第百八章 ヨッド
『あらかじめ言っておくが、コレは受肉前の、人間で言う魂みたいなものだからな……』
我が身から切り離す際、疑似的に元の操者の姿を参照にしただけだから、外見は気にするな。と、エロヒムが言う。
そんな受肉をしていないエロヒムの声も、以前同様ルクレツィアを模したままなので、本当に些細なことであり、気にする必要はないのかもしれない。
しかし。
体から生える小さな翼を、エーイーリーに力いっぱい握りしめられ、アックスは顔を歪めた。
見ると、エーイーリーは、ギリギリと歯を食いしばりながら、ヨッドの欠片を凝視する。
「嫌い……」
え? と、アックスは目を見開いた。
金の虹彩の真っ黒な目から、ボロボロと金色の雫がこぼれおちる。
「嫌い……ヨッドも、ルクレツィアも、光の神も、その邪神も、大嫌いだ……」
『……でも、本当は愛おしい。心の底では、みんなみんな、愛してる』
震える小さなエーイーリーの手を、それ以上に小さなヨッドが握りしめた。
『やっと会えた。太古の昔に断たれてしまった、わたしの愛しい半身』
「でも、肉体も、人間に与えるべきモノも、|人間から与えられるモノ《信仰》も持たないオレとお前は、どうせ時期に消滅する」
守れない。誰も──何も。
エーイーリーの言葉に、『大丈夫』と、ヨッドは微笑む。
『エーイーリーは光の、ヨッドは闇の精霊機のなかに、ずっと居た。そして、エーイーリーはすべての未来を知り、ヨッドはすべての過去を知る者』
──与えられるモノがちゃんとあるなら、対価にもらえるモノも、きっとある。
そう言うと、片割れを抱きしめるヨッドの姿が、薄れ始めた。
「ヨッド……」
『大丈夫。わたしとあなたは、元通り一緒になるの。一柱の、神に』
静かに、エーイーリーが目を瞑る。
小さな体から、凄まじいちからが、放出する。
「うわッ!」
アックスは全身の目を瞑る。
心臓という、外から遮断された空間にも関わらず、アックスの司るモノとは違う風が、限られた空間内に吹き荒れた。
──かくして。
「……ヨッド?」
それは、かつて羽根目達磨と称された自分からしても、異様な姿であった。
石膏像と見紛う程、血の気の無い、真っ白な肌と長い髪。
自分と同じ、全身に広がる無数の目は、全て白目が無く、深淵よりも濃く深く真っ黒で。
先ほどのエーイーリーと同じような金の細い虹彩と、エーイーリーには無かった金の瞳孔が、キラキラと輝いていた。
「あぁ、我が名はヨッド」
背に広がるのは、先ほどまでの金の虫の翅ではなく、地の神と光の神のような、巨大な三対六枚の翼。
しかし、そのすべてが、白と黒を同じだけ混ぜたような、濃い灰色だった。
頭や腕、足に、細い金の輪飾りが幾重にも巻かれ、動くと独特の軽やかな金属が擦れる音がする。
「過去と未来を司る、二番目の神である」
ヨッドは言うや否や、片腕を縦に素早く動かした。
「は?」
『なん……だと……』
まさかの事に、唖然とするアックスとエロヒム。
理屈はよくわからないが、目の前の空間が、すっぱりと裂けている。
そこにヨッドは、迷うことなく片腕をつっこみ、素早く向こう側から、何かを取り出した。
「……はい?」
取り出されたモノも、一体何が起こったか理解できておらず、そのまま雑に床に叩きつけられ、目を白黒させている。
「え、エロハ?」
「は? え? 何? エヘイエー?」
先ほど二番目の邪神が飛び出した時にできた大きな傷は綺麗に塞がり、綺麗に銀色の鱗に覆われていた。
アックスと別れて以降、デウスヘーラーの繭の中で治療に専念していたらしく、身体には金糸が絡まり、また、首の傷も、目からこぼれ続けた涙も、全て止まっている。
「それだけ治ってれば上等だ。クソ光神」
ベキボキと指を鳴らしながら、ヨッドはじりじりと、事情の呑み込めていないエロハに詰め寄る。
「とっとと! 今すぐ! オレの肉体を返せッ! 出ていけッ!」
チェーザレ=オブシディアンだーッ!
思わず叫びかけ、アックスは自分で自分の口を塞ぐ。
ヨッド改めチェーザレは、ギリギリとエロハを締め上げながら、お互いの顔をじりじりと寄せ、相手の唇に、自分の唇を重ねた。
次の瞬間──。
「ひぃッ!」
チェーザレの姿は目の前から忽然と消える。
すると、すぐにバキボキと、人間(いや、神なのはわかってるんだけど)としてあり得ない音を上げながら、エロハの関節が曲がってはいけない方向に曲がったり、腹や頭が変に肥大化したり縮んだりするものだから、目の当たりにしたアックスは腰を抜かして、勢いよく全力で後ずさりした。
何! なんなのホントッ! ヤバイよヤバいよッ!
バタバタと一人暴れるエロハ。暴れるうちに銀の鱗は剥げ落ちて、金の髪と翼は全て抜けて生え変わり──。
「……出て行かないのなら、無理やり押さえつけてゴリ押ししたが、まぁいい。やはり、体が在るのと無いのとでは全然違うな。先ほどよりは、随分と安定した」
「相変わらず、やることが無茶苦茶だーッ! アンタッ!」
ゲホゲホと大量の血を吐きながら立ち上がるチェーザレに、涙目のアックスが叫ぶ。
身体全体が白いだけあって、肌に張り付く真っ赤な色は、嫌に目立って怖い。
対するチェーザレはというと、ビビって震えるアックスを見て、満足そうに全身の黒の目を三日月に細めて、口の中が血で汚れたままニヤリと笑った。
「一番目の神も、大したことないな」
ワザとだこいつーッ! アックスがやり場のない怒りをハデスヘルの心臓の床にぶつけ、同情した三番目の神は、甘んじてそれを受け止めた。
◆◇◆
「兄ちゃんッ!」
チェーザレの引き裂いた空間を通った先には、モルガの姿があった。
「……遅い」
そう言いつつも、アックスの後ろに立つヨッドの姿を確認すると、赤い目を細めた。
「おかえり。二等騎士・オブシディアン」
チェーザレは応えることなく、フンッとそっぽを向く。
しかし、モルガの足元に横たえられたユーディンに気がつくと、我先にと駆け寄った。
「貴様……」
「急いだほうがいいと思う。今なら、創造主の接続が不安定になってるから」
モルガの言葉に、チェーザレは喉まで出かかった言葉を呑み込んで、眠るユーディンを抱き寄せて、その顔に額を寄せる。
「言われなくとも、わかっている」
どういう事じゃ? と、よくわかっていないアックスが兄に問いかけた。
この場を離れようと促す兄に従って、チェーザレとユーディンから、アックスも距離を取る。
「……創造主はね、なんで陛下を選んだと思う?」
「そりゃー、創造主と陛下には、共通点が多いから……」
ダァトから以前聞かされたことを思い出し、首をひねりながらアックスは答える。
その答えでは十分ではなかったのか、モルガは少し苦笑をし、アックスに教えた。
「陛下はね、精霊の加護を持たなかった。それは確かに、創造主と共通する『精霊を従える側』の魂の素質を持つことを意味することだけど……」
そうだね。と、ゆっくりとモルガは言葉を選んだ。
「たとえ、そんな相手であっても、『誰が相手であっても守りたい』とか、『創造主が二度と介入してこないように、頑丈な加護を与えてもいい』なんて考える、変わり者の精霊や神が、もしも、いたとしたら」
「あ……」
兄が言おうとしていることが理解できたアックスは、息を飲む。
「……あまりにも遅かったから、地の神が加護を与えてもよかったんだけれど」
薄い表情ながらも、アックスにはちょっとだけ、モルガが笑ったように見えた。
「あのひとたちには嫌われたくないし、やっぱり怖いし……ね」
「そりゃー、同感じゃー!」
うんうんと深くうなずくと、アックスは笑えない兄の分も笑った。
◆◇◆
「……まったく、オレが側で見ていないと、本当に無茶をする」
本当に心配で、死んでも死にきれない──そうつぶやきながらも、チェーザレのその表情は、終始穏やかだった。
ユーディンの魂の奥深くまで絡みつく創造主の残渣を、丁寧に丁寧に剥がしてゆく。
「どうせこの様子では、オレの手紙も、読んで無いのでしょう?」
義足の箱の上に置いていた、小さなメモ。
タイミングまでは読めなかったが、もしかしたらという予感は、もうずっと前からあったのだ。
だから、今までずっと、チェーザレがユーディンの側を長く離れるときは、遺言のつもりで気づかれないよう、密かに彼の私物に仕込み、何事もなく帰ってきたとき、そっと回収していた。
「でも、もう、遺言はいらない。ずっとオレが、貴方を守る」
「チェーザレの遺言なら、三回くらい、読んだことがあるよ……」
うっすらと朱色の目が、ゆっくりと開かれた。
思わずチェーザレの顔が笑顔のまま固まる。
即刻、ユーディンの過去全ての情報に介入。
(うむ……これは……)
バッチリ見られてた。
「………………そう、ですか」
なんとか動揺を抑えつつも、チェーザレは全力で顔をそむけた。
「……ねぇ、チェーザレ」
そんなチェーザレの顔を、ユーディンは両手を伸ばして、元の位置まで戻した。
人間とはかけ離れた真っ白な肌に、エヘイエーのような、体中に広がる無数の目。
それでも、もう二度と、会えないと絶望していた相手が、目の前にいる。
「……なんか、ごめんね」
「……どの件についてでしょう?」
質問で返され、ユーディンは「んー」と、少し考える。
「全部。エフドに肉体乗っ取られちゃったこととか、チェーザレやムニンたちを、宰相から守ってあげられなかったこととか……」
──闇の加護を持って生まれなかったことに、悩んでた事とか。
チェーザレの何も、理解をしていなかった──そのショックが強すぎて、修羅はまだ自分の中で眠り続けている。
あの時、ショックを受けたのは、自分も一緒で──。
そう考えてたら、鼻の頭にデコピンが飛んできた。
「痛ッ!」
「ただの人間の分際で、そんなことまで考えなくてよろしい」
ふんッと、冷めた目でチェーザレが鼻を鳴らした。
「とにかく。貴方はもう二度と、加護が無いと嘆かないでください。時の神が、人間の中で、唯一介入すると決めた相手は貴方だ」
──だから。
「胸を張って、生きてください」
ふと、チェーザレの姿がぶれた。
ぎょっとユーディンの目が、驚いて見開かれる。
「すみません、ほんの少しだけ、眠ります……オレの陛下」
溶けるように、チェーザレの姿が消える。
彼の頬を振れた姿を保ったまま、ユーディンは応えた。
「……うん、起きたら、たくさん話をしよう。チェーザレ」




