ピンクの幼女は御年百歳(推定)
「やあユキちゃん」
「……ルーカスさん? 」
ちょっとだけ待っててね、とだけ残していなくなったルーカスが戻ってくると、その見た目はいつもとは全然違っていた。
普段は赤い髪の毛は白に近い金色で、頭には髪の毛と同じ色の猫の耳。そしてお尻には尻尾が付いている。
この姿は、前に一度だけ見たことがあった。
確か、私が喫茶店の制服の写真を撮ろうとしていた時だ。
写りこんで込んで来た彼は、今と同じ見た目をしていた。
明里が思わずマジマジと見つめてしまっていると、ルーカスがヘラリと笑う。
フラフラと勝手に揺れていた尻尾を自分の手でギュッと掴むと、笑いながら明里の方に向けてきた。
「ビックリさせちゃってごめんねー。これ、僕の本来の姿ってやつ。この格好だと普通の人には僕の姿が見えないからさ。部外者が学校の中をウロウロするなら、こっちの方が都合いいかなって思ってね」
「へえ、便利ですね」
思ったことをそのまま口にすると、ルーカスが苦笑する。
「まあね。でも、そのかわりユキちゃん以外には見えないから人前でうっかり話しかけないでね」
言われた言葉にドキリとした。
慌てて周りを見て、明らかにこちらを見ていた生徒が露骨に明里から眼を逸らす。
いつも見慣れていたからうっかりしていた。
今の私は、廊下で一人なにもないところに向かって話しかけている電波少女そのものだろう。
怪しい。怪しすぎる。
これでは、どんな噂が立ってしまうか分かったものではない。
とりあえずこちらを見ていた生徒にヘラリと愛想笑いを向けてから、逃げるが勝ちとばかりにその場から走り去る。
幸い知り合いじゃなかったので良かった。
危うく残りの年月を電波少女と噂されながら生きる事になるところだった。
人目を避けて、明里はとりあえず部活にも使われていない空き教室に入る。
念の為内側から鍵を掛け、ドアから一番離れた窓際まで移動した。
念には念を重ねて、カーテンもピッチリと締め切ってある。
「それで、現状なんですけど」
まずは事情を説明する必要があって、撫子を気にしながら掻い摘んで事情を話した。
明里が一通り話を終えれば、うーんとルーカスが小さく呟く。
「実は、もう全部のクラスに聞き込みに行ってるんです。でも、どのクラスにもよしこさんって方がいないみたいで、一体どうしたらと。もしかしたら家族間のあだ名とか、本名とは違う名称とかですかね。でも、だとしたらもう殆どヒントが無いみたいなものなので、それこそ撫子に全校生徒の顔を見て確認してもらうしかなくなってしまうんですけど」
だけど、それはかなり大変だ。
全校生徒の顔を漏らさず見てもらうなんて、あまり現実的ではない。
だから、今は完全に行き詰まってしまっている。
そこまでの話を終えると、ルーカスがパチリと瞬きをした。
あのさ、と控えめな声を出しながら、ルーカスの緑色の瞳が明里を捉えた。
「もしかして、ユキちゃん在学生の中から探してたの? 」
今度は明里がキョトンとする番だった。
「付喪神って、九十九って言葉と掛かってて物が付喪神になるには百年掛かるとされているんだ。まあ、それはあくまで目安だし、もっと短い時間でも神になることはあるだろうけど、流石に十五年やそこらで出来るはずないし、持ち主が当時高校生だったとしても、もうとっくに卒業してるはずだよ? 」
「そ、そうなんですか? 」
ぜ、全然知らなかった。
神様のこと勉強しようとは思っていたけど、日々のバイトや学校に追われている内に意欲ごとどこかに消えてしまったのがまさかこんなところでアダになろうとは。
私の三日間の努力は一体。
「そんなに落ち込まないで。そんなわけで、ユキちゃん、卒業アルバムってもう見た? 」
図書館なら、歴代のアルバムとか見れないの? という、ルーカスの天才的な発想に、明里たちは直ぐに図書館に移動した。
*
そこからは、自分でも驚く程順調だった。
図書館に駆け込むや否や、明里たちは学校の歴代卒業アルバムを引っ張り出した。
明里の高校はそろそろ創立八十年といったところで、まずは古い順から遡ろうと創立一年目からのアルバムを引っ張りだしてくる。
下校時間まで、黙々と卒業生の名前と顔写真のページを見た。
何度かよしこという名前を見かけては、撫子に確認してもらう、という作業を繰り返していると、不意に撫子が、あ、と声を漏らす。
彼女が反応していたのは、今から四十年程前のアルバムだった。
「雪野様、この人です。この人が、彼女です」
小さな指が示した方を見る。
クラス全員の顔写真と名前が乗った一覧のページ。
そのページの中の一人で止まった撫子の指の先にいたのは、田中佳子という名前の少女だった。
黒い髪はおさげになっていて、髪と同じ色をした黒縁のメガネが特徴的だ。
下がった眉に控えめな笑顔。
大人しそうな子だ。
人形に撫子と名付けるのもよく分かるほどに。
「田中、佳子」
見つけたばかりの彼女の名前を復唱する。
どこか聴き慣れた言葉の並びに、もう一度、ゆっくり今知ったばかりのフルネームを繰り返した。
そして、ハッとした。
「私、この人知ってる」
「本当ですか? 雪野様」
思わず溢れた明里の言葉に、撫子が反応した。
嬉しそうな瞳に明里が小さく頷く。
行こう、と声をかけて、そのまま走り出した。
私は、この人を知っている。
フルネームは聞き慣れなかったし、容姿だって今と全然違うし、全然気がつかなった。
だけど、唐突に思い出した。
『知ってる? 明里』
それは、さつきがいつか、楽しげに笑って言ったセリフ。
『ナカさん、下の名前よしこって言うんだって。田中佳子とか、めちゃくちゃ古臭い名前すぎて笑っちゃったんだけど』
ナカさん、というのは、生徒指導をしている数学の先生のあだ名だ。
生徒に厳しく、どんな些細な違反も見逃さない。
もう若くないというのに朝は校門の前で仁王立ちして生徒を待ち構え、規定よりも短いスカートは取り上げられ、メイクはその場で手渡されたメイク落としシート(お徳用)で落とさせられる徹底ぶりだった。
そのせいで付いた異名はスカート狩りのナカ。
私は基本校則に違反する格好はしていないので怒られることはないのだけれど、見た目がギャルっぽいさつきはいつも餌食になっていた。
幼少期から水泳をやっていたせいで色素が抜けて茶色っぽくなってしまった髪も、彼女が自毛だと説明してもなかなか聞き入れられずよく言い争いをしているのだ。
歳はもう直ぐ六十歳。
そろそろ定年だからやっといなくなると、密かに喜んでいる生徒は少なくない。
今の彼女は写真とは全然違って、白髪まじりの短髪に鋭い瞳。
年の割に元気で高校生の男子とだって対等に渡り合う強いおばあさんという感じだ。
まるで正反対の二人だけど、名前も一緒だし、なによりOGだと噂で聞いた気がする。
「ここの先生なの。行こう」
明里の言葉に撫子が頷く。
三人で、先生がいる生徒指導室を目指した。
ナカさんは気難しい先生で、撫子みたいな可愛らしいうさぎの人形なんて全然イメージにない。
それでも、ただ部屋を目指して走る。
「いいの? ユキちゃん」
走る明里たちについて来ながら、撫子に聞こえないくらいの小さな声でルーカスがそう言う。
「付喪神は人に捨てられた物がなる神だよ? 人を恨んでることが殆どなんだ。そんな神を、前の持ち主に会わせるなんて、どうぞ殺してくださいって言ってるようにしか僕には思えないんだけど」
彼の言葉に思わず唇を噛んだ。
たしかに、ルーカスさんの言っていることは正しいのかもしれない。
それでも、私は信じたい。
どれだけ怖いと言われても、神様は人に害を与えるものが多いのだと言われても、それでも、私は信じたいのだ。
自分の目で見たもの。
美味しいと、笑顔でマスターの珈琲を飲む神様たちを。
自分の命すら投げ出して会いたいと願った撫子の想いを。
私が惹かれているモノたちが悪いものばかりではないって、そう信じたい。
だから。
「撫子は、そんなことしません。だから、大丈夫です」
迷いはなかった。
そう言い切った明里に、ルーカスは呆れたように肩を竦めた。
「ユキちゃんは、本当に優しいね」
「そんなことないです。ただ、ワガママなだけで」
「ううん、優しいよ。僕はもう止めない。ちゃんと、最後まで見届けておいで」
優しい言葉が明里の背中を押してくれる。
自然と走るスピードは早くなった。
自分の意思では今まで一度だって行かなかった生徒指導室の前で足を止める。
異様な緊張感を放つ扉に一瞬だけ躊躇して、それでも明里の足元で緊張でいっぱいの顔をした撫子が見えて息を吐き出す。
覚悟を決めて、扉をノックする。
間髪を入れずに中から返事が返ってきた。
女性にしては低めのハスキーな声。
間違いなく、ナカさんだ。
「待ってください」
明里が扉を開けようとすると、撫子が慌ててそう言った。
こちらを見上がる瞳にはどこか不安が映っている。
「あの、私、やっぱり」
目前に現れた目標に撫子は一瞬で臆病になってしまっていた。
彼女の瞳を見るだけで、明里には彼女の気持ちが伝わってくる。
探している内は良い。
ただ自分が一番理想的な結果を想像しているだけでいいから。
最悪の結果をつい思い浮かべてしまっても、結果を見るまでは、確かめるまでは都合の良い夢を見続けていられる。
でも、結果を見てしまったら。
都合の良い夢はもう見られない。
今まで支えにしていたものが、もしかしたら一瞬で消えてしまうかもしれない。
だから、結果を見るのが怖い。
あんなにもずっと、望んできたはずなのに。
「大丈夫だよ、撫子」
震えていた撫子の小さな手を握り締める。
「何があっても、私はここにいるから」
私は撫子とナカさんの間になにがあったのかも知らないし、撫子がなにを望んでなにを恐れているのかを知らない。
だから、絶対に大丈夫なんて言葉は掛けられない。
でも、その代わりに一緒にいる。どんな結果になっても、最後まで見届ける。
キュッと、小さな手が明里の手を握り返してくる。
「ありがとうございます、雪野様」
心強いです、と笑ってくれた撫子に笑い返して、明里は固く閉ざされた扉を潜った。
「こんな時間に、なんの用ですか? 」
クラスと名前を言って入れば、佳子は鋭い瞳を明里に向ける。
その瞳に一瞬明里は怯んだ。
それでも、撫子の大きな瞳が僅かに光る。
「よしこちゃん……」
撫子の声が聞こえていない佳子は、返事がないのに怪訝そうな顔をした。
「貴方、用事がないなら早く出て行きなさい」
「あ、えっと」
そう言えば、会ってどうするのか聞いていなかった。
明里は慌てて撫子の方を見る。
彼女の反応からして、やっぱり探し人はナカさんで当たっていたみたいだ。
撫子を見ていると、そっと彼女からうさぎの人形が渡される。
「これを」
小さな撫子の声がそっと音を紡ぐ。
「これを、よしこちゃんに返してくれませんか? もう、いらないかもしれないし、私のことなんて、もう忘れてしまっているかもしれないけど。それでも、渡したいんです。私には出来ないから、雪野様が代わりに」
撫子から受け取った人形を持って明里が頷く。
ずっと無言の明里に一歩近づいてきた佳子に、明里は真っ直ぐ瞳を向けた。
「田中先生、私先生に渡したいものがあって」
ドクリと、明里の心臓が鳴る。
もう覚えていないかもしれない。撫子が傷つく様な結果になるかも。
でも、託された想いを、願いを、私は伝えたい。
これは、人間の私にしか出来ないことだから。
「ある人に、預かったんです。本当はその人が直接渡したがっていたんですが、出来ないので代わりに私に渡して欲しいって」
そう言って、明里は汚れたうさぎの人形を、そっと佳子の手のひらに乗せる。
「これ」
手に乗った人形を、佳子がじっと見つめる。
どうして、と溢れた声はどこか震えているみたいで、思わず明里は佳子の顔を見上げた。
皺くちゃな指先が、確かめるように人形をなぞる。
大きなうさぎの耳を撫でると、佳子はギュッと瞳を閉じた。
「誰から、預かったのですか? 」
「それは……その、上手く言えないんですが」
その人形から生まれた神様だとは流石に言えなくて、明里は言葉を濁す。
それでも、佳子はそれ以上詮索しなかった。
「これ、祖母の形見なの」
佳子の声が静かに放課後の教室に落ちる。
その声は、今まで聞いたことがないくらい柔らかい声だった。
「昔、祖母の家に遊びに行った時にお守りだって言って貰ってね。この子が私の身を守ってくれるからいつも持ち歩いていなさいって。それからずっと大切にしていたけれど一度暴漢に襲われた時に無くなってしまったの。それ以来ずっと探していたけど見つからなくて諦めていたわ。自分を守っていなくなったんだって、そう言い聞かせて」
佳子の瞳は、優しく人形を映す。
「私を守って犠牲になってくれたこの子が心配しないように、強くならなきゃって、ずっと思ってきたの。そうじゃなきゃ、この子に呆れられてしまうからって。まさか、また会えるなんて」
彼女の瞳に、大粒の涙が浮かぶ。
そんな佳子に、撫子は明里の手を離して佳子の方へ歩いて行った。
撫子の瞳にも、同じように涙が浮かんでいる。
そっと、佳子の手に撫子が自分の手を重ねた。
撫子の手の感触も、熱も、佳子には届かない。
それでも、撫子は佳子に触れる。
「よしこちゃんが大切にしてくれたから、私はこうやって新しい命を貰って、会いに来られました」
届かないと知りながら、それでも撫子は言葉を続ける。
同じように涙を流す佳子をただ見つめて、伝わらないお礼を、言葉にしていく。
「私のこと、たくさん愛してくれてありがとうございます。よしこちゃんと一緒にいられて良かったです。ねぇよしこちゃん、私よしこちゃんと過ごせて幸せでした。今まで、本当にありがとうございました。大好きです」
なんで、届かないんだろう。
明里は、そう思わずにはいられなかった。
彼女の気持ち。想い。何一つ届かないのがもどかしい。
それでも、撫子は笑う。
溢れた涙は気がついていないフリをして、笑い続ける。
「田中先生」
そんな撫子に胸が痛んで、思わず明里は余計な声を上げてしまう。
「撫子は、先生に愛されて幸せだったと思います。だから、良かったらその子をこれからも大切にしてもらえませんか? 」
明里の言葉に、佳子の瞳からポロポロと涙が落ちる。
「もちろん、大切にするわ」
佳子がギュッと、人形を抱きしめる。
窓から差し込んだ光は、もう橙色に変わっている。
橙で溢れた部屋の中でそう言って笑った佳子の姿は、何故かその瞬間だけは黒髪でおさげの少女に見えた。