今日も神様に癒しの一杯を
「やばい、入りづらい」
喫茶店の入口の前で、明里はさっきから一人で行ったり来たりを繰り返していた。
あれから散々泣いて、そこからの記憶は綺麗に無くなっている。
それでも朝起きたら自室のベッドにいたということは、きっと泣いた私を先輩が家まで運んでくれたに違いない。
ああもう、最悪だ。
考えてみれば先輩の忠告を無視して神様と仲良くして、結果殺されそうになって、助けて貰った先輩にお礼も言わずに説教の途中で泣き疲れて寝て家まで運んでもらうなんて、失礼のフルコースだ。
土下座の一つや二つでどうにかなるレベルではない。
そう考えると自然と明里の足は重たくなって、バイトの時間が迫ってもまだ喫茶店の中に入れなかった。
窓からチラリと中を覗く。
表から入ると既にホールに入って掃除をしている透の目に必ず入ってしまうので、明里は苦し紛れに裏口から入って職員用更衣室を目指す。
最終的に透と顔を合わせるのだから今避けたところで数分の差しかないのは分かっているし、避ければ避けた分だけ余計に入りづらくなるのも分かっている。
それでも、思わず避けてしまうのが悲しい乙女の性というものだ。
明里は足音殺して廊下を歩く。
なんとか誰にも合わずに更衣室に入った時だった。
「雪野様! 」
聴き慣れた声と同時に、小さな体が明里に思い切りタックルをかます勢いで抱きついてきた。
明里と同じデザインの制服。
綺麗なピンクのツインテールの髪にうさぎらしい赤色の瞳。
頭からピンと伸びたピンクのうさ耳。
「撫子? 」
いなくなったはずの少女の名前を呼べば、はい! と大きな声が返ってきた。
撫子を見上げてきた瞳は、涙を貯めて更に赤くなっている。
「私のせいで本当にすみませんでした。私、あんなことになるなんて本当に知らなくて……」
ポロポロと、撫子の瞳から涙が溢れる。
「なんで、まだこんなところに」
「雪野様に、どうしてもお詫びがしたかったのです」
撫子の耳がピンと伸びる。
「今度こそ私が雪野様を守れるように、マスターさんに頼んで喫茶店に置いてもらうことになったのです。ここならマスターさんの力に守られているので私も消えませんし、多少なら力を使うこともできます。だから、これからはここで私が雪野様を守ります。守らせてください」
撫子の真剣な瞳が明里を捉えた。
「ありがとう、撫子」
だからそう言って明里が笑えば、撫子は満足そうに笑う。
「撫子と一緒に働けて嬉しいよ。私一人っ子だから、妹が出来たみたい」
「妹ねー。でもユキちゃん。見た目は幼女でも生きてる年月は百年近いからユキちゃんよりもよっぽど年上だよ? 」
二人で笑い合っていると、不意に声が聞こえてそれと同時にルーカスさんがひょっこりと顔を出す。
「ルーカスさん! いきなり現れないでください、ビックリするじゃないですか! 」
「ごめんねー。でも、ユキちゃんが完全に勘違いしてるみたいだったから気になっちゃって。ねー、ナデちゃん」
そう言ってルーカスが撫子の方を見ると、撫子は今まで明里が見たことがないような瞳でルーカスを見た。
「獣風情が気安く話しかけないで頂けますか? 無礼者」
ピシャリとそう言い放った撫子に、ルーカスは手厳しいなーと言いながらヘラリと笑う。
その威厳溢れた姿に、明里は今更ながらやっと撫子も神様だったことを思い出した。
唖然としながら明里が二人のやりとりを見ていると、それに気がついた撫子が慌てて明里の方に飛んできた。
違うんです、と身振り手振りで明里に弁解を始める。
「神様で百歳なんて赤ちゃんと一緒です。ですから、雪野様はどうぞ私のことは今まで通り妹のように思ってください」
ね? と可愛い瞳で上目遣いで言われてしまえば、明里はただ頷くことしか出来なかった。
「ところでユキちゃん、なんでこんなところに? 裏口から来たの? 」
二人のやりとりを見守っていたルーカスの言葉で、やっと明里は当初の目的を思い出した。
想定外のことに一瞬忘れてしまっていたけれど、メインイベントが残っていた。
ルーカスさん! とルーカスの袖を掴んで、明里は簡単に経緯を説明する。
それから、恐る恐るルーカスの方を見上げた。
「先輩、怒ってました? 」
一抹の願いを込めて分かりきった質問を投げる。
あー、と濁った返事が、なによりもハッキリと答えを示していた。
怒っている。やっぱり先輩はとってもご立腹なようだ。
どうしたら、と明里がワタワタしているとルーカスがそうだ、と小さく呟いた。
緑の楽しげな瞳が明里を捉える。
「トールはああ見えて大の甘党なんだ。近くに大きなケーキ屋さんがあったでしょ? トールあそこのケーキ好きだよ」
「ケーキ? あの見た目でですか? 」
なんなら、クリームなんて見ただけで吐き気がするぜ、みたいな顔してるのに。
珈琲は常にブラックだぜ、みたいな顔してるのに?
正直、ルーカスさんの言葉はイマイチ信ぴょう性に欠ける。
彼は面白いと感じたことに対しては嘘をつくことに躊躇はないし、三回に一回くらいのペースで面白そうなデマが混ぜられている。
特に、先輩が絡むと冗談の頻度が上がる。
それでも無いよりもマシだと、明里は制服の上に一枚カーディガンを羽織って一旦外に出てケーキ屋までダッシュした。
半信半疑のまま、苺のショートケーキやチョコレートケーキ、何種類かのケーキを買って、今度は形が崩れないように慎重に小走りで店に戻る。
おかえりーと楽しそうに言うルーカスに軽く会釈をして、明里は今度こそ覚悟を決めてホールに向かう。
ニコニコしながらついてくるルーカスが若干不安要素ではあるけれど。
「あ、あの……先輩」
後ろ手でケーキの箱を隠しながら透を呼ぶ。
振り返った透を見て、おや、と思わず明里の視線が上にあがった。
透の頭には、何故か耳が付いたままになっていた。
「耳……? 」
思わず漏れた明里の言葉に、透はすごい瞳で明里を睨みつけてきた。
その鋭さに思わず怯む。
ひぇ、と言った明里に、透は不機嫌を隠すことなく舌打ちをして背中を向ける。
あまりにも露骨な態度にビクビクしていると、後ろから盛大な笑い声が聞こえた。
「トールはね、獣化すると暫く元の姿に戻らなくなっちゃうんだよー。だから朝からずっと不機嫌でさ。いやー、一言目にそのことに触れていく辺り、流石ユキちゃん」
なにが流石なのかは聞く気になれなかった。
先輩にもう一度話し掛けようにも、明らかにさっきよりも空気がピリピリしてしまっている。
ああしまった。ただでさえ怒らせているのに、盛大に地雷を踏み抜いてしまった。
しかも、獣化したのは間違いなく私のせいだし、その私が一番気にしている部分を突っ込んでしまって本当に居た堪れない。
それでも、逃げてばかりもいられない。
いっそ箱ごと叩きつける勢いで、殺される覚悟で先輩の元に再度向かう。
「先輩! 」
明里がさっきよりも強く透を呼べば、さっきよりもずっと鋭くなった瞳が明里を捉えた。
あーもう、本当に怖いなーと理不尽なことを考えながら、それでも透の瞳を明里が見つめ返す。
「あの、昨日はありがとうございました! ご迷惑おかけしてすみません! 」
これお詫びです! と、明里は隠していた箱を透に押し付けた。
ファンシーな箱には大きくお店のロゴが書かれていて、開けなくてもケーキだと想像がつくだろう。
どうだと先輩の顔を見る。
しかし、あろう事か先輩は眉間に皺を寄せて怖い顔をしただけだった。
……やられた。
あれが好きなものを貰った人の反応だろうか。否。
寧ろ、嫌いなものを無理やり押し付けられた時とか、そういう時にする顔だろう。
貰ったからには文句は言えないが、全くいらない。
そんなものを貰った時の反応だ。
なにが好きだ。なにが好物だ。完全に騙された。
最初からおかしいと思っていたのだ。
あの先輩がケーキだなんて。
「ルーカスさん! やっぱりウソだったんですね! 」
楽しそうにずっと後ろとついてきていた男に明里がそう返す。
胸ぐらを掴む勢いの明里に、ルーカスが、まあまあと宥めてくる。
「ひどいなユキちゃん」
ほらって言われてルーカスが指を指す。
ルーカスの指が向いている方に視線を向ければ、しまえなかったのかズボンから出ている透の尻尾がブンブンと振られていた。
大きく左右に揺れる尻尾は、床を何度も擦っている。
「ワンちゃんだからね」
言いながらルーカスが笑う。
眉間に寄った皺も、怖い顔も、もしかしたら照れ隠しなのだろうか。
しまい忘れた尻尾はお客様が思わず見てしまう程に振られていて、まるで大好きなおやつを貰った犬みたいだ。
言ったら絶対に怒られるだろうけど、あの威圧も全部照れ隠しだと思うと、いっそ可愛くさえ思えてしまうから不思議だ。
どうやら、喜んでもらえた様で良かった。
「雪野。サボってないで早く看板出しに行ってこい! 」
明里が渡したケーキの箱をそっと置いてから、透の怒号が飛ぶ。
それでも、もう前ほど怖くも、嫌でもなくなっていた。
「はーい」
呼ばれるままに返事をして、明里は看板を持って外に出る。
扉を開けると、暖かい風がふわりと流れてきた。
見上げた空は雲一つない青空で、吸い込む空気は澄み切っている。美味しい空気を肺いっぱいに吸い込んで大きく吐き出す。
看板を出せば、オープンを待っていたかのように、何組かの神様がお店に入ってくる。
扉を開くベルの音が鳴った。
店中に珈琲の香りが充満する。
入ってきた神様に満面の笑顔を向けた。
「いらっしゃいませ! 喫茶ノワールへようこそ! 」
今日も神様に癒しの一杯を。