第九十六章 悪夢
助けて……誰か……誰か……。
「誰か……モルガ……モルガぁ……」
一体、何方が地面で、何処が空か、わからない。
そんな中で、暗闇に向かって、がむしゃらに手を伸ばす。
「モルガ……」
『カイ……』
モルガの反応に、カイは思わず顔をあげた。
しかし。
『どうした?』
佇むモルガの姿を見て、硬直する。
「モル……ガ……?」
『ああ、そうだ。カイ』
真っ黒の腕を伸ばし、モルガはカイの首に指を絡める。
邪神と完全同化した影響で、感情をほとんど喪失したはずなのに、彼は鋭い牙がのぞく、大きな口を、歪ませて笑った。
「なん……で……」
『酷い愚問だ。わかってるくせに』
モルガの手に──指に、力がこもる。
長く鋭い爪が首に食い込み、痛くて、息ができない。
『お前はモルガナイト=ヘリオドールの全てを奪った。夢を、家族を、未来を、ルクレツィアを!』
爪が刺さったところから、だらだらと赤い血が流れ、気道が潰れ、首の骨が軋む。
『ねえ。カイ……ワシを、返して? そして……』
一緒に、なろう……?
◆◇◆
「──ぁああぁぁあぁあああああああああッ!」
「──い、カイ! 落ち着け!」
自分の悲鳴と、アックスの重なる声に、カイは覚醒した。
整わない、荒い呼吸から洩れる嗚咽。
「エヘイエー! 助けて! モルガがッ! お願い!」
目の前のアックスにカイは思いっきりしがみつき、巻き込みながらそのままバランスを崩して、寝台からひっくりかえるように落ちた。
「ったたた……カイ、どした?」
兄ちゃんとなら、昨日、普通に話したけど──と、ぶつけた後頭部を自分で撫でつつ、アックスは起き上がる。
「モルガが返してって。やっぱり、ワシが……ワシが……」
「返してって……何を……」
涙で顔をぐしゃぐしゃにした、恐慌状態のカイを支えつつ──しかし、すぐにアックスはあることに気がついて、思わず噴き出した。
「カイ……お前、そりゃ、夢じゃ」
「夢……?」
おう。と、アックスはカイを落ち着かせるよう、背中を撫でながら、優しく、静かに語りかける。
「人間はの、眠っている時に、たまーに、『夢』っちゅーモンを見る。あ、『将来の夢』とかの『夢』とはまた、別モンじゃ」
それは、過去の出来事じゃったり、架空の出来事じゃったり──。
アックスの声を聞きながら、カイは徐々に、落ち着きを取り戻した。
人が眠っているときに見る夢の存在は、カイも一応、知識としては知っている。
以前、不安定なモルガの夢が、外に干渉してしまうこともあった。
ただ、カイ自身が、主観的に、その『夢』を見たのは、初めてだった。
「内容は様々。良い夢もあれば、悪い夢の場合もある。夢じゃと気づけたら、好き放題出来るとか、そういう話も聞いたこたぁあるけれど、まぁ、どんな内容になるかは、基本は選べんのぉ……」
カイは涙をボロボロとこぼしながら、しゃくりあげ──アックスの胸に、顔を埋めた。
「ほら。証拠に、今すぐ、ちょっと訊いてみ? 兄ちゃん本人に」
「ん……うん……」
紫色の目を、静かに瞑る。
すると、間もなくカイは、びくりッと、大きく肩を震わせた。
「どした?」
「……怒られた」
じゃろ? と、実に大したことないように、軽い調子でアックスは笑う。
カイは呆然と目をしばたたかせていたが、意を決したように、再度、目を瞑る。
「……うん、うん……うん……」
しばらく、こくこくと、彼はうなずく。
そんな彼の背を、アックスは撫で続けた。
しばらくして。
「……ごめん、なさい」
「和解、できたかの?」
アックスの言葉に、カイは頭を縦に振る。
「あの時、創造主を止めるため……ルツィとワシを守るために、モルガ自身が強く望んで、邪神と同化したって。それで……そのタイミングで、ワシを、元のモルガに近い状態で、わざと残したって」
先日、兄がアックスに見せてくれた、魂を可視化した映像。
複雑に絡み合った神々の個の中、一つだけ独立した、カイの魂──。
「ワシは、モルガの描く……モルガナイト=ヘリオドールの、理想の姿なんじゃと……」
そう、言っとった。
言葉とは裏腹に、どこか落ち込んだように、カイの声が、どんどん小さくなる。
「……どしたん?」
「モルガの気持ちは、よう、わかった」
最初は自分も、彼の代わりに、出来得る限り、人間として存在しようと決めた。
じゃけども。
自分はもう、気づいてしまった。
たとえ、記憶を持っていたとしても。
どんなにうまく真似ても。
自分は彼には、決して、なれない。
故に、自分が体験する全ての出来事に対して、罪悪感と自己嫌悪が生じ──それを糧に、邪神が出てきてしまうほど、勝手に自滅して、追い詰められて。
再度カイは、アックスの胸に顔を埋めた。
「……うん、よう、わかった。けれども、やっぱりワシは、どうしても、モルガの人生を奪ってしまったことを、申し訳ないと思うんじゃ……」
「それは……」
一瞬アックスは、かけるべき言葉を探した。
エヘイエーの場合は、一方的な都合による力の継承ではあったものの、エヘイエーが消滅することにより、特に不都合が出ることなく、今に至る。
しかし……。
「……言葉はアレじゃが、そこはまぁ、おいおい、慣れていくか、お互いに折り合いをつけるしか、ないじゃろうのぉ」
「いい加減話が長いぞ」
びくりッ……と、思わず二人は硬直した。
いつの間に室内に入ってきたのか、スフェーンとカイヤの姿がある。
「兄貴悪趣味……ってぇッ!」
スフェーンは、くだんの杖を棍のように振り下ろし、アックスの頭に直撃させた。
痛みに悶えてアックスがうずくまったため、カイは正面から障害物無しで、スフェーンとカイヤに向かい合う。
「あ、そ、その……」
何を、話せばいいのかわからない。
自分は、彼らの大切な弟の肉体を乗っ取って、なり替わって、奪ってしまった、大罪人。
後ずさり、おろおろと狼狽えるカイに、思わず、カイヤが噴き出した。
隣のスフェーンの表情も、モルガの記憶を参照するにあたり、比較的、柔らかいような気が、しなくもない。
「君が、モルガじゃないって事は、ちゃあんと、話に聞いてるわ」
「まったく……妙に生真面目なところは、評価に値する」
どういうことか、理解が追い付いていない神に、ポンっとカイヤが手を打った。
「あ、もしかして、気づいてない? 鏡見る?」
カイヤの胸元のポケットから、そっと差し出された小さな鏡に映る、涙で滲んだカイの瞳の色は、確かに、深い紫色。
「貴方の事について、もちろん驚いたというか、ちょっと、思うところがないわけではないけれど」
けれども。と、カイヤはにっこりと笑う。
少し気の強い──けれども、兄弟の母代わりを務めてきた、あの、包容力のある、明るい笑顔で。
「私たちは、弟の意思を……選んだ道を、尊重したいともいます。……神様の存在、含めてね」
「もちろん、お前もな。アックス」
「とか言いながら、ボコスカ殴らんといて!」
再度杖を振り下ろしてきたスフェーンの杖を、アックスが白羽取りの容量で掴み、実に嫌そうに叫んだ。
思わずつられて、カイも、ふきだして笑う。
「……ぁ」
「どした?」
カイがつぶやき、すぐにアックスが問いかける。
しかし、何でもない。と、カイは首を横に振った。
──が。
「……」
カイは、静かに目を瞑る。
『……いいんだ。これで』
頭の奥で、まるで、自分に言い聞かせてるような、モルガの声が聞こえた。




