第六十一章 欲求
体をガクガクと強く揺すられ、ルクレツィアは目を覚ます。
ぼんやりとした頭で、相手が誰であるか、認識──。
「へ、陛下ッ!」
思わず飛び起き、ルクレツィアは平伏した。
「大丈夫? ルクレツィア……」
普段見たことのない距離で──心配そうな顔のユーディンにのぞき込まれ、ふと、ルクレツィアは違和感を覚える。
「陛下、その……」
「え? あ、うん……その、さっきから、意識しないようにしてるから、お願い。なるべく自覚させないで……」
緊急事態故に、無理矢理やせ我慢している女性恐怖症の皇帝は、震えを抑え込むように、自身の両腕を掴んでいた。
「とりあえず、無事でよかった」
ホッとため息をついたユーディンに対し、ルクレツィアは渋い顔を浮かべた。
ユーディンの身に纏う白い衣服の、至る所に血の染みができている。
既にほとんどが乾いたように赤黒くなっており、また、先ほどからの彼の様子や、彼の持ちうる戦闘能力故に、彼の流した血である確率は低いだろうが──ただ、彼が此処にたどり着くまでのどこかで、一戦交えてきたことは、確かだろう。
「陛下、その……」
「サフィニアが裏切ったことは知っている。チェーザレ経由で知らされたこともあるけど、ソルも予見していた。それに、彼女の戦意も、既に喪失した。……たぶん」
だから、安心して。と、ルクレツィアの頭を、ポンポンと、軽く撫でる。
「彼女の裏切りなんて、君を派遣した時点では、誰にも想像できなかった。君の失態では、決してないよ」
ふいに、ユーディンは立ち上がった。
そして、次の言葉に、思わず、ルクレツィアは耳を疑った。
「ミカに、ジンカイト……だっけ? 君たちも、案内ご苦労様。ありがとう」
ユーディンが振り返った先には、ミカとジンカイトが並んで立っており、二人は恭しく、ユーディンに頭を下げた。
明らかに彼は、ミカとジンカイトを認識している。
彼は、精霊の加護すら、持ち合わせていないはずなのに。
「陛下。まさか、モルガかアックスと、キス……」
「え?」
ルクレツィアの言葉に、思わず、目が点になるユーディン。
その後ろで、ジンカイトが「ぶはッ」と、盛大に噴き出した。
『る、ルクレツィア様……』
『嬢ちゃん、なにも、わざわざ自爆せんでも……』
せっかく、そのあたりの説明をわざとぼかしていたのに。と、視線を逸らすミカと、笑いを堪えながら、片手で顔を覆って天を仰ぐジンカイト。
二人の言葉に、ルクレツィアの目も、点になる。
「す、すみません……陛下……その……」
ルクレツィアは顔全体が真っ赤になるほど赤面し、うつむき、そして……。
「お願いです。今の発言、忘れてください……」
そう言うのが、限界だった。
◆◇◆
「あー、ちょっとマズイかも……」
「どうした? クソガキ」
精霊機とは違い、狭いVDの心臓の中、神妙な顔つきのアックスに、忌々しそうにギードが問う。
デカルト率いる遊撃隊への伝令を終え、二人は本隊へ帰還中であった。
「兄ちゃんが、起きた。しかも、またちょっと暴走しそうな……」
「はぁ?」
言われてみれば、地属性であるギードのVDも、出力だけなら、先ほどからやたらと調子が良い……気がする。
もっとも、属性の合わない二人乗り故、揺れが酷くて、言われるまで気がつかなかったが。
「オッサン! 悪い! 先いぬる!」
「オッサン言うなッ! つか、戻るってどうやって……」
既にアックスの姿は、心臓の中から、忽然と消えていた。
「戻れるなら先戻れよッ!」
時間を無駄にした──忌々しそうにギードが頭をガシガシとかく。
しかし──。
「うそ……だろぉ……」
風属性の邪魔が無くなったことで、徐々に調子を取り戻していくギードのエラト。
先ほど彼が言った通り、地の邪神の暴走に呼応し、いつも以上に活性化された精霊は、エラトに様々な恩恵を授けた。
そして──。
「距離は、まだある……気づかれた様子もない……が……」
規模から考えて間違いなく、あれは、先日の、あの部隊!
「オレ一人の時に、よりによって、なんだってこんなッ!」
たった一人で──精霊機無しで大立ち回りをする自信も度胸も、あるわけが無い。
絶好調のエラトの推進力を上げ、焦るギードは空を駆けた。
◆◇◆
「兄ちゃんッ!」
フラフラと、頼りない足取りで歩くモルガを見つけ、アックスは駆け寄る。
かろうじてヒトのカタチを保ってはいるが、体中には無数の黒い鱗が浮かび、手足の爪は鋭く伸びて、長く波打つ髪の毛は、漆黒に染まっていた。
しかし、対照的に、当のモルガは実に機嫌がよさそうで、か細く途切れ途切れではあるが、歌が口から洩れる。
「兄ちゃん……?」
「……AHIH?」
虚ろな赤い瞳が、アックスを捉える。しかし、彼の口から出た名は、アックスのモノではなく……。
「……ッ!」
縋りついたアックスを、モルガは躊躇うことなく突き飛ばした。
モルガの爪があたり、アックスの頬に、うっすらと血が滲む。
「|Non est beatus《足らない》……|Non impletur《満たされない》……」
くんッと、モルガが鼻をひくつかせた。
しりもちをついたアックスの顔に、邪神は顔を寄せる。
「Timor……Sad……bonum……optimum……」
長い舌が、蛇のようにチロチロと揺れる。
赤い目を細めて、モルガは、切れたアックスの頬の傷を舐めた。
「……兄ちゃん」
ぎゅっと、アックスはモルガを抱きしめた。
「ねぇ、兄ちゃん。いつから、食事、とってない?」
神の憑代となった自分たちに、人間でいう「食事」は、必要無い。
──否。正しくは『人々の信仰を糧としたうえで、食事をとらなくても、生きていける』。
しかし、それは結果として──奇跡を起こせば起こすほど、生きる上で必要なモノを拒絶すればするほど、元のヒトとは、かけ離れた存在になってゆく。
──完全に、ヒトでは、なくなってしまう……。
ふいに、モルガが顔をあげた。
眉間にしわを寄せ、アックスに向かって、嫌そうに顔をしかめている。
「兄ちゃん?」
「|Tantus affectus《その感情》……|unnecessary《欲しくない》……non opus……」
しかし、すぐにモルガはハッと顔をあげて、急にある方向に向かって、駆け出した。
慌ててアックスも、モルガの背を追いかける。
「兄ちゃん! どこ行くんじゃ!」
先ほどまでの、たどたどしい足取りはどこへやら。
スキップはさすがに踏んではいないが、実にかろやかな足取りで、階段を駆け下り、廊下を走り、そして──。
「|Sacrificium!」
立ち止まったモルガの背中の向こうを、アックスはぎょっと目を見開いて見つめる。
簡易ドックのVD搬入口からのぞく空に、無数の機影が、小さな点のように広がっていた。




