第十四章 エロヒムの智謀
むわり……とした、心臓内を包む濃く甘い香りに加え、口をふさがれたせいで、ルクレツィアはくらくらと眩暈を感じた。
意識が途切れかけたものの、ルクレツィアは全力で彼を突き飛ばし、ゲホゲホとむせこむ。
「……なるほど、貴様か。我らが完全に同化しきる前に、鼎を解いたのは」
おかげで、不十分な降臨となった……。実に忌々しげに、其れは、モルガの顔で、ルクレツィアに敵意を向けた。
「貴様の記憶を読む限り、その状況──ミカだけでは、権限が足らない……エロヒムの仕業か」
舌打ちをすると同時に、苛立たしさを隠す様子もなく、其れは、六枚の翼を打った。
心臓内に巻き起こる暴風に吹き飛ばされ、ルクレツィアはしこたま背中を打ちつける。
「エロヒム! 貴様の九天と我の九天の座標を重ねているのはわかっている! なんのつもりだ!」
突然、心臓が揺れた。繭の残骸が薄れて消え、元の何もない、普段の心臓の姿に戻る。
否。
『控えよ! シャダイ・エル・カイ!』
低く落ち着いた……けれど、凛とした女性の声が響いた。
床にこするほど長い赤い髪に、古い絵物語に出てくるような、シンプルな作りではあるが、艶やかな衣装……。
『ここは、我ら『闇』の領域である!』
女性の声に合わせ、闇が濃く、心臓内に満ちる。
「よくもまぁ、ぬけぬけと……」
闇にまとわりつかれ、『地』属性の其れは、だんだん呼吸が荒くなり、苦しそうに膝をついた。
女性を睨み……しかし、口元は嘲笑うかのごとき笑みを浮かべ、六枚の翼をびりびりと震わせる。
「最初から、|我をここに連れてくるつもり《・・・・・・・・・・・・・》で、コイツを送り込んできたのだろう?」
『否定はせぬ……が、先に度を越した行為をしたのは貴様だ』
ルクレツィアは、目を見開く。
姿はない。が、突然、『自分の声』をした何者かの声が、心臓に響いた。
『貴様の行為、それは、創造主への明確な反逆である』
フンッ……と、鼻をならして、シャダイ・エル・カイと呼ばれた其れが、ルクレツィアと同じ『声』に反論する。
「操者は、精霊機に奉げられた『贄』だ。なぁ。エロヒムよ。……その生贄を、我がどう扱おうと、構うまいて」
それに、我らの創造主が『再臨』される前に、『人間』というものの『価値』を、我らで見極めるのもまた一興……。
シャダイ・エル・カイが、クスクスと笑うが、ハデスヘルの『闇』に侵食され、身体を支える力すら出せないのか、すぐにぜーぜーと苦しそうに床に伏せた。
『我が貴様の興に乗るつもりはない。シャダイ・エル・カイ。今すぐ操者から離れ、己の領域へ帰れ』
「それは無理な相談だな。エロヒムよ。……贄との契約も完了した。既に『我』は『シャダイ・エル・カイ』であり、『モルガナイト=ヘリオドール』也。不十分な同化であり、自我が別れたままではあるが、それは変わらぬ……」
ならば……と、赤い髪の女性が口をはさんだ。
『ならば、せめて操者の意識を表に出すべきです』
「ミカ……貴様が我に偉そうな口を利くな」
怒りの混じるシャダイ・エル・カイの口調に、ミカ、と呼ばれた女性は口ごもる。
『ならば、我、エロヒムが頼もう。……そうだな。『操者の身に危険が及ぶ場合』、『操者が望んだ場合』をのぞいて、貴様は眠りにつくがよい』
「見返りは?」
しばし、エロヒムが思案した。
『では、『創造主の再臨』の際、我は貴様の配下となろう』
『エロヒム様!』
ミカの悲鳴に近い声を、『よい』と、エロヒムが遮る。
「よかろう……まったく、全て『貴様』の掌の上というところが本当に気に入らないが……こちらも限界だ……」
バラバラと、シャダイ・エル・カイの白銀の羽と黄金の鱗が床に散らばった。
翼の形が徐々に崩れ、鱗の下から血色の良い人間の──肌の色が現れる。
「約束はしたぞ。エロヒム。まったく。貴様の贄というところがやはり気に入らないが、そこなる人間が、証人だ」
徐々に長い銀の髪が、元の暗い茶色に染まった。三対六枚の翼が無くなり、行き場を失った大量の白銀の羽が、裸体の背中に、どざりとかぶさる。
おそるおそるルクレツィアが近づくと、シャダイ・エル・カイ──いや、モルガが、スースーと寝息をたてていた。
◆◇◆
「兄う……じゃない、ラング・オブシディアン!」
「ルクレツィアか……今どういう状況か、わかっての台詞か」
あとにしろ……と、そっけない兄に、淡々とルクレツィアは用件を伝える。
「ラジェ・ヘリオドールの回収に成功いたしました」
「……は?」
今、なんつった……絶句し振り返った兄は、珍しく動揺したような表情を浮かべている。
「ですから、その、ラジェ・ヘリオドールの回収に成功いたしました。今、ハデスの中で眠っておりま……」
「ソルッ! ソルはどこいった! ちょっと来いッ!」
ルクレツィアの言葉を最後まで聞かず、兄はこれまた彼らしからぬ様相で、どたばたと駆けていった。
そんな兄の背を見送り、ルクレツィアは隣をチラリと見上げる。
ルクレツィアの隣で、迷わないよう、兄の元までルクレツィアを案内して来たミカが、クスクスと笑っていた。
◆◇◆
場面は、少し巻き戻る。
『ごめんなさい』
ミカが申し訳なさそうに、ルクレツィアに頭を下げた。
『私が、あの子……ルツに、その方の事を、話してしまったから……』
あの時──トラファルガー山へ向かった時の敵襲で、幾千年ぶりに自分の姿を見つけ、自分自身が大変な中、気遣ってもらえて、とても、嬉しかった……と、ミカは言う。
『とても、優しそうな方だったから……娘も、喜ぶと思って……』
こんなことになるなんて……と、ミカは表情を曇らせた。
『ミカよ。済んだことを言っても致し方ない』
ルクレツィアと同じ声が、ミカを慰める。
「……ということは、お前が、モルガの言っていた「ハデスさん」?」
ルクレツィアの言葉に、「はい」と、ミカは微笑んだ。
『ミカと申します。……こうして、貴女とお話できるようになって……経緯はとても残念ですけれど、私個人の本心としては、とても嬉しいですわ』
「経緯……そういえば、どうして……」
ルクレツィアには、見えなかったものが、どうして突然視認し、会話もできるようになったのか……。
『シャダイ・エル・カイの鼎の液体を浴びたか、奴の体液を直接体内にとりこんだか……そのあたりが『体質改善』の引き金になったのだろうな』
あ、あの時の『キス』か──ッ!
思い出し、思わずルクレツィアの顔が、瞬時に真っ赤になった。
淡々と説明してくれるエロヒムの声が、自分の声そのままなので、恥ずかしさも、余計に倍増……。
恨みの籠った視線を、ルクレツィアは眠ったままのモルガに突き刺した。
そんなルクレツィアを、まぁまぁ……と、ミカがなだめる。
『改めて。ルクレツィア。我が操者よ。巻き込む羽目になってしまい、本当に申し訳ない』
エロヒムが改まり、ルクレツィアに詫びた。
『我らは本来、とある有事の際以外は、人間の世に、我らの方から干渉してはならぬ掟。にもかかわらず、シャダイ・エル・カイの暴挙は、本当に申し訳なく思う』
そこで、だ。と、エロヒムが提案をした。
『シャダイ・エル・カイは、しきりに『贄』と称していたが……我は『同志』としてそなたに頼みたい。『シャダイ・エル・カイ』とその操者の監視を、我らとともに、しては、もらえないだろうか……?』




