第百六章 サフィリン
「エーイーリー!」
高速で飛んできた金色の翼の塊に、邪神は視線を向けた。
小さな頭を見上げるようにもたげて、金色の虹彩が、動くことなくアックスを見つめる。
「え、えっと……」
光の神の様子から、少しは攻撃されることを覚悟していたアックスは、拍子抜けして、逆に慌てる。
「エーイーリー、で、ええか? それとも、チェーザレ=オブシディアン?」
ふいっと、興味なさげに邪神が無言で踵を返した。
「あぁ! 待ってッ! 無視しないでッ! ……あ、言葉! ヒトの言葉より、精霊の言葉の方が、ええかのぉ?」
「……言葉くらい、理解している」
慌てて小さな黒い手を握り、縋りついてくる風の神に向け、うっとおしそうに邪神は短く応えた。
「そ、そうか!」
ひとまず、|返事が返ってきた《コミュニケーションが取れた》ことに手ごたえを感じたアックスは、力強く彼のその手を握る。
しかし。
「……くだらない」
「え?」
短いエーイーリーの言葉に、何のことだか解らないアックスは、きょとんと小さな彼を見つめる。
「くだらない。どうせ風の神は、いずれ神格を破壊されて、破壊神の従順な手駒にされてしまうというのに」
邪神は、ちらりと視線を地上に向けた。
「くだらない。破壊神の不毛な愛が、戦女神に届くことなど、二度とあり得ないというのに」
アックスとエーイーリーの視線の先には、ユーディンの肉体を乗っ取った破壊神と、剣を交えるモルガの姿が見える。
「くだらない。どんなに今、一生懸命になろうとも、どうせ地の神は、光の神以上の絶望をヒトから与えられ、憎悪の末、全ての生物の地の加護を奪い、滅ぼす側に回ってしまうのに」
「な……」
顔面蒼白で震えるアックスなど目に入っていないのか、エーイーリーはジッと自らの両手を見つめた。
「くだらない。|チェーザレ=オブシディアン《オレ》を生かすため、どれだけエーイーリーに力を与えようとも、エロヒム・ツァバオトとエロハもろとも、共倒れの後、消滅する未来しかないというのに」
「おまえ、それは……未来予知、か?」
絞り出すようなアックスの問いに、エーイーリーは答えることなく。
「あぁ、本当に、くだらない」
彼は、吐き捨てるよう、小さく呟いた。
「どう足掻こうとも、遅かれ早かれ……どうせすべてが、無に還ってしまうのに」
◆◇◆
『おやめなさい! エロヒム・ツァバオト!』
悲鳴のような、ミカの声が、デウスヘーラーの心臓に響く。
「やだッ! やめない!」
会話だけなら、よくある小さな子どもの癇癪と駄々っ子っぷりなのだが、エロヒム・ツァバオトの怒りを反映してか、心臓中にバチバチと雷がほとばしった。
『イザヤ様!』
『むぅ……子どもが元気がいいことは、良いと思うんじゃけど、老体にはちーと、きっついのぉ……』
光の封印者が自らの白交じりの青い髭を撫でながら、いつもの軽い口調で答える。
『そもそもワシは、エロハ様専任の封印者であって、エロヒム・ツァバオト様は、ほんのちょこっとだけ、管轄外じゃしぃ~』
『連れてきた責任で、何とかしてください!』
ルクレツィア様に何かあったら、どうするつもりですッ! と、珍しく語気の強いミカをよそに、ルクレツィアは一人、考える。
勝算など、無きに等しい状況ではある。
が。
「ミカッ! イザヤ殿! 頼む! 私に、十秒ほど、時間をくれ!」
言うや否や、ルクレツィアは飛び出し、エロヒム・ツァバオトに向かって駆け出す。
『ちょッ! ルクレツィア様ッ!』
『むむッ……』
突如行動を起こしたルクレツィアに、封印者の二人は、慌てて釣られて行動を起こした。
ミカは悲鳴のような高い声を上げ、エロヒム・ツァバオトの注意をひきつける。
その間、イザヤが不意を突いて権限を行使し、一瞬ではあるが、精霊機ごと、エロヒム・ツァバオトの意識を、強制的にダウンさせた。
(モルガ……それに、兄上……)
私に、力を──。
再起動中で薄暗い中、ルクレツィアの左腕が、ぼんやりと淡く──次第に、まばゆく輝き始める。──そして。
パァンッ!
ルクレツィアの黄金の左腕が、意識を取り戻した怒れる神の頬を、力強く打った。
「痛った……」
何が起こったか……オレンジ色の瞳をぱちぱちとしばたたかせ、エロヒム・ツァバオトは、頬に触れながら、目の前に立つ──ただの人間を見上げる。
「え……お兄ちゃ……あれ……?」
まるで、そこに立つ人物が誰であるか、初めて理解したような──そんなリアクション。
否、きっとそうなのだろう。神はルクレツィアという人間を、このときようやく、認識した。
ルクレツィア自身としては、そこまでチェーザレに似ているとは思っていないのだが──しかし、ルクレツィアの持つ、まったく月の無い夜のような深く黒い髪と瞳は、彼女が彼を連想するには、十分だった。
静かに、ルクレツィアは跪き、エロヒム・ツァバオトに問いかける。
「頼む……私に、兄の最期を、教えてくれないか?」
ルクレツィアの『兄』の言葉に、一瞬、彼女の目が大きく見開かれた。
彼女が、自分の大切な人の何であるか──理解した彼女は、顔をくしゃくしゃに歪めて、しゃくりあげながら口を開く。
「お兄ちゃん……私を、庇って、刺された……」
彼女の身体が、小さく、小刻みに震えた。
「逃げろって。きっと大丈夫だって言って──でも、次の日、隠れてた私の前に、この機体と、光の神が迎えに来て、お兄ちゃんが、死んじゃったって……」
──新たな光の操者は、|サフィリン=ヘリオドール《わたし》だって。そう言って。
「お兄ちゃんが、死んじゃったなんて、信じたく、なくて、心臓で、ずっと、泣いてたら、エロハが、お兄ちゃんの肉体に、受肉してくれて、ずっと、私を、守ってくれるって……」
ところどころ、しゃくりあげながら、小さな幼い神は、ルクレツィアを見上げながら、真剣に言葉を続けた。
「だから、お兄ちゃんの首を、取り返そうと思ったの……そしたら……」
とうとう、大きな声をあげて、少女は泣きだした。
兄の首に関する事件は、ルクレツィアも報告を受けて、知っている。
たくさんの目撃者が居た中起こった、兄の首を持って逃げようとする少女の存在。
そして、撃たれて瀕死の彼女を守るよう現れ、姿を消した、光の精霊機。
「痛かっ、たの! もの、すごく、痛かったの!」
飛びつくようにルクレツィアの胸に顔を埋め、わんわんと泣くエロヒム・ツァバオトを、ルクレツィアもまた、抱きしめた。
彼女の背を優しく撫でて、そして、彼女に囁いた。
「ありがとう。サフィリン」
チェーザレ=オブシディアンを、愛してくれて。




