第八十四章 慈愛
「………………」
『……えっと……その……』
三度目の正直――というわけではないのだが、落ち込んだ様子で地下神殿へ再再度、一人戻り、ぼんやりとハデスヘルの心臓で座り込むルクレツィアに、どう声をかけていいか、ミカは悩んだ。
彼女が現在、どういった状態か、彼女本人から説明されたわけではないが、ミカは判断できる。
以前の彼女の、精霊機の操者としての適正値はB。
しかし、現在は、判定不能。
本来なら、エロヒムも、ミカも、ルクレツィアとの接触を、拒絶するレベルだ。
「ミカ……」
しかし、エロヒムはともかく、今にも泣き出しそうな彼女を、ミカは放っておくことができなかった。
ルクレツィアの隣に、ミカはそっと座る。
彼女に触れれないことが、実にもどかしいと、微かに唇を噛んだ。
見た目も、性格も、まったく似ていない。
けれど。「まっすぐ」で、「真面目」で――。
『我慢強いところ……貴女は、私の、妹に似ていますわ』
生まれつき、目の見えなかった妹。
愛する人に、一途だった妹。
それでいて、与えられた職務に、忠実だった妹――。
『あの子も、人前では泣けなかった。……辛い時も、悲しい時も』
人柱にされた時も。
きっとルクレツィアは、こういう事をしている場合ではない。と、頭では冷静に判断でき、現実を受け止めているのだ。
しかし、思考回路がこんがらがり、心の整理が追い付かず、次の行動に、移せないでいる。
『此処には、私しかいません。邪魔する者は、エロヒム様が、追い払ってくださいます。だから、どうか』
ミカの言葉が終わるより先に、ルクレツィアが膝を抱え、そこに顔を押し付け、声を殺すように泣いた。
触れれないままではあるが、そんな彼女の背を、聖母のような慈愛を込めた表情で、ミカはそっと撫で続けた。
◆◇◆
「おった! 師匠ッ!」
「……ッ!」
城内の制圧が完了してもなお、簡易ドックの部屋の中で、相変わらず、待機という名の自発的軟禁状態のソルは、突然前触れもなく、何もないところから飛び出してきたカイに驚き、声も出せずに、思わず椅子から転げ落ちた。
「その声、モルガ……いや、神の方か」
「おう……そういや、面と向かってこの姿は、師匠は初めてかのぉ」
金の鱗に包まれた全身の肌、大きな三対の銀色の翼に、長く量の多い、銀糸のような髪。
そして、深い紫の目を細めて、カイはニヤリと笑った。
精霊の加護を持たずに生まれ、その件に絡み、あまり良い環境で成長してこなかったソルにとって、「神」など信ずるに値するモノではなく――また、モルガを取り込み、何食わぬ顔で、さも当たり前のように、彼に擬態している行為。
これまでもソルは、幾度もなくカイを忌々しく感じていたが、本来の神の姿を前にして、露骨に、嫌そうな顔を向けた。
「すまんの。急ぎの用じゃ。モルガが、師匠に会いたいと言っている」
「モルガが? 今か?」
眉間にしわを寄せるソルに、カイはうなずく。
「モルガ。交代じゃ。さっきも言った通り、自分の言葉で、師匠に伝えぇ」
カイが、静かに、その紫の目を瞑る。
とたん、ソルの背中に、ぞくりと、冷たいモノが走った。
三対の翼のうち、上部の二対がはぜた。
バラバラと銀の羽が舞う中、現れたのは、元々ある腕とは別の、硬質な二対の腕。
左胸だけが女性のように何故か膨らみ、四肢は、人間のカタチと呼ぶには少しいびつで、どちらかというと、ほんの僅かではあるが、獣に近い。
そんな体を包む金の鱗は、さらに硬質で、色鮮やかな宝石となる。
頭からは、鱗と同じ質感の鋭い角が、まるで王冠のように生えて――地の神の時には無かった、長い虹色の尾が、ゆらゆらと揺れた。
「モルガ……なのか?」
『師匠……』
モルガが、ゆっくりと、目を開いた。
大粒のルビーのような真紅の瞳が、ソルを捕らえて、離さない。
『あなたに、お願いしたいことがある』
モルガの声が響くたび、ソルの背筋に、ぞわり、ぞわりと、悪寒が走る。
畏怖、憎悪、憤怒、同情、悲哀――ソルの中の、そういった感情が、何故かしら、かき回されるような感じがした。
額に脂汗が浮かぶソルの様子に、モルガは目を、かすかに細めた。
『あなたに、作ってほしいモノがある。自分の代わりに。未来のために』
「……未来?」
強張るソルの手を、モルガの冷たい、三本ある右手の一つが握る。
『そう……そうだな……これは、邪神の、願い。故に、サフィニアの願いで黄泉還らせた、あなたへの対価としよう』
ソルの頭の中に、イメージが流れ込む。モルガが加減をしているのか、以前のように、気分が悪くなることは無かったが、その内容に、ソルの赤い瞳が、見開かれた。
「これ……は……これは……」
言葉に、ならない。
そう、これは。まるで――。
「お前の存在の、完全否定じゃないか……」
『………………』
モルガの相変わらず無言で、表情は薄い。しかし、うっすらではあるが、口角がほんの少しだけ、上がった気がした。
「そ……そりゃ、本当にそんなものが実在するならば、オレにとっては願ったり叶ったりだが……」
『モルガの願いは、精霊の影響を受けない、|ヴァイオレント・ドール《VD》を作る事』
精霊の加護をもたない人間も、過剰に持ちうる人間も――搭乗する人間を選ばない、夢の機体……。
そして、いずれやってくるであろう、最後の審判の際、神の影響を受けない、人間側の切り札ともなり得る。
しかし。
『やはり、邪神は、あまり直接、ヒトの前に出ては、いけないようだ』
握るソルの手から伝わる、彼の震え。
一言、モルガが言の葉を紡ぐだけで、人間の精神を、無意味にかき乱してしまう……。
『故に、この願い。あとは、あなたと、カイに託す』
「……ッ!」
ざらり――と、ソルの手を握る金属の腕が、きめ細かい砂粒となって崩れた。
『師匠……不詳の弟子で、すみません……破門、受け入れます……』
「モルガッ!」
ほんの一瞬、邪神の表情が微かではあるが柔らかくなり、元のモルガの口調に、戻った気がした。
しかし、それはかつて、ソルの元にやってきた、モルガの『夢の欠片』のように。
モルガの巨大な体は、全て崩れて砂の山となり、そして、綺麗に消えて、無くなった。
「バ……ッカ……野郎……いつの話だ……それは……」
ソルは作業台に向かうと、巨大な紙を、何枚も広げ始めた。
客観的に捉えるならば、たしかにこの事象は、世に混乱をもたらす、邪神の甘言とされるモノなのかもしれない。
けれど。
「破門は撤回! お前が嫌がろうが、否定しようが、お前は一生、オレの弟子だ! モルガッ!」
沸々と沸きあがる怒りの感情を、ソルは真っ白な紙にぶつけた。




