1
まだ本当に小さかった僕を膝の上に乗せて、じいちゃんは言ったんだ。
「じいちゃんが若い頃はな、この辺も森とかたくさん残っててな、夜になると街灯なんか無くて、真っ暗でな。宴会の後、帰る時、おとかに化かされるぞとよく言われたんだ」
「おとか? おとかが化かすの?」
「うん。おとかは化かすんだ」
◇◇◇
生まれてきて11年。最悪の4月だった。
学校のクラス替えがあり、担任の先生が誰になろうが、僕には関係ない。
その時まではそう思っていたんだ。
6年生のクラスが2組に決まり、担任の若い男性教師坂上先生が教室に入ってきた時、教室から大歓声が上がった。
女の子だけじゃない。男もだ。
坂上先生。去年、うちの小学校に新卒で赴任したばかりの24歳の先生。専門は体育。
去年は5年3組の担任で、スポーツに力を入れ、全部のスポーツ大会で3組が優勝した。
スポーツ大会前は授業より、練習を優先する。雨が降って体育が流れたら、代わりの時間を必ず確保する。勉強より体を鍛える方が大事。
そういう考え方だったし、若くて元気だから、男女ともに大人気。
でも、僕には関係ない。その時まではそう思っていた。
◇◇◇
放課後の僕の日課は下校時間になるまで、学校の図書館で本を読むことだった。
家にいてもある理由でつまらないし。
図書館では窓際の席に座り、時々、読書に飽きたら、ぼうっと外の景色を眺めるのが好きだった。
今になってみれば、本当に可愛げのない子どもだったとは思う。
◇◇◇
その日も読書に飽きた僕は、ぼうっと外の景色を眺めていた。
だが、その日は僕にとって最高に悪い意味で特別だった。
本当に偶然なんだけど、野球用具を持ってグラウンドに歩いて行く坂上先生と目が合ってしまった。
先生は次の瞬間、露骨に不快感を隠さない表情を見せた。
ぎくりとはしたけれど、先生はそのままグラウンドに歩いて行ったから、その時はそんなに深く考えずに読書を再開した。
◇◇◇
その怒鳴り声は図書館中に轟き渡った。
「こんないい天気の日に、図書館に籠ってるなんて、何考えてるんだっ!」
野球用具をグラウンドに置いてきた坂上先生が図書館に乗り込んできたのだ。
「子どもが天気のいい日に図書館にいるなんておかしいっ! 子どもは外に出て、元気に遊ぶもんだろっ!」
図書館で怒鳴り声を上げること自体明確なマナー違反なんだけど、司書の女の先生は市役所から派遣されている臨時職員だったし、正規の教員である坂上先生には何も言えないようだった。
「分かってるのかっ? 佐貫っ! お前のことを言ってるんだっ!」
坂上先生はまだ座っていた僕の右腕を掴むと、無理矢理引っ張り、立ち上がらせた。
「俺はお前のことを心配して言ってやってるんだっ! 俺の同級生にもお前のような奴がいたが、ろくなもんになってないんだっ! これからやる野球の練習に参加しろっ! 絶対にだっ!」
坂上先生の剣幕にとうとう1年生の女の子が怯えて泣き出した。
「見ろっ! 佐貫っ! お前のせいで小さい女の子が泣き出したじゃないかっ! お前のせいだぞっ! おいっ、その辺にいる他の奴らも全員グラウンドに来るんだっ! これから天気のいい日に図書館にいるような奴は、これからこの俺が絶対に許さないからなっ!」
他の児童たちは顔を見合わせた。ある者は諦めたかのようにグラウンドに向かい、ある者は隙を見て、家に帰って行った。
その日から好天の日の学校の図書館は閑古鳥が鳴くようになった。
◇◇◇
言っておくが、僕は野球自体が嫌いだった訳ではない。
だが、父親譲りで理屈っぽく、強制されて何かやるというのが本当に大嫌いだった。
僕を目の敵にした坂上先生は集中的にノックを浴びせてきた。
僕自身にやる気がないから、当然、上手くさばけない。
「佐貫っ! お前、この俺を馬鹿にしているだろうっ!」
そう言われて、胸倉を掴まれたこともあった。
頻繁に殴られることがなかったのは、さすがに最近の世論も考慮はしていたのだろう。
幸い一番悪い時期はそう長くは続かなかった。
僕にばかりノックしていては、他のやる気がある坂上先生好みの児童のモチベーションも下げるということに気がついたのだ。
やがて、先生は元気でやる気がある児童の指導に力をいれるようになり、僕はこっそりその場を抜けることも出来るようになっていった。
◇◇◇
何とか坂上先生をやり過ごす術を身に着けていった僕だが、さすがに学校の図書館には戻れなかった。
先生は不定期に好天の日の学校の図書館をチェックする作業を止めていなかったし、ここでつかまっては今までの我慢と努力が水の泡だ。
かつての図書館仲間は昼休みのうちに本を借り、家で読むようにしたようだが、僕にはそれが出来ない理由があった。
一つはうちのクラスには実質昼休みというものがなかった。
給食を食べ終えた者は順次、男子はグラウンドに行って野球の、女子は体育館に行ってバスケットの練習をすることになっていた。
坂上先生は野球の方に力を入れて立ち会っていたから、女子の方は割と楽しく過ごしていたようで、内心羨ましかった。
もっとも、悪天候の日は男子も体育館に行って、走り込みとかする。そういう日は女子もさぼれないから、雨が降ると嫌な顔をする女子もいた。
もう一つは、僕は家庭の中でもあまり居場所がなかった。
僕の家は共働きで、父親は大学病院の医師で家にいないことが多く、母親は市役所職員で父親ほどではないけれど、家にあまりいなかった。
だから、家の実権は祖母が握っていた。僕を可愛がってくれた祖父はこの頃はもうこの世になかった。
祖母は父親に似て、理屈っぽく、知識をひけらかす癖のある僕を嫌っていた。そして、甘え上手な妹を溺愛していた。僕は家にも出来るだけ、いたくはなかった。
◇◇◇
その日も元気でやる気のある児童の指導に熱中している坂上先生を尻目に、僕は何人かの者と一緒に、その場を抜け出した。
他の者はみな家へ帰って行ったが、帰りたくない僕は公園のブランコにただ座っていた。
本当に子どもらしくなかった。
そんな僕にどこからか声がかかった。
「ねぇ、そこで何してるの?」