまたあらためて時間のあるときで。みんなも先生がしっかり実習できるよう、協力してあげてください」
「はーい」と何人かの生徒が小さく返事をした。
教卓を小柳先生に譲ると、そのまま朝のホームルームが続いていく。どんな生徒がいるのか気になって、一通り眺める。
教壇から見る景色。
生徒として向こう側から見ていた頃とはずいぶん違う。高さ十センチほどの教壇なのに、それだけでぐっと視点が高くなった気がする。一人一人の様子、こっそり手遊びしている生徒、視線をそらせて半分居眠りをしている生徒……よく見える。
教室をぐるりと一周させた視線を落ち着けて、今度は一人一人の顔を見ていく。朝のホームルームということもあってか、ほとんどの生徒はしっかり小柳先生の話を聞いている。
視線が止まった。窓際の後ろ。
実は、さっきの質問コーナーから違和感を覚えていた。
まっすぐ前を見つめる整った顔立ち。
色白で、長い黒髪。何が、と指摘はできないが、周囲と何かが違う。
まとっている空気が違う、とでも言えばいいのか。前に顔を向けているし、小柳先生の話を聞いていないわけではない、はずだ。
でも、その視線はまるで小柳先生より遠くを見ているような……ここじゃないどこかへ向けらているかのような。
彼女の顔をじっと見つめてしまったことで、逆に彼女にも気付かれてしまった。遠くを見ていた彼女の目が俺の方を向く。
深く見通すように、真っ直ぐ射貫くように見つめられた。
――彼女は、俺に何を見ているのだろう。
◇
ホームルームを終えて、小柳先生と二人で職員室まで廊下を歩く。
半歩前をいく小柳先生に話しかけられた。
「辰巳先生は、教壇に立つのは初めてですか」
「……塾の講師をしたことはあるんですが」
「ずいぶん、固くなってましたね」
「初めての生徒だと……勝手が違うみたいで」
友人の薦めで始めた塾講師のバイト。十数人でいっぱいになる小さな補習塾だったが、毎週教壇に立って授業をしていた。そういう意味では、少し慣れていた、はずだった。
「まあ慣れるまでは仕方ないですけども……辰巳先生」
小柳先生の歩くペースが少し落ちて、こちらに顔を向けて続けた。
「はい」
「実習生であっても、今日からの三週間は先生です。生徒は実習生だから、という見方はしません。授業の時間も、先生が教える時間の代わりはないんです。先生としてのあり方を考えて、しっかり気持ちをもって頑張ってください」
「……はい。ご心配かけてすみません」
「何か困ったことがあったら、すぐ相談してくださいね」
そんなに頼りなく見えた……いや、迷いがあるせい、なのだろうな。
話題を変える。
もう一つ、さっき気になったことがある。
「ところで小柳先生」
「はい」
「先ほどのホームルームで。窓際の後ろの生徒なんですが」
「なにか、気になりましたか」
小柳先生の態度が、少しツンとしたように感じた。
「ちょっと、空気というか、周囲から浮いた雰囲気というか……岩嶺ハルミ、という生徒です」
窓際で、一人だけの世界にいるように見えた少女。ここではないどこかへ向けられた彼女の瞳。俺に向けて、差し込むように見てきた視線。
「……よく見てますね。彼女にはちょっと事情があります」
小柳先生はそれだけ言うと、背中を向けて職員室への足を速めた。廊下で話すようなことではない、と態度が告げていた。
小柳先生の背中を追いながら、以前言われた言葉を思い出す。
「祐司は、人を見すぎるの。そして、気付いてしまう。受け止めてしまう。その柔らかさは……罪だよ」
半年前、隣にいた人。
誰よりも愛しかった人。
――鷹取美幸にそう言われた。