見慣れた背中
撫子が手を翳すと、空に大きな扉が現れた。
もう殆ど紺に近い空に馴染むように浮かび上がった扉は、神の世に繋がる扉と呼ぶのに相応しく黄金色に輝いている。
「すごい、これが」
明里が感心してそう言えば、撫子がどこか得意げな顔をする。
嬉しそうにしてるのがまた可愛い。
「では。雪野様にはたくさんお世話になりました。雪野様から受けた御恩は一生忘れません」
「こちらこそ。撫子のお陰で少しだけ私も勇気が持てたの。だから、お礼を言うのは私の方。ありがとう、撫子」
撫子は明里の方を見ると一度深く頭を下げた。
名残惜しそうに瞳を細めてから、撫子は笑う。
「それでは、お元気で。雪野様」
「うん、撫子も元気でね」
ああ、これで本当にお別れなんだ。
淋しいな、と思いながら手を振る。
大きな扉が撫子の言葉に合わせて開いた。
開いた扉の中に撫子が入ろうとした時だった。
ゾワリと、何か嫌な感じが肌を撫でる。
それが何かは、直ぐに分かった。
大きく開いた扉。
入口に背を向けて、明里の方を見て手を振る撫子の後ろ。
まるで闇そのものみたいに暗くて先の見えない扉の内側で、何かが光った。
ギラリと怪しい光を放ったのは、大きな目。
「ニン、ゲン」
まるで、地を這うような声。
地鳴りの様な響きに一気に心臓が掴まれる。
蛇に睨まれた蛙って、きっとこんな気持ちに違いない。
背中を嫌な汗が流れる。
全身の細胞が危険だと悲鳴をあげて、足も手も動かない。
「美味そうだ」
扉の中から、大きな手が伸びてくる。
闇と同じ色の腕からはカビの様な臭いがして、呼吸すら止まった。
獣みたいな手にはナイフよりも恐ろしい爪がついていて、今直ぐにでも私の喉を掻き切らんとしている。
目前に迫った手に、悲鳴すら上げられない。
「雪野様! 」
撫子の声が聞こえる。
泣きそうな叫び。
避けないと。
そう思っているのに、体が全く動かない。
殺されると理解しているのに、指先一つ動かせない。
もう駄目だ。明里が、そう思った時だった。
不意に明里の後ろから、黒いなにかが現れる。
明里に向かって伸ばされた手を弾き返したのは、狼みたいに鋭い爪を持った真っ黒の毛に覆われた手だった。
明里を飛び越えて、扉から現れた何かと明里の間にその人が立ちはだかる。
見慣れたえんじ色の背中に、明里は思わず泣きそうになった。
「先輩……! 」
「下がってろ、雪野! 」
それだけ言って、透が飛び上がる。
「待ってください先輩、危な……! 」
明里の静止も聞かずに黒い塊に襲いかかる透の手は、いつもの人の形とは程遠かった。
手だけじゃない。
頭には透の髪と同じ黒い耳が生えていて、えんじ色のパンツからは同じく黒い尻尾が生えている。
明里は、唐突にルーカスの言葉を思い出す。
明里がいつも見ている透たちは仮の姿で、本当はもっと別の姿をしているって。
ルーカスは金色の猫。
そして透は、黒い狼。
透の鋭い爪が黒い塊を一裂きする。
短い悲鳴と共に扉の中から現れたソレは、まるで鬼の様な形をしていた。
光る瞳が透を捉える。
呻き声だけで、簡単に心臓が止められてしまいそうだ。
「この獣風情が……! 神に逆らってただで済むと思うのか」
振り下ろされた爪が今度は透の頬を切り裂く。
頬に走った傷跡から、鮮血がタラリと流れて地面に落ちた。
「先ぱ……」
透は獣に変わった手で血を拭う。
遠吠えの様な声を上げると、透の体はさっきよりもどんどん狼に近くなっていく。
顔の周りまで毛で覆われ、口元からは大きな牙まで見えている。
それと同時に透の爪まで鋭さが増していく。
「てめぇ」
もう一度透の肉を切り裂こうと伸びてきた手を透が受け止めて強く締め上げる。
相手を力技で押し返すと、一気に相手の懐まで入り込み完全にブチ切れている低い声が響いた。
透の瞳が、真っ直ぐに相手の瞳を捉える。その瞬間、何故か向こうが怯んだ。
「お前は……」
相手が言葉を言い切る前に、透が言葉を重ねる。
「貴様程度の神崩れが、一体誰を相手にしていると思っているんだ」
そう言うと同時に、透が手を振り上げた。
そして、思い切り相手を切り裂く。
短い悲鳴を上げる余裕もないまま、扉の向こうから現れた黒い塊は跡形もなく消えていく。
それを見た瞬間、明里の体から力が抜けた。
「雪野! お前な、何考えてるんだ! 」
先輩の怒鳴り声が聞こえる。
いつも喫茶店で怒られているのとは全然違う、本気の怒声。
「だからいつも言ってるんだ。神からしたら人間はご馳走だって。ただの脅しだとでも思ってたのか? マスターの喫茶店に来る客がまともなのは、マスターの張った結界が無害な神しか入れないようにしてるからで、人の世に干渉してくる神なんて、ああいう危ないやつばかりなんだ。なのにお前ときたら俺の話も聞かないで勝手に神にとり憑かせるわ、挙句鬼神ごときに食われそうになってるわ、危機感が足りないんだよ! 」
聞いてるのか! と怒鳴られて、ついに明里の緊張の糸がプツリと切れた。
立っていられなくて膝から一気に崩れ落ちる。
今更体の震えが止まらなくなった。
一度溢れた涙はもう止まらなくて、ただただ後から後から溢れてくる。
「いや、そんな、泣くほどじゃないだろ。そこまで泣かれる程怒っているわけじゃなくて」
私はどこかで、楽観視していた。
先輩が何度も怖いと言ってくれていたのに、頭のどこかでは信用してなくて神様なんていうくらいだからなんだかんだ私たちに優しいんだと勝手に決めつけていた。
たまたま運が良かっただけにも関わらず、どうにかなるだろうって先輩の言葉なんて気にも留めなかった。
ただ運が良かっただけなんて、考えもしなくて。
本当にあんな恐ろしいものがいるなんて、思いもしなかった。
まだ震えは止まらない。
本当に、殺されてしまうって初めて思った。
その恐怖が骨まで染み込んで、ただ体を震わせる。
先輩の言葉になにも言えなくて、口を開けば勝手に嗚咽が漏れた。
一度声を出して泣いてしまえば、もう止まらない。
その時だった。
ぎこちなく、不器用な手が明里の頭に触れる。
「泣くな。俺は、目の前で泣かれるのは苦手なんだ。どうしていいか分からないだろ? 」
戸惑った透の声が、明里の頭の上から降ってくる。
あぁ、本当にずるい。
さっきまであんなに怒っていたのに。
助けてくれたお礼だってまともに言えていないのに。
あんまりにも先輩が優しくするから。
涙はもう止まらなくて、私はまるで子供みたいにワンワン声を出して泣いた。