はながとける
春分を過ぎ、日差しは徐々に高くなり、枝先のふくらみが、花に変わっていった。
春休みが明けたらすぐ学年が一個上がるというのに、何の実感も無い。季節は変わるけど、俺は変わり映えしない日常の中にいた。
「はくしょん!はくしょん!」
公園の方から盛大なくしゃみが聞えてくる。
桜が咲き始めた公園では、スーツ姿の人や、ベンチでくつろいでいる人が目を真っ赤に腫らしながら、コヒーを飲んだり、スマホをいじったりしていた。
ここのところ、こう言う大人が増えたように思う。
「去年もこんなだったけ?」一緒に公園に来た太陽が俺に聞く。
「いや、覚えてないけど。ただ最近多いよな。」正直不機嫌そうな大人が増えると公園で遊びにくかった。しかし、公園はみんなのものなので文句は言えないのだ。
赤く腫らした目を擦りながら、なおもスマホをいじるスーツ姿の男を見ながら、俺は冬の日にあった雪山ひかるさんとの会話を思い出した。
確か彼女は冬の睡眠不足が春の花粉症に関わると言っていた。その会話を思い出すと、彼女との間に起った出来事は夢ではなかったと自分の中で確信する。
「見て、鳥おじさんがいるよ。」太陽がいった。鳥おじさんとは鳥によく餌をあげてるおじさんだ。白髪のパーマで丸い顔に優しいしわを寄せ、いつもチェックのスーツ姿で、松葉杖をついている。今も色んな鳥たちに餌をやっている途中の様だった。
鳥おじさんは俺たちに目を向けると、微笑んでからその場を去っていった。
すると、ハトやスズメやカラスたちも一斉に空に飛び立つ。
公園の四分の一のスペースが空いた。
俺たちは、空いたスペースで遊んだ。サッカーボールが遠くに飛ばされない程度のパスの練習をして夕方に解散した。
家に帰ると母が仕事から帰っていて夕飯の仕事をしていた。
「ただいま」
「おかえり。あー、やになっちゃう今日お母さん大変だったのよ!」
この人に大変じゃない日何てあるのかなと思う。毎回帰る度に聞かされる内容がだいたい同じだからだ。俺は話を全部聞かなくても要約出来るくらい母の会社の愚痴が耳タコになっている。
この人は俺が今日どこで何があってどうだったのかは興味が無いんだ。
「会社の半分の人が‘高花粉症’って言うのになっちゃってね。花粉症のもっと強いやつらしいの。一日中ずっとくしゃみが聞えて、目の周りをかきむしってる人がいて、それを見ているだけで何だかお母さんクタクタになっちゃった。そういうの治してから会社に来てほしいわよね。まぁこのご時世じゃそれも難しいし、」こうだし、ああだし、と母の話は続いていく。
ここで自分の部屋に引っ込んでも「聞いてない!」と裏返った声で叫ぶので、取り合えず俺は停滞を余儀なくされる。これは俺が無力なのではなく、戦略的待機なのだ。
「それでね、さっきニュースでやってたんだけど、‘高花粉症’って言うのは今まで花粉症じゃなかった人でも、なっちゃう場合があるんだって、何でかしらね?」
「ちゃんと休んで無いからじゃないの?」思わず知ってることを口から出してしまった。
「そうは言っても、花粉症で休むわけにはいかないし、でも会社に来ると…」
そこから母の話はループを続ける。
俺は怒らせない程度のとこで宿題があるからと部屋に入った。
部屋に入って、やっと体の空気が抜ける。
明日は朝から正人とサッカーをする約束だ。
俺は俺だけの一個しかないサッカーボールを丁寧に布で拭いた。
翌朝、一番乗りしたくて、朝ご飯をさっさと食べて公園に向かう。
公園に沿う、川を眺めながら先を急ぐ。目先に公園が見えたところで、缶を川に投げ捨てる男の姿が目に入った。
「自分のケツも自分で拭け無いのか?」俺は小さく毒づいた。すると、スマホから男が顔を上げ視線自分と噛み合う。心臓が跳ねた。聞えなかったはず。そう思うのに、背中の毛が逆立つ。
と、突然飛行物体が俺を横切り、缶をポイ捨てした男の方へ勢いよく向かうと、その胴体を一周し、天高く飛び立っていった。見上げるとそれは艶のある紫色のツバメだった。青い空に螺旋を描きながら飛び立ち雲間に消えてしまう。
「くしゅん!くしゅん!」ツバメがいなくなると、目の前の缶ポイ捨て男が膝をついて盛大にくしゃみを始めた。目をかきむしり、小さくうなり泣いている。
缶ポイ捨て男は、震える手でスマホを押し、救急車を呼ぼうとしていた。
「大丈夫ですか?」
「待って!」
俺が男に近寄ろうとすると、誰かが止めた。振り向くと鳥おじさんだった。
「今近づいたらうつってしまうかもしれないよ。」
目元の上あがりのしわを深くしながらおじさんは穏やかに微笑んだ。
「うつるってどういうことですか?」俺は思わずおじさんに聞いた。
「さっき飛んで行ったツバメがいただろう。あの子はね『いつまで』って言う鳥の妖怪なんだ。放置された人間の遺体から生まれ、疫病をまき散らすと言われてるんだよ。」
鳥おじさんは昔話でもするように穏やかに語った。
「じゃあ、今はやっている‘高花粉症’はあのツバメの仕業なの?」 俺はツバメの飛び立っていった空を見上げた。
「明寿!」俺が呆けていると、何時もの笑顔で、太陽が声をかけてきた。しかし、横を見るとどうやらおまけがいるようだった。
「ごめん、弟の友達がさ、みんな高花粉症になっちゃって、遊ぶ相手がいないんだ。」太陽は人の好さそうな目元にしわを寄せた。
仕方なく、その日のサッカーは小3に合わせたリフティングや、パスの練習になった。本当はもっと激しい運動がしたかったんだけど、こういう場合は仕方ないだろう。
不完全燃焼のまま俺は夕方家に帰った。
「明寿大変なのよ。」
毎日何がそんなに大変なんだろう。本音は出さず、「どうしたの?」と聞く。
「新学期、入学式延期だって。」
確かにそれは大変だ。
「学校の半分以上の子や親御さんが高花粉症になちゃったって。過半数が出席出来ないから、延期になったんだって。」
魂消た。世の中現実にそんな事が起こるのか。少なくとも俺の人生で入学式延期は初めての事だった。
そんなこんなで春休みだというのに、翌日も翌々日も太陽以外の友達は中々集まれず、太陽と俺と、太陽の弟の正人と遊ぶことになった。
正人とじゃ、対等なプレーは出来ないし、正直煩わしかった。
「ねぇおじさん今流行ってる高花粉症って、この前の紫色のツバメのせいなんだよね。何か解決方法は無いの?」
俺は公園にいた鳥おじさんに尋ねた。おじさんは相変わらず穏やかな顔で鳥に餌をやっているとこだった。
「そうさな、鳥たちに聞いたところ、あいつは、如何やら日本から中国へゴミを押し付けた人間を恨んでるようなんだ。だから、ゴミをそこいらに捨てて放置する輩を狙っては、疫病をまき散らしてるみたいだね。」
「じゃあ、高花粉症にかかっているのはゴミを放置した人だってこと?」
「いや、それにしては多すぎるから、多分見て見ぬふりをした人や、間接的にうつった人もいるんじゃないかな?」
俺はツバメが近づいて行った男が、缶をポイ捨てしていたのを思い出した。
「中国では、日本のごみの処理を大量に引き受けてるんだが、公害で体調を崩す人が続出して、とうとう死人が出てしまったらしい。」
「それがツバメの妖怪になって、日本まで仕返しに来たんだね。」
鳥おじさんがこの前言っていた『いつまで』と言う妖怪をネットで検索したら本当にそう言う情報が出てきた。『いつまで』は『以津真天』と書く日本古来からいる妖怪だ。それが中国で生まれ日本に来て仕返ししに来るなんて、何か皮肉だなと思った。
「ちゃんと埋葬してやればいいのかもしれないけれど、流石に中国まで行けないしね。」
俺は翌日から6時に起きて、人のほとんどいない間にゴミ拾いをするようにした。
別に正義の味方を気取る気は無く。これ以上今の状況が続くと、何時までも太陽と弟付きで遊ばないといけないのが嫌だったのだ。
(あのツバメが放置ゴミに怒っているなら、ゴミをちゃんと片付ければいいだけじゃないか。)
そう考えついたのだが、考えるより、実際は手間な事だった。拾っても、拾ってもゴミは落ちていた。いたいけな小学生の俺が公園でゴミを拾ってるというのに、目の前で川に缶を投げ込むやつがいると、ツバメの妖怪の怒りももっともと思えてきた。
そうこうしながら公園と川の周りを掃除するだけで、気が付いたら9時になっていた。しかし、公園に戻ると、また誰かが捨てたビニールゴミが散乱して、体中から怒りが沸いた。しかしゴミを捨てた本人に文句を言える訳もなく、その日は帰って、ずっとふて寝した。
「手伝うよ。明寿。」
俺がゴミ拾いを始めた翌朝、太陽が弟連れで軍手をはめてゴミ袋を持ってきた。
「やっても、やっても終わんないんだぜ。」
「良いよ。きっと大事なことなんだろう。」
何で俺が何の為にゴミ拾いをしてるかも知らないで、太陽はこんな風に言うんだろう。
何だか太陽の弟を煩わしく思う自分が酷く幼稚で嫌な奴に思えた。
それから、次の日も、次の日も俺たちは朝6時から公園と川のゴミ拾いをするようになった。それでも中々ゴミを0にするのは難しい。嫌になる手前で作業は止めて、綺麗になった公園で、サッカーを楽しんだ。
三日目には正人は最初5回も出来なかったリフティングが30回も出来るようになっていた。結構根性の有るやつだ。
そうして時間は過ぎていった。
「ああ、本当だったら今日が入学式だったんだよな。」
俺はゴミ袋を手にもう咲き切った桜を見上げた。公園のベンチでは相変わらず鳥おじさんが鳥たちに餌をやっている。太陽は宝探しをするようにゴミを喜んで持ってくる弟の正人を、慣れた感じで褒めていた。
心なしか近所で花粉症の人を見ることも減っていった。見ないだけなのかも知れないが、良い兆しの様に思えた。
そこへ突然公園を清掃する俺たちの前にあの紫のツバメがやってきた。
俺は疫病が恐くて咄嗟に逃げようとした。しかしツバメの周りを餌を食べていたカラス達が取り囲み睨みつけた。
そう言えばツバメの天敵はカラスだ。それが妖怪のツバメにどのくらい効くのかわからないが、どうやら怯んいるようだ。紫の翼を逆立てながらも、覚束ない足取りになっている。
「お前ら、何でそんな事をするんだ?自分たちが捨てたわけじゃないだろう?」
「ツバメが喋った!」正人が叫んだ。この非現実的な出来事を俺だけの夢ではないことを他者を通して確認でき、密かに安堵する。太陽も驚いて呆けている。俺は二人の反応を見て場違いにも喜んでしまった。
「そうだけどさ、こうでもしなきゃ、またお前が病気を人にかけるだろう?困るんだよ、学校も始まらなくなるし」
俺はカラスのお陰でツバメが動けないのを良いことに言いたいことを言った。
家ではいつ新学期が始まるか分からずに、母が苛立っている。俺は今までかつてなく学校に行きたくて仕方なくなっていた。
「俺にも兄弟がいた。俺も学校に行きたかった。」ツバメは逆立てていた羽を伏せて俯いた。
「え、まさかお前まだ子どもだったのか?」思わず言葉が口をついた。
ツバメが更に深く俯いたので、それを俺は固定と見た。
「どういう事なんだ、明寿。」
「最近の高花粉症をまき散らしていたのはこのツバメなんだよ。もともとは放置され人間の死体から生まれる妖怪らしいんだけど、まさか子どもだった何て思わなかった。」
ツバメは戦意を喪失した様だった。
(どうにかいてやれないのか?)
もとは人間の子どもだと言うだけで、そう思うのは単純すぎるだろうか。相手は病気をまき散らした元凶なのだ。いや実際その元凶の元凶は日本のゴミ何だが。
「鳥おじさん。」俺は助けを求めて後ろを振り返った。ベンチに座っていた鳥おじさんは小さい炎をピンと弾いた。弾かれた炎は弧を描き、カラスの円陣の中心の、ツバメに着いた。勢いよく、ツバメの背から火が逆立った。鳥おじさんがはじいたのはマッチ棒だった。
「熱い、熱いよ!」ツバメは叫びながらのたうち周った。カラスはとばっちりを受けないように避けながらも、ツバメを逃がさないようにしている。
おじさんは何時もの優しい鳥おじさんでは無かった。上着のポケットから瓶を取り出すと、ツバメの前まで進み出て、上から躊躇なくかけた。
「ああああああああああ!!」ツバメは炎玉になって、叫んだ。おじさんはまるでそれをサッカーボールの様に足先で蹴り上げた。
火の玉になったツバメは高く上がってから垂直に川へ落ちていった。
「ゴミ拾いを率先してやる君たちにあのツバメは興味を持ったようだね。ごめんね。お取りみたいにしてしまって。」
おじさんはそう言うと、燃え尽きたマッチ棒を拾って、いつもの鳥おじさんの笑顔で去っていった。
俺たちは青ざめたまま暫くそこを動けなかった。
おじさんが素早く蹴った為、焦げ跡も何も残らなかった。
何事も無かった様に、満開の桜が散り、鳥たちがさえずる。
三日後、延期になってた新学期、入学式の日が来た。
桜が散る前に入学式を迎えられて、手放しで親御さんたちは喜んでいた。
入学式では小学一年生達に、六年生が最高学年として、桜付きの名札を胸に付け渡す。
この前まで園児だった幼い顔は、赤ちゃんと変わりなく見えた。
俺が名札を渡した男の子は背が2,3番目くらい小さかった。何故か名札を付けようたした瞬間「俺も学校に行きたかった。」と言った紫のツバメの声が耳を突いた。
翌日、俺はまた朝人のいない間に一人でゴミ拾いをした。
もう、紫のツバメはいないけど、自分で綺麗にした公園でサッカーするのはそれなりに良いものだと気が付いたんだ。
誰の為でもない自分の為にやっている。
川沿いを歩きながらゴミを拾っていると、鳥おじさんが川を眺めているのを見つけた。
おじさんは欄干に手を添えながら空を見上げていた。何をしているのかと見ていると、徐に手を挙げた。
すると、一斉にスズメが飛び立って、桜の木々の合間を思い思いに飛び交った。
桜の花がスズメに突かれ、次々川に落ちていく。欄干に手をかけ、凝視すると、スズメは桜の花の額を食べていると分かった。
川一面、桜桜桜、桜桜桜。ちゅんちゅんという声と共にどんどん桜の花弁が空を舞って川に落ちていく。川は花弁が溶け込んで、ピンクの溶液になってしまった様だった。
俺は思わず鳥おじさんのとこまで駆けて行った。ツバメの一件以来、恐怖で近づけなかった鳥おじさんの処へ。
「おじさん何したんですか?」
「鳥おじさんでいいよ。」おじさんは空を見上げたまま答えた。
「スズメたちにね、入学式が終わるまで、桜が散らない様に桜の花の額を食べるのを待ってもらってたんだ。おかげで、餌代が大分財布を軽くしてくれたよ。」
おじさんは晴れやかな顔で話した。
「ねぇ、鳥おじさんは良い人だよね。」俺はそう信じたくて恐々たずねた。
鳥おじさんはきょとんとした顔をしてから、「そうありたいとは思ってるけどね。」と笑った。
「人間は出来る事しか出来ないんだよ。」
おじさんはそう言うと、また川を眺め始めた。
いつも優しいその目が、悲し気に見えた。
朝日が雲間をくぐり、ビルの上まで上がっていく。ピンク色の川を照らし出した。
枝から離れた花弁が、空気の中で舞い、川へ落ちそうで落ちないでいるのを見ると、空気の中で花弁が藻掻いているみたいに思えた。