序 再会
2017年 2月某日
コートの前を合わせながら、待ち合わせの店に着いた。
ドアを開けると、店内の柔らかな空気に包まれて眼鏡が曇った。
眼鏡の曇りをハンカチで軽く拭き、かけ直して店内を見渡すと、彼女は喫茶店の一番奥の席にいた。
首を心持ち伸ばすように、こちらを伺うような目で見ている。
彼女は少し戸惑った表情をしてから……やがて確信をもったのだろう。目が優しくなって、小さく手を振った。
俺も目で答えて、小さく手を振り返した。
あまり広くない店内を奥へと進み、そのまま彼女の正面に立った。
「おひさしぶりです」
軽い会釈。柔らかな声で挨拶された。
「この近くで実習を始めたんだってね。ずいぶん、久しぶりだ」
椅子を軽く引いて座る。
微笑む彼女に、まっすぐ向き合った。
「あのときから数えるともう……五年も経つんですね。先生も、ずいぶん先生らしくなって……ってすみません。あの頃はまだ、あんまりそれらしくなくて」
失礼なことを言った、と気づいてあたふたする彼女を見ていると、時間が経ったのだと感じる。こんなに柔らかな空気を纏うようになったのだと。彼女も変わったのだと。
「……いいよ」
こっちも笑ってしまった。あの頃とギャップがあるのはお互い様だ。
「あの頃は……本当に先生とは名ばかりの、まだ、卵だったからね。これでも、だいぶ先生らしくなったかな、と自分では思ってるんだ」
彼女がお返しに、もう一度くすりと笑う。
あの頃――中学生だった彼女は、今年で十九歳になったはずだ。ストレートの美しい黒髪、色白で整った顔立ち、大きくて真っ直ぐな、遠くまで見通すような深い瞳はあの頃から変わっていない。
「こっちに出てくることにしたんだね」
「はい。いろいろ一人になって頑張ってみようって。家の人は少し心配していましたけど」
家の人……彼女のこの言い方には理由がある。彼女が半年前まで生活していた実家に住んでいたのは、叔父、叔母の夫婦だった。
彼女に、実の両親はいない。
「園での実習は、もう慣れた?」
「まだまだです。毎日、沢山失敗して……自分って、こんなにできないことばかりだったんだって。学校でちゃんと教わったつもりなのに」
彼女の表情は、それでも暗くない。きっと充実して、毎日多くを吸収してるのだろう。
「つくづく立派になったね……見違えた。ずいぶん大人っぽくなった」
「ありがとうございます。先生にそう言ってもらえると、嬉しいです」
彼女とは、五年半ぶりの再会だった。
先週になって突然、短大で学ぶ彼女から連絡がきた。近くの幼稚園で実習を始めたので、一度お会いできませんか、と。
五年前、彼女は中学二年生で、俺は大学四年生の教育実習生。
実習期間に起きた万引き事件は今もよく覚えている。彼女は店に犯人として頭を下げ、弁償するために大金を用意した。
「地元にあのまま残るっていう選択肢は、選ばなかったんだ」
「それは……先生も……」
今、二人で座っているこの場所は、彼女の地元からそれなりに離れている。都心に近い場所に彼女は一人で住み、生活している。俺の一人暮らししている部屋も、この近くにある。
彼女も、俺も、地元から離れた人間だ。
「君は、新しい目標を見つけた」
彼女は遠い目をして、少し考えたように、顎を傾けて見せる。でも、その動きは今考えている、というよりは、何度となく繰り返してきた「考える」をまた一回重ねたように見えた。しっくりと、なじんでしまうほど、彼女は考えて、考えて、生きてきた。
「……正直、わからなくて。これが正解なのか、そうでないのか。この先で、私は自分をどう思うのか。ときどき、そんなことを考えます。でも、今は前に進むしかないって」
「……それでも、前に進んでいる。立派だと思うよ」
「先生も……そうしてきたんじゃないんですか」
答えに詰まる。
二呼吸、考えてから言った。
「そうだね。先生になって、三年経った……正直まだわからないことばかりで、日々必死に仕事をしてる」
彼女が考える、を重ねてきたように、きっと俺も同じように、何度も同じ逡巡を繰り返してきた。でも。
「……でも、自分にもできることがある、と思えたのは、五年前に君と会ったからなんだと思う」
あの頃の彼女とのこと。それが、今の自分に繋がっている。
彼女と向き合っていると時間が遡っていく。
あの頃の、今よりも沈んだ、感情の読めない顔つき。細い肩と、痛々しいほど真っ直ぐで強い瞳。
記憶の中にあった小さな白い少女が、目の前にいる彼女に重なった。