第二十三章 信仰という名の蜜
どうしようもないほどの悲嘆と、憤怒と、焦燥感。
今まで感じたことのない、餓えと渇き。
否。
気づいていなかっただけなのだ……。
少しずつ、少しずつ……気の遠くなる年月をかけて、その身を、じわじわと蝕まれていたのに。
◆◇◆
『すまない。協力者よ』
ルクレツィアがハデスヘルの心臓に足を踏み入れると、自分と同じ声が響いた。
「こちらこそ、神に人の見苦しい所を見せることになってしまい、申し訳ない」
さっそくで悪いが、エロヒム。ヘルメガータはどこに居る? と、起動させながらルクレツィアはエロヒムに問う。
『フェリンランシャオ国内には、姿が無い』
これまで、密かに探してくれていたのであろう。大量のデータを、ルクレツィアの前に表示した。
『しかし、国外……旧トレドット帝国領に、著しく精霊のバランスの崩れた地域がある』
おそらく、そこに居るのではないかと思われる。
──エロヒムの情報と世界地図を合わせ、ルクレツィアは腕を組んだ。
「随分、遠いな」
トレドットは、大陸南部にかつて存在していた、東西に長い帝国である。
マルーンのようにフェリンランシャオに直接接している場所もあれば、遠く離れた場所もあり……。
「アレイオラの、目と鼻の先ではないか……」
『と、いうよりも、だ』
表示している情報に、エロヒムはさらに古い地図を重ねた。
「これは……」
『御覧の通り、だ。旧イシャンバル帝国の帝都がこの位置にあたる』
イシャンバル──地の精霊機『ヘルメガータ』を奉じていた──最初にこの世界から消えた帝国。
エロヒムが示す地域。そこは、ちょうどフェリンランシャオの帝都から、旧リーゼガリアス帝国を迂回し、トレドット帝国領を通ると、イシャンバルの帝都があった場所にたどり着く最短ルートであった。
「しかし……とてつもなく早くないか……? とても今から精霊機やVDで追いかけて何とかなる距離では……」
『精霊機を舐めてもらったら困る。というか、シャダイ・エル・カイは、どうやって一日経たず、そこに行けたと思う……?』
エロヒムの言葉に、ルクレツィアは飛びついた。
「できるのか?」
『もちろん、精霊機だけ。だがな』
◆◇◆
「と、いうわけで、迷子のモルガを連れて帰ってくる任務なんだけど……」
渋い顔を浮かべ、ユーディンがため息を吐く。モリオンから、再度義手を借り受け、調整しながらルクレツィアは兄の隣に並ぶ。
「っていうか、チェーザレ! ボク、モルガとヘルメガータの神様とルクレツィアの適正値上昇の報告、聴いてないんだけど、どういうことだよ!」
「報告聴いて、一度で理解できましたか? 陛下?」
解るわけないじゃん! と、チェーザレにユーディンがやけっぱちで返した。
「とにもかくにも、ただでさえ防戦一方なんだし、兵力低下と国内の混乱は避けたいところ。なのに、今回はVDは出せないときた……。そんなわけで、リイヤ・プラーナ! ゴメン! 今回も君、留守番お願い!」
「ハイハイ。私も、そんな気がしてました!」
ステラは笑いながらあっけらかんと答えた。
彼女の様子に、ホッとユーディンは胸をなでおろす。
「えっと、三人で総司令もなにもないかもしれないけど、一応。総司令官は……|リイヤ・オブシディアン《ルクレツィア》。君が頼りだから、頑張って」
二人とも、彼女を助けてあげてね。チェーザレとサフィニアは、主に対し、深くうなずいた。
◆◇◆
エロヒムが開いた闇の空間を何度も抜け、三機の精霊機は移動を繰り返す。
エロヒム曰く、元々適正値の高い操者を乗せた場合、全ての精霊機で各々ゲートを作って移動できる能力が備わっているとのことだが、適正値の高い操者の存在が近年まれであり、失われた能力となっていたらしい。
今回はヘルメガータが代表してゲートを作り、デウスヘーラーとデメテリウスにゲート通過の『許可』を与える形で移動することができた。
なお、VDが使えないのは、ゲート内の『許可』信号を受け取ることができないので、ゲートに侵入した途端、木っ端微塵になってしまう……とのこと。
「あらあらまぁまぁ……本当に、これは素敵な体験ですわ!」
サフィニアが、いたく感激していたということはさておき。
「見つけたッ!」
ゲートを抜ると、そこは戦場だった。……いや、冗談ではなく。
ゴツゴツとした岩場の広がる平原。そこに、無数のアレイオラのVDが、ヘルメガータを取り囲んでいた。
よくよく見ると、ヘルメガータの足元に、白い機体が穴だらけで転がっている。
「あれは……」
「まさか、アレスフィード!」
絶句する兄と、悲鳴のようなサフィニアの声。
「モルガ! カイッ!」
通信を無理矢理開き、ルクレツィアは絶句した。
チェーザレとサフィニアも、息を飲む。
六対の銀色の翼、肌を覆う金の鱗。そして銀色の長い髪。
その全てが、どす黒い色に変色していた。
「ア……ア……アァァア……」
呻くように開けた口から、鋭い牙がのぞく。
長く伸びた、手足の鋭い爪、頭から生えた、曲がった二本の角……かろうじてモルガの面影はあるのだが、まさしくそれは、『化物』といった様相で。
紫色の瞳だけが、異様に爛々と輝いていた。
地面が崩れ、足場が悪くなったところに『眼球』が一気にアレイオラのVDを撃ち抜く。
それを、六枚の漆黒の翼を震わせながら、モルガが、うっとりと恍惚の表情で見つめていた。
モルガはVDをいたぶる事に夢中で、ルクレツィアたちに気づいていない。
『酷い……』
『あれは、反転……一体、何が、あったというのだ……』
ミカが顔を覆い、エロヒムでさえ、言葉を失う。
『協力者よ。奴に一体、何が起こった』
「何って……神事の最中に神殿で倒れて、それから……何者かに、襲撃されたらしいと……」
ルクレツィアの言葉に、ミカが、顏を伏せたままうなずく。エロヒムは思案していたようであるが、ふと、ポツリと呟いた。
『そうか……枯渇による飢餓か』
「枯渇? 飢餓?」
ルクレツィアの言葉に、ミカが説明した。
『あなた方の言葉に当てはめるなら、精霊機に宿る魂は、諸々の精霊の王であると同時に、神の使徒。即ち、『人々からの信仰』が、力の源なのです』
『数のバランスを崩しても精霊自体がなくなることは無いので、我らの存在自体が消えることは無い。しかし、イシャンバルを失って千年余り……奴め、肉体を得たことで、初めて自身の信仰の喪失を自覚したのか……』
もう、とうの昔に、この世界にはいないのだ……イシャンバルの、我が民は……。
確かに、そう、カイは泣いていた。
民を守れなかった、無能な神だと……。
「しかし、どうして……」
『襲撃者たちだ! 自身に向けられた襲撃者たちが抱く敵意と恐怖もまた、信仰足り得る! ただし、邪神として!』
そこに、餓えたシャダイ・エル・カイは気がついてしまった。
空腹の中、たまたま口にしたその甘い味が、何を意味するかも、どんな結果をもたらすかも理解しないまま……。
「止められないのかッ!」
『無論、止める! 創造主の再臨を前に、同胞が堕ちるなど、許してなるものかッ!』
◆◇◆
「兄上。ラング・ビリジャン。状況と作戦は、先ほど説明した通り」
兄とサフィニアが、無言でうなずく。
「水の要素が成り行き任せ……という点が、少し気になりますが……いいでしょう」
サフィニアは祈る。自身には、視ることができない相棒に。
「お願い。力を貸して。『ヨシュア』」
メタリア皇家に代々伝わる、デメテリウスの『精霊』の名。
白き髪の武骨な戦士は、彼女の細い手を支えるように重ねた。
「では、いきます!」
ルクレツィアの声に合わせ、ミカが歌う。
その美しい声は、反して妨害電波となり、ヘルメガータの『眼球』を地に落した。
「兄上! お願いします!」
「まったく、お前の指揮でオレが動くことになる日が来ようとは……」
ブツブツ言いながら、デウスヘーラーが飛び上がった。
「ラジェ・ヘリオドール! 後で、覚悟しろ!」
ルクレツィアは思わず内心、モルガに同情をした。
チェーザレは雲を払い、光を呼ぶ。まるで真夏のフェリンランシャオの太陽のような、明るい光が大地に降り注ぐ。
「今です! ラング・ビリジャン!」
「ヨシュアッ!」
サフィニアの祈り──デメテリウスに呼応するかのように、割れた地面から、無数の植物が生えてくる。
最初は、小さな草や芽であったが、次第に、細い枝が生え、そして、大きな大木の森となった。
モニターしていたモルガが、苦しみだし、のたうち回る。
木々の成長に合わせて、地の精霊の力が吸い上げられ、周囲の地属性は、徐々に弱まっていき、モルガは、断末魔のごとき、悲鳴をあげた。
『信仰も無き今、基礎的な生命力たる精霊の数が減れば、おとなしくするしかあるまい……』
しばし、眠るがいい。と、エロヒムは同胞に囁いた。
モニター先のヘルメガータの心臓に、鼎──大きな黒い『繭』が鎮座する。
しかし……。
『明日は、我が身よな……』
かろうじて|トレドットの民が生きている状況の《今でも信仰の対象である》ハデスヘルの魂は、小さく、ため息を吐いた。




