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いつか見た陽光

作者: 桃園沙里

 僕は子供の頃から家族運が悪かった。

 物心がついた頃には両親は離婚していた。

 幼い僕は、母の実家、母の再婚先、父の実家、或は父の姉夫婦の家などを転々とし、それらのどの家でも温かく迎えられることはなかった。

 幼い僕が粗相をしたりわがままを言ったり或いは大人たちの気に障ることをすれば、母の実家では「父親に似た」と言われ、父の実家では「母親が悪いから」と、両親の悪口を聞かされて育った。大人たちは、僕が子供だからわからないと思って、自分たちのストレス発散のはけ口に利用することもあった。

 そんな環境で育った僕が両親や祖父母を良く思うわけもなく、周りの大人を頼ることもできず、ただ、大人たちの邪魔をしないように気配を消しておとなしく暮らす術を身につけた。


 そんな僕にも、人生で唯一、家族の温かみを感じる時期があった。

 僕が小学二年生の時、父がある女性と暮らし始め、しばらくして結婚した。その時僕も父のマンションに引き取られ、初めて父と一緒に暮らすことになった。

 継母はちょっと変わった女性だった。気さくで、細かいことを気にしない明るい女性だった。僕に対しても、まるでクラスメートか何かのように深く入り込まず適度な距離感で接した。僕にそれほど関心がなかったのかもしれないが、僕はその距離感が嫌ではなかった。

 しかし、僕が本当に好きだったのは、彼女自身ではなく彼女の実家だった。


 継母の実家は、近隣の市でキッチン・ケイという飲食店を営んでいた。僕は、父と継母が旅行に出かける時や夏休みやそうでない時でも日常的に彼女の実家に預けられ過ごした。

 継母の両親は、僕が今まであったことのない種類の人、つまり温かな愛情を持って僕に接してくれる人だった。

 僕に箸の持ち方を教えてくれたのも、キッチン・ケイのおじさんだった。

「おやおや、なんていう箸の持ち方してるんだい」

 大きな声で注意され、僕が萎縮しているとおじさんは言った。

「いいか、人差し指はこう、親指はこう。やってごらん」

 僕がおそるおそる指を動かした。

「そうそう、上手上手。そうやって持てばいいんだよ」

 おばさんが言ったことも覚えている。

「男親で今までちゃんと教えられてこなかったんだねえ、かわいそうに」

 彼らは言った。

「いいか、これからは本当のじいちゃんばあちゃんだと思って、わからないことがあったら何でも訊くんだぞ」

 おじさんはいつも江戸っ子らしい口の悪さで叱るのだが、ただ頭ごなしに叱るのではなく、何が悪いかどうしたら良いのかちゃんと教えてくれる人だった。僕は、テレビや物語に出てくる祖父母は架空のものだと思っていたが、彼らはその概念を覆した。おじさんとおばさんは今まで僕の周りにいた大人たちと違い、僕の世話を焼き、いろいろなことを教えてくれた。

 そして何よりも好きだったのは、陽菜ちゃんだった。

 陽菜ちゃんは僕の継母の妹で、時々お店でアルバイトもしていた。とても大人に見えたが、初めて会った時はおそらく高校生だったと思う。

 陽菜ちゃんは、おじさんたち以上に僕の世話を焼きたがった。

「弟ができたみたい」とほおずりをされたこともある。

 僕は、キッチン・ケイに預けられる時は大抵、店の奥の畳の部屋で独りで本を読んで過ごしていたが、お店が暇な時間は陽菜ちゃんがやってきてかまってくれた。

 僕は父の家よりもどこよりも、ここが好きだと思った。このままずっと住みたいと思っていた。


 でもその生活も、三年あまりで終了した。父と継母が別れたのである。

 僕は、おじさんにもおばさんにも陽菜ちゃんにも何の挨拶をする間もなく、父に連れられて引っ越した。その後一度もキッチン・ケイには行くことはなかった。

 一緒に住んでみてわかったのだが、父は自分勝手な人だった。自分を中心に世界が回っていると思っている。そのせいで母や継母とも別れたのかもしれないが、僕のことなどこれっぽっちも考えていなかった。


 引っ越してすぐ中学生になった。

 小学生の頃は、家と同じように教室でもおとなしく気配を消して過ごしていたので、親しい友人と呼べる人間はいなかった。でも、クラスメイトは皆、僕がそういう人間だと思って扱ってくれたので、それほど不都合はなかった。

 それが、引っ越しによって、知っている子が誰もいない中学校に入学したのだから、今までのようにはいかなかった。気配を消していても絡んでくる生徒はいて、僕はいじめっ子たちの格好の餌食となった。

 やがて僕は学校に行かなくなった。


 その頃の僕の暮らしは、父と二人暮らしだった。

 実母は新しい家庭の人となっていて、僕は母とも母方の祖父母とも全く連絡を取っていなかったし、父の実家は、祖父が病気になったとかで、僕の面倒を見てくれなくなったのだ。

 父とはお互いに干渉しない生活だった。食事は基本的に、父は外食、僕は弁当を買って済ませ、週に一、二度、家政婦さんが来て家事をしてくれていた。

 父は時々、友人や女性を連れて帰ることもあったので、僕はほとんどの時間を自室で過ごした。学校に行かなくなってからは、ゲームをしたり、マンガや本を読んだりして時間を浪費していた。


 ある土曜の午後、僕がコンビニから帰ると居間にいた父が僕を呼んだ。

 休みの日に父が声をかけてくるなんて珍しいと思った。

「学校の先生から連絡があったんだけど、お前、学校行ってないんだって?」

 僕はぎくっとした。

「お前が学校に行かなくたって構わない。それで困るのはお前だから。お前が勉強をしなくても、仕事をしなくても、俺には関係ない。ただ、親には扶養義務ってものがある。どんな風に暮らしてても、お前が二十歳になるまでは生活の面倒を見てやる。だけど、二十歳になったら家を出て自分の金で生活しろ。一切援助はしない。但し、大学に進学したら大学卒業までは期限を伸ばそう。どうだ」

 僕の父が常識人でなかったことにある面では僕は救われていたかもしれない。

 父は、大検(現在の高等学校卒業程度認定試験)に受かれば学校に行かなくても大学に行ける、と言った。

 僕はその日から大検を受ける勉強を始めた。


 父が理解のある親だったわけではない。常識にとらわれない人間なだけだ。

 父は僕に東大生の家庭教師をつけた。週に一度、家庭教師の先生が来る時は居間で勉強した。僕の部屋に他人を入れなくなかった。

 先生はどういった勉強をすればいいか、方向を教えてくれた。まず、大検までのスケジュールを作り、そのために必要な勉強を表にした。次に、買うべき参考書、やるべき勉強、効率の良い勉強法も教えてくれた。それはとても有難かった。

 そうして僕の自宅勉強が始まった。


 僕の勉強は順調だった。

 家庭教師の先生に言わせると、僕は習得が早い方だそうだ。

「このままいけば大検には合格するだろう。でも君の目標は大検なんかじゃなくて、その先の大学受験だから」

 僕はまだ、どこの大学に行こうとか、大学で何をしようとか考えていなかった。ただ、働かずに父に扶養されて暮らせる時間を長くしようと思っていただけだ。大学卒業後の将来など全く考えていなかった。



 僕が自宅勉強を始めて二年ほど経った中学三年の秋の午後、僕は参考書を買いに、電車に乗って自宅から離れた書店に行った。近所の書店では同じ学校の生徒と会う危険があったからだ。人目につきにくく、且つこの位の年頃の男子が歩いていても不審に思われない時間に外出する癖が僕にはついていた。


 書店で参考書や問題集を買って出ようとしたら、レジの近くに有名なミステリー作家の新作が平台に積まれていた。

「確かこの作家、陽菜ちゃんが好きだった……」

 僕は久しぶりに陽菜ちゃんのことを思い出し、懐かしくなった。

 ふと、顔を上げると、そこに同じように平台を見ている女性が立っていた。

「……陽菜ちゃん?」

 女性はびっくりして顔を上げ、僕の顔をまじまじと見て言った。

「……もしかして、カズ君?」

 僕は頷いた。

「なあにい、こんなに成長しちゃって、もう」

 陽菜ちゃんは手を伸ばして僕の頭をグリグリ撫でた。

「やめてよう」

 僕の身長は陽菜ちゃんを超えていた。


 陽菜ちゃんは僕をファミレスに誘った。

「一瞬わかんなかったわよ。すっかり声も低くなっちゃって」

 陽菜ちゃんは冷やかすような目をして言った。

「今、仕事の帰りなの。これから電車乗って、あ、カズ君、この近くに住んでるの?」

「ううん、○○町。こっちの本屋さんが好きだから」

 陽菜ちゃんは大学を卒業し、社会人になっていた。実家を出て、沿線の街で独り暮らしをしているらしい。

「勉強、ちゃんとしてる?」

「勉強はしてるよ。ほら、今だって参考書買いにきたんだし」

 僕は、書店の袋の中を見せた。

「おお、偉い。えっと、来年高校だっけ」

 僕は一瞬ひるんだ。だが、陽菜ちゃんには全部言ったほうがいいと思った。

「高校は行かない。今も学校は行ってない」

 僕は事情を説明した。

「ああ、そうなんだ。カズ君のお父さんは普通の人とちょっと違ったところがあるから、あ、これお姉ちゃんが言ってたのよ、いい意味でも悪い意味でも、そういうこと言いそう。無理に学校行けって言われなくて良かったじゃない」

 陽菜ちゃんがどこまで僕の父のことを知っていたのかわからないが、とにかく僕の立場を理解してくれた。

「おじさんたちはお元気ですか」

「うん、相変わらずお店やってる。みんなカズ君のこと心配してたんだけど、ねえ、お姉ちゃんがお別れしたのにカズ君の様子訊くわけにもいかないから」

「だよね。僕も、お父さんに陽菜ちゃんちのお店の場所、今でも訊けてないもん」

「あ、そうだ」

 陽菜ちゃんはバッグから自分の名刺を取り出し、裏に陽菜ちゃんのプライベートな電話とメールアドレス、それから実家のお店の住所を書いてくれた。

「カズ君に会ったって言ったらお父さんたち喜ぶわあ。お店に遊びに来てねって言いたいところだけど、お姉ちゃん、再婚して子供ができて、今実家に同居してるんだ。何か、変だよね、カズ君が来るってのも」

「大丈夫、僕ももう大人の事情ってやつはわかる歳だから。よろしく伝えといて」


 僕はその日、人生が変わった気がした。景色が変わったのだ。

 陽菜ちゃんは僕の勉強を手伝うと言ってくれ、次に会う約束をした。

 諦めていた幸福感と再会したこの気持ち、わかるだろうか。



 翌月の土曜日、僕は待ち合わせ場所の書店に行った。僕たちが再開したあの書店だ。

 僕は陽菜ちゃんを待っている間に、趣味の雑誌を買った。そうしている内に陽菜ちゃんが来て、僕たちはファミレスに行った。

「何買ったの。参考書」

「ううん、今日はこれ」

 僕は書店の袋から「歴史街道」という雑誌を出して見せた。

「歴史街道……?あれ、そういえば、子供の頃も好きだったよね、歴史」

 そう、子供の頃、陽菜ちゃん家族と一緒によく歴史ドラマを見ていた。その時に歴史に興味を持った僕に、陽菜ちゃんは子供向けの歴史の本を買ってくれた。僕はその本を何度も何度も読んだ。

 僕は陽菜ちゃんが覚えていてくれたことが嬉しかった。

「歴史研究の専門家になるの?」

「え」

「え、違うの」

 僕は何も考えていなかった。将来何になるか、どう生きるか、どの学部に進むかさえも、決めていなかった。

「歴史の研究……」

 陽菜ちゃんはいつも僕に何かを気付かせてくれる。


「歴史研究家になりたいです」

 僕が家庭教師の先生に言うと、彼は特に驚かなかった。

「いいんじゃない。そういうのも。大学学部調べてそれに合わせた勉強をするといいね。目標がはっきりしてると対策も立てやすい」

 彼とは全くのビジネスライクな付き合いだったが、僕はそれでいいと思っていた。

 彼は、いろいろ調べてアドバイスしてくれた。

「日本史だったら国文学科がいいね。国語、古文漢文に重点を置いて勉強したほうがもちろんいいんだけど、日本史といっても、周辺諸国の影響や関わりも重要だから、世界史もある程度学ばないと。それから論文を書くなら英語などの外国語も必要になる」

 また彼は原文主義を勧めた。

「他人が訳した文は参考にする程度ならいいけれど、ちゃんと読み取るには原文を読まなきゃ。漢字一文字の中に隠された思いは、原文を読まなければわからない」

 家庭教師は約二年毎に代わっていたので、彼とはほんの二年程度の付き合いだったが、今思うと彼には有意義なことをたくさん教わった。今更だが、彼にも感謝したい。



 僕と陽菜ちゃんは定期的に会った。

 今でこそ携帯電話やパソコンはみんな持っているが、当時の学生は誰も持っていなかった。陽菜ちゃんは社会人だから携帯電話を持っていたが、学校も行かず友達もいない僕は必要なかったので持っていなかった。だから陽菜ちゃんと会った時に次に会う約束をした。大抵陽菜ちゃんは、ほぼ一ヶ月先に設定した。

 陽菜ちゃんの僕に対する弟扱いは変わらなかった。陽菜ちゃんが本当は陽菜子という名前で、僕より九歳年上だと知った。

 いつも同じファミレスで、陽菜ちゃんに近況と勉強の進捗具合を報告して、歴史の話をした。時々、陽菜ちゃんは友達のことや恋愛のことも話してくれた。仕事の話もした。会社の理不尽な上司や味のある取引先の人の話など、僕には新鮮だった。

 陽菜ちゃんが恋愛の話をするとき、チクっとした痛みが走ったが、オープンで裏表のないのが陽菜ちゃんのいいところだから仕方がない。僕はその痛みを我慢した。


 その後、ほとんど登校しないままで中学校を卒業した僕は、大検に苦もなく合格した。

 父は相変わらずだった。合格を報告しても日常の連絡事項を聞くような態度で、もちろんお祝いなどしてくれなかったし、僕もそれを期待していなかった。

 一方、陽菜ちゃんは、合格したことを伝えると、右手で僕の頭をグリグリ撫でた。

「えらい。カズ君、よくがんばったね」

「やめてよー。僕もう子供じゃないんだから」

 そう言いつつも僕は嫌ではなかった。グリグリ撫でられる度、陽菜ちゃんの手の平から温かい気持ちが注入される気がした。


 その次に会った時、陽菜ちゃんの両親からだというお祝いのプレゼントをもらった。

「はい、これ、おめでとうって」

 シャーペンとブックカバーのセットだった。

「わあ、ありがとう。ありがとうって言っておいて」

「そうじゃないでしょ」

 陽菜ちゃんは軽く睨んだ。

「人から物をもらったり何かしてもらったら、直接お礼をするのが礼儀よ」

 そう言って陽菜ちゃんは自分の携帯電話を取り出した。

「あ、お母さん、カズ君と今一緒にいるんだけど、お礼言いたいって」

 陽菜ちゃんは僕に携帯を渡した。

「あの、どうもありがとうございました」

「あらあ、カズ君、久しぶりねえ。元気?陽菜から聞いてるわよ。勉強、頑張ってるんだってね。ちょっと待って」

 次におじさんが出た。

「カズ君か。元気でやってるか」

「はい。どうもありがとうございました」

「よかった。そのうち店に食べにおいで」

 おじさんもおばさんも、何年も会っていないことを感じさせない気さくさで、僕は安心した。

 僕はこんな風に陽菜ちゃんから世間の常識を教えてもらうことが少なくなかった。

 陽菜ちゃんは、半分引きこもりの僕と外の世界を繋ぐ接点のような人だった。陽菜ちゃんによって僕は他人との会話力が養われた気がするし、世間の常識やマナーも学んだ。陽菜ちゃんと会わなければ僕は今頃、何の目的もなく社会不適合者として生きていただろう。

 でも、最も陽菜ちゃんからもらったものは温かい愛情だった。

 陽菜ちゃんとその家族と出会って、僕は初めて家族愛というものを知った。実の両親から放置されていた僕のことを、本気で心配してくれる人がいるということを。

 今の僕があるのは陽菜ちゃんのおかげだ。僕はどんなに感謝してもしきれない。僕はいつか立派な歴史研究家になって「僕がここまでこれたのは陽菜ちゃんのおかげです」とお礼を言える日を夢見ていた。

 僕は陽菜ちゃんが一生そばにいてくれたら、と思っていた。陽菜ちゃんが本当の家族だったら、どんなに毎日が楽しいだろう。結婚なんて大それたことは考えていない。この関係が永遠に続けばいいと思っただけだ。陽菜ちゃんが他の男性と結婚したらきっとこんな風に会うことはなくなるだろう。せめて僕が一人前の大人になるまで陽菜ちゃんが独身でいてくれることを願った。



 やがて僕は第一志望の大学に合格した。

 陽菜ちゃんは当初、合格発表を一緒に見に行きたいと言い出したが、それは恥ずかしいので断った。無事合格を伝えると、陽菜ちゃんは自分のことのように大喜びした。

 陽菜ちゃんは僕にサークルに入ることを強く勧めた。大学ではただ勉強をするだけだと僕は思っていたけれど、陽菜ちゃんの言葉に従って古文書研究のサークルに入った。もしかしたら僕に同世代の友人がいないことを気にしていたのかもしれない。

 大学に入学したのを機に、僕は独り暮らしを始めた。これは、再婚を考えていた父と意見が合致した。大学を卒業するまでの学費と家賃と生活費は全部父が出してくれることになった。それから、入学祝いにパソコンと携帯電話も買ってくれた。

「今まで一度も旅行にも連れてってくれなかったし何もしていないんだから、当然よ」と陽菜ちゃんは鼻息荒く言った。

 携帯電話を持ってから、陽菜ちゃんとの約束はメールでするようになった。陽菜ちゃんと会う頻度は減ったが、ちょっとしたことをメールするようになり、僕は以前より陽菜ちゃんを身近に感じた。


 そうして大学一年の晩秋、陽菜ちゃんから、社員旅行のお土産を渡したいから久しぶりに会おう、とメールが来た。

 僕は指定された大手チェーンのカフェで約三ヶ月ぶりに会う陽菜ちゃんを待った。外は冷たい北風が吹く。外を歩く陽菜ちゃんは寒いだろうと想像した。

 三十分待っても来なかった。陽菜ちゃんは時間に正確な人だったし、遅れる時は連絡をくれるはずだ。

 僕が約束の日時を間違えただろうか?メールを見返すが、確かに今日だ。

 僕は、初めて陽菜ちゃんに電話をかけることにした。今まで、携帯電話を持つ前も持ってからも一度も陽菜ちゃんに電話をかけたことがない。

 緊張する僕の耳に声が聞こえた。

「もしもし、カズ君?」

 陽菜ちゃんの声ではないように聞こえる。

「うん」

「私、陽菜子の姉、美和子。覚えてる?」

 僕の継母だった人だ。

「美和子さん、お久し振りです、あの……」

 僕が戸惑っていると電話の声は言った。

「陽菜子ね、死んじゃったの」

「え……」

「十日前、交通事故に巻き込まれてね、ごめんね、ゴタゴタしてて連絡できなくて」

 僕は何かの冗談かと思った。でも、どうやら本当のことらしい。

 僕の頭が真っ白になった。

「よかったらお線香あげに来てちょうだいね」


 その後、どうやってアパートに帰ってきたのか記憶にない。

 僕は夕闇迫る部屋のベッドの上に呆然と座っていた。これは夢だ。眠って目が覚めれば陽菜ちゃんと会える。夢じゃないことはわかっているけど、僕はそう願った。

 明日の日曜にキッチン・ケイに行く約束を美和子さんとしたのだが、僕はこういう時どうしていいのかわからなかった。お悔やみの言葉も何も知らなかった。今までそういったことを教えてくれる大人は陽菜ちゃんとその家族しかいなかったからだ。僕は自分の不運を嘆く。

 父には訊きたくない。父が一般常識を知っているかどうか疑問であったこともあるが、何よりも、僕と陽菜ちゃんの関係に父が関わって欲しくなかった。

 僕は大学のサークル仲間に一斉メールを送信した。メールの返事を待つ間、インターネットで調べた。お香典のことや、何より、ご遺族にどういった言葉を言ったらいいのか、全くわからなかった。

 陽菜ちゃんの死を悲しむ一方で、お香典の金額やそういったことを考える自分が嫌だった。悲しくないはずがない。悲しくて気が狂いそうだ。でも、常にどこかで冷静な自分がいる性格なのだ。それは悲しみとは別なのだ。

 しばらくすると「昨年同居している祖父が他界した」という女子から返事が来た。

「参考になるかどうかわからないけど、お葬式からしばらくたってから、昔の同級生みたいな方がお香典持ってお線香あげに来てくれたことがあったよ」と、彼女は弔問のマナーや服装などを教えてくれた。

 お悔やみ言葉の定型句もいくつか教えてくれたが、僕の心にはしっくり来なかった。そのような定型句では、陽菜ちゃんへの気持ちを言い表せない。かと言って、それに代わる言葉は考えつかなかった。

 それでも僕は、教えてくれるサークル仲間がいてよかった、と思った。これも陽菜ちゃんが勧めてくれたおかげだ。

 そう思ったら、涙が止まらなくなった。


 翌日の午後、約十年ぶりに訪れたキッチン・ケイは、思っていたより小さかった。

「まあ、カズ君、すっかり立派になって」

 おばさんが笑顔で迎えてくれた。

「カズ君、よく来てくれたね」

 おばさんもおじさんも、皺は少し増えていたけれど、全然変わっていなかった。

 ふたりの明るさが却って辛く感じ、僕は教えてもらったお悔やみの言葉を言うのがためらわれた。

「あの、この度は……」

 かろうじてこれだけ言うと「まあ、陽菜子にお線香あげてやって」と、僕を促した。

 居間の壁際に祭壇が作られていた。飾られた遺影は、僕が見たことのない写真だった。

「これね、この間の社員旅行の写真なのよ。まさか、こんなことに使うなんて思ってもみなかったわ」

 おばさんは声を詰まらせた。

 僕が目を閉じ手を合わせていると、後ろでおじさんの声がした。

「よかったなあ、陽菜子。カズ君が来てくれたよ。ありがとうなあ」

 違う。お礼を言うのは僕だ。これまでどれだけ陽菜ちゃんに助けてもらったことか、どれだけお世話になったか、僕が今生きていられるのは陽菜ちゃんのおかげなのだ。それなのに僕は、陽菜ちゃんの恩に何も報いていない。お礼の言葉すらちゃんと言っていない。どうしたらいい。

 顔を上げ、笑う陽菜ちゃんの遺影を見たら、急に涙が出た。

 人前で涙を流すのは生まれて初めてのことだった。子供の頃から、叱られても辛いことがあっても人前では泣かなかったのに、自分でも驚くほど子供のようにしゃくりあげて泣いた。

 誰かの手が僕の背中を撫でるのを感じた。でもその手は陽菜ちゃんではなかった。

 もう僕の頭をグリグリ撫でる陽菜ちゃんはいないのだ。



 ひと眠りするごとに悲しみは薄れていく……はずだが、僕の喪失感は消えない。

 陽菜ちゃんは太陽だった。陽菜ちゃんと出会わなければ僕の人生は今頃どうなっていたかわからない。生きていたかどうかすら確信がない。陽菜ちゃんが僕の進むべき方向を指し示してくれた。僕の人生の全てを陽菜ちゃんが握っていたと言っても大袈裟ではない。

 太陽が消えた真っ暗闇の世界で、僕はこれからどうやって生きればいいのか。 


 僕は勉強をする気が起きなかった。大学も休みがちになった。部屋で単調なゲームをし続けた。時々インターネット掲示板を覗いた。こんな暮らしをしていいわけがない。でも、僕は何もする気が起きなかった。

「このままだと単位、やばいかもよ」

 サークルの同級生からメールが届いた。

 僕は誰からの電話にも出なかった。時々留守電に入っているメッセージを聞くが、かけ直さなかった。誰とも話したくなかった。僕はただ、この悲しみが薄れるまで無為に時間を送り続けるしかできなかった。

 歴史研究家になる夢の魅力も激減した。歴史研究家になったとして、一体誰が褒めてくれるのか。僕が立派な大人になっても、そこに陽菜ちゃんはいないのだ。



「お願い、助けて」

 ひと月ほど経った日、サークルの同級生からメールが来た。

「どうしても意味がわからない漢文があるの。お願い。手を貸して」

 漢文が書かれたホワイトボードの写真がメールで送られてきた。

「アのように読むと歴史的に矛盾が生じて、イのように読むと文が成立しない」

 僕は文章を見た。確かに解りづらい文章だった。

「その前後の文を教えて」

 僕は返信した。


 僕はその文章の解読にのめりこんだ。健康ブロック食とペットボトルの水を片手に、解読に集中した。

 確かに、解釈を変えるとその文章を書いた意味すら無くなるほど、解読に手こずる文章だった。その日は行き詰まって眠り、翌朝からまた始めると、別な解き方が見えてきた。そもそも文字が間違っているのだ。そこから僕は違う仮定を立てて解き始める。

 夕方近くなる頃、全ての糸が繋がった。

「やったー」

 ベッドに倒れこんだ僕は、心地よい疲労感を感じていた。

 その時僕は感じた。僕は歴史研究が好きだ。

 僕を縛り付けていた悲しみの糸が、プツンと音をたてて切れたような気がした。


 翌日から僕はガムシャラに勉強した。

 僕が陽菜ちゃんから受けたものは海より深く宇宙のように広い。でも僕は陽菜ちゃんのために何もできなかった。

 もっと優しくしてあげれば、もっとお礼を言っていれば、もっと僕の気持ちを伝えていれば。

 そんなことをいくら思っても今となっては全て、遅いのだ。今の僕にできることは、ただ、立派な歴史研究家になって陽菜ちゃんが僕にしてくれたことを無駄にしないことだ。僕がここでダメになったら、今まで僕を育んでくれた陽菜ちゃんの行為が全て無駄になる。陽菜ちゃんが生きていたことを無意味にしてしまうのだ。

 落ち込んだ気持ちの時は、陽菜ちゃんのことを思い出した。陽菜ちゃんの優しい言葉、僕のために流してくれた涙、自分のことのように一緒に喜んでくれた姿、それらを思い出し、心の中にほっこりした気持ちを浮かび上がらせ、意欲に変える。

 この先、陽菜ちゃんに心からお礼を言えるような人生を歩みたい。それが陽菜ちゃんへの恩返しになるかどうかはわからないけど。


 その後、キッチン・ケイへは一度も行かなかった。おじさん、おばさんの悲しみを、僕はどう扱っていいのかわからなかったのだ。美和子さんと何回かメールのやり取りをしたがそれきりだ。自分でも情けないと思うが、もともと僕は弱虫なのだ。ずっと陽菜ちゃんが奮い立たせてくれていただけなのだ。

 ただ、お墓参りはした。毎年、陽菜ちゃんの誕生日にチューリップを供えた。

 以前、陽菜ちゃんの誕生日にプレゼントをしたいと言った僕に、陽菜ちゃんは言った。

「じゃあね、お花ちょうだい。チューリップ。季節外れだけど、あるかな。一番好きなお花なの」

 僕と陽菜ちゃんは一緒に花屋へ行き、チューリップ二本とかすみ草で小さな花束を作ってもらった。それから毎年、陽菜ちゃんの誕生日にはチューリップの花束を送った。

 濃いピンク色のチューリップは明るく、陽菜ちゃんの笑顔のようだった。



 そうして、陽菜ちゃんがいなくなってから十八年が経った。

 僕は大学院に進んだが、大学というものが肌に合わず、今は大学を辞め塾の講師をしながら歴史研究を続けている。

 今年、僕が子供向けに書いた歴史の本が、とある教育関係の賞をもらった。僕が歴史の面白さを陽菜ちゃんから教えてもらったように、子供たちに伝えることができたら、と思って書いた本だった。

 今日はその受賞式が都内の小さなホールで行われる。

 僕は受賞の挨拶で陽菜ちゃんのことを話そうと思う。具体的なことは言わないが、恩人との出会い、そういった内容になるだろう。


 僕は、未だ結婚していない。何人かの女性と親しくなったこともあったけれど、結婚には至らなかった。そもそも僕は家族運に恵まれていない人間だから、もう家族を作ることは諦めている。

 実母とはもう全く連絡を取っていないし、父とは事務的な話しかしていない。この賞をもらった時、父の再婚相手から祝福のメールが来たが、父本人からは何の連絡もなかった。

 陽菜ちゃんのご両親と美和子さんからはお祝いのメールが届いた。他人行儀なお祝いの言葉が書いてあって、もう僕と距離が離れてしまったことを感じた。僕は、著書に形式的なお礼の文を添え、キッチン・ケイに送った。

 おそらく僕はこの先もひとりで生きていくのだろう。

 今でも陽菜ちゃんに対する気持ちが恋愛感情だったのかどうなのかわかっていない。ただ、僕の人生にとって最も大切な人だったということだけだ。


 ホールの会場の最前列に、他の数人の受賞者と並んで僕は座っていた。

 僕の名が呼ばれると、僕は壇上へ上がり簡単なお礼の挨拶を述べた。

「本日はこのような賞をいただき、ありがとうございました。僕は子供の頃、僕はある人から歴史の本をいただき、歴史の面白さを知りました。その人は家族のような温かい心で僕に様々なことを教えてくれました。その人との出会いがなかったら今日の僕はありません。人との出会いは大切なことだと思います。僕は、その出会いに心の底から感謝します」

 僕は「その人」が今はいないことを言わなかった。お涙頂戴っぽくなるのが嫌だったからだ。

 挨拶を終えて、人がまばらに座る会場を壇上から眺めると、どこかに陽菜ちゃんがいるような気がした。

 僕は、少しは陽菜ちゃんの恩に報いることができただろうか。


 受賞式が終わって舞台袖に捌けると、薄暗い通路で男性から声をかけられた。

 関係者らしかった。

 男性は僕に向いて言った。

「すみません。娘がファンでして、サインしてやってくれないでしょうか」

 男性の陰に僕の著書を抱えた制服姿の女子高生が見えた。

「ええ、いいですよ」

「私はちょっと失礼します。また後ほど懇親会場で」

 そう言って彼は僕に会釈し、先に行ってるから、と娘に声をかけて彼は去っていった。

 僕はその女子高生が差し出す本とマジックペンを受け取った。

「ずうっと応援してきました。今日、お会いできてすごく嬉しいです」

「ありがとう。お名前は」

「えっと、ヒナってお願いします、太陽の陽に菜っ葉の菜」

 僕の手が止まった。思わず顔を見た。

「陽菜、ちゃん……」

 もちろん、僕の知っている陽菜ちゃんではない。

「はい」

 思わぬところで陽菜ちゃんの名を聞いた僕は、鼓動が高まった。

 若い女性相手に動揺していると思われないよう、僕はすぐに下を向いて、本にペンを走らせた。

「陽菜さんへ……」

 その時、僕の頭の上にふわりと触る手があった。

「カズ君、よく頑張ったね」

 懐かしい感触がした。

「……あ」

 頭から温かい空気が全身を駆け巡った。

 僕がずっと欲しかった手だった。

 僕は顔を上げることができなかった。

 不覚にも、書いたばかりのサインの上に僕は涙を落とした。(了)

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