第八十五章 予兆
「陛下!」
「大丈夫です……」
かぃ……? と、声をかけた瞬間、蛇のような鋭い視線のユーディンに睨まれたギードは、蛙の如く、思わず硬直。
いまだ慣れていないのか、隣のデカルトが、きょとんとした顔で、言葉を失った。
「えっとぉ……」
「大丈夫だ。そんな事よりも現在の報告を」
不機嫌そうに──それでも冷静に淡々と答え、足早に会議室の上座に座るユーディンに、二人は姿勢を正した。
「城内に関しては、完全に制圧完了してます。しかしながら、宰相殿の姿は無く、所在は相変わらず不明ッス」
「相手側の戦意は完全に喪失状態であり、多数の離反、こちらへの投降者が出ています。それと……」
言葉を濁すデカルトに、「なんだ?」と、ユーディンは訝しむ。
「その……ユミル様の助命を嘆願され、ヘイム様が、自害されたと……」
「義母上が──」
さすがのユーディンも、この件に関しては驚きを隠せなかったようだが、それでも、彼は「そうか」と、短く答えるだけに留めた。
「三等騎士・ガレフィス。大儀である」
ユーディンは立ち上がると、チョイチョイと、デカルトに手招きをする。
恐る恐る近寄るデカルトの耳元に、ユーディンは小声で囁いた。
「中央塔の医務室に、モリオンがいる。貴様は今すぐそこに行き、彼女の側で待機せよ」
「……は?」
思わず、デカルトの目が点になる。
「えっと……その、それは……」
公私、混同では……? 赤面して狼狽えるデカルトに、キッとユーディンが睨んだ。
「本音を言うなら大変不本意かつ、ものすごく気に入らないが、今モリオンの隣にいるべき人間は、貴様以外相応しくないから、そう言っているんだッ!」
いいから、とっとと行けッ! と、仕込杖に手をかけて、今にも抜刀しそうな皇帝を慌ててギードが羽交い絞めにする。
負傷していた先日とは打って変わり、勢いよく振り回され、今にもデカルトごと、まとめて切り捨てられそうな力と剣幕に、「早く行けッ!」と、ギードも叫んだ。
まったく、こんなのと、ずっと一緒に成長して来たというあの隊長は、一体どうやって、この暴れ馬を御して来たのか……と思ったところで、ある事に思い当たり、ギードは真顔になる。
そもそも、よくよく考えてみれば、チェーザレもチェーザレで、大概な性格をしていた。
(要するに、変人同士で、ウマが合ってたってコトか?)
さすがのギードも口にすると即死案件だと理解し、この場では黙ったが、チェーザレのいない今後、一体誰がこの暴君を止めることができるのか──不安を抱え、内心ため息を吐いた。
◆◇◆
コツコツ……と、心臓の外から、何かが当たる音がする。
ルクレツィアは、ゆっくりと顔をあげた。
心臓の壁に隔てられた向こう側に、銀色の三対の巨大な翼と長い髪をなびかせたカイがいる。
外側からは中の様子は見えないだろうが、ルクレツィアはぎょっと慌てた。
『如何、いたしましょう?』
ミカの問いに、ルクレツィアは袖でごしごしと目を拭い、そして、うなずいた。
「……どうじゃ? 気分は」
「………………」
心臓の扉を開き、ルクレツィアはカイを迎え入れた。
無言で、涙は拭っても、ルクレツィアの泣き腫らした目は、カイにすべてを物語る。
「……すまんかった」
「………………」
ルクレツィアは無言で、カイにうなずく。
決して彼が、悪いわけではないのだ。
その点については、ルクレツィアもわかっている。
けれど、口を開けばきっと、恨み言が止まらず、カイを傷つけてしまうだろう。
それ故の、無言。
カイも察したか、それ以上、何も言わなかった。
ただ、そっと、ルクレツィアを抱きしめる。
「……うぅ、うぅぅ」
静かに嗚咽を漏らし始めるルクレツィアの背を、カイはそっと撫でた。
そして、彼女に気付かれないよう、微かに唇を噛む。
(これは……本来きっと、モルガの役目だったのに……)
先ほど、自分に対して、モルガが同じように、そっと撫でてくれたことを思い出す。
彼女に対してのこの感情が、果たしてモルガから預かったものなのか、それとも、自分の中に生まれたものか。もう、自分には判断がつかないけれど。
(のう? モルガ……これで、本当に、ええんかいのぉ?)
深く眠ってしまったのだろうか──反応のないモルガに、ルクレツィアが落ち着くまで、カイは静かに、語りかけた。
◆◇◆
デカルトがたどり着いたとき、医務室は騒然としていた。
「いやああああああああああああッ!」
女性の絶叫が響く。
その声の主の顔を見た途端、デカルトは思わず、声の主に駆け寄った。
「モリオンッ!」
泣き叫ぶモリオンの肩を、デカルトは力強く抱きしめる。
しかし、まるでなにかから逃れるように、じたばたと、恐慌状態のモリオンはデカルトの腕の中で暴れた。
「落ち着いてモリオン。オレだよ。わかるかい?」
「……で、かる、と?」
耳元で囁く、愛おしい人の声に気がついたのか、たどたどしく、モリオンは婚約者の名を呼ぶ。
「そう、オレだよ」
優しく応えながら、デカルトは少し力を緩め、そして、優しく、彼女を抱きしめなおした。
「こわ、かったの……よく、わからない、けど、こわかった……」
しゃくりあげながら泣くモリオンに、ふと、デカルトは少し、違和感を感じる。
やや、頑固で意思の固いところはあったものの、彼女はこんなに、子どものように感情を爆発させ、それを正直に、吐き出すことができる人だっただろうか……?
「ねえ、でかると。おしえて。ここは、どこなの? どうして、ここは、こんなに、まっくら、なの?」
「まっくら……?」
確かに、光の精霊機が堕ちて以降、太陽が欠けて消え、外は真っ暗ではある。
けれど、室内は煌々とした明かりに照らされ、少なくとも、生活に影響はない。
「モリオン、もしかして……」
デカルトの声が、震える。
モリオンの目に、デカルトは指を近づけた。
もし、正常であるならば危険を感じ、目を瞑るであろう状況なのだが、しかし、モリオンはまばたき一つ返さず、それどころか、デカルトの行動に、まったくもって、気づいていない様子だった。
「目が、見えていない……」
「え……?」
てっきり、真っ暗な部屋に押し込められていたと思っていたモリオンだったが、デカルトの言葉で初めて、おかしいのは自分であるという事を、理解した。




