第百三章 チェーザレ
ダァトの来訪時、エロハは嘘をついた。
否。嘘ではない。
自分が口にし、ダァトに伝えたことは、全て本当の事だ。
故に、全てを伝えていないと言った方が正しい。
何故、自分がチェーザレ=オブシディアンの肉体を受肉したのかは、憶えていない。
何故、彼女に、サリフィン=ヘリオドールの肉体を与えようと思ったのかも、憶えていない。
けれど。
受肉したことによる直接の影響なのか、はたまた肉体に刻み込まれた|かつての主《チェーザレ=オブシディアン》の記憶の影響なのか。
自分の中に、今の自分には理解できない感情が、ずっと渦巻いている。
かつてのエロハなら。または、チェーザレ=オブシディアンのどちらかなら、コレが何であるのか、わかるかもしれないが──ともかくそれは、ある種の衝動であり、また、警戒心に近いものなのかもしれない。
ともかく、これが何なのかわからないまま──けれどもそれが原因で、この涙は止まらない。
首の傷も癒えることは無い。
そして、このよくわからない感情と同時によぎる、ある予感。
誰なのかは、今のところはわからない。
でも。
全ての鍵は、きっと、『彼』にある──。
◆◇◆
モルガの問いに、ふぅ──と、エロハはため息を吐く。
「ええ。あなたの言う通り」
それは、諦めのようにも、開き直りのようにも聞こえる言い方。
けれども、その表情に変化はなく。
チェーザレと同じ顔とは思えないほど柔和な表情ではあるが、しかし、向けられるのは、今にも獲物を貫かんとする、鋭く冷たい刃のような視線だった。
「チェーザレ=オブシディアンは、私の中に居ます。……もっとも、説明するまでもなく、経験者である|モルガナイト=ヘリオドール《あなた》が、一番ご存知でしょうが」
エロハの視線の鋭利さが増し、少し殺気立ってきた様子に、アックスは唾を呑み込む。
「その魂はボロボロで、表層に出た途端、すぐに砕け散ってもおかしくない。そんな状況ではありますけれどね」
ユーディンも、思わず息をのんだ。
相手は『光の神』であるはずなのに、彼の中に、どす黒い何かが渦巻いているような、そんな気迫だった。
「回復の見込みは、正直言ってありません。エヘイエーのように、たとえ私が光の神としての権限を全て彼に譲って消滅したとしても、現状、彼の自我は消失したに等しく、救う事はできない。それに……」
言いかけたところで、一瞬、エロハは言葉を止める。
そして静かに首を横に振り、いいえ。と、濁した。
「できないことは、口にしても仕方が無いこと」
「できない……やらない、ではなく?」
モルガの一言に、周囲の空気が凍り付く。
もちろん、エロハの表情も、先ほどとはうって変わって、引きつって固まっていた。
「モルガ! 何か、方法があるのか?」
ユーディンが期待を込めた目で、モルガを見つめる。
そして、思わずモルガの両肩を掴んで、勢いよくガクガクと揺さぶった。
「馬鹿なことを……シャダイ・エル・カイと同じことをしろって事でしょうけれど、|エロヒム・ツァバオト《我が身に宿ったもう一柱の神》を|サフィリン=ヘリオドール《彼女》に与えてしまった今は、それこそ、残らず魂を邪神に上書きされ、奴の思うつぼです」
せっかく、守ったのに。
エロハは実に不快そうに、顔を歪めた。
そのエロハの反応に、アックスはやや違和感を抱いたが、今はもう少し様子を見るべきかと、口に出かけた言葉を呑み込む。
そんな時だった。
── 逢わせてやろうか? ──
ぞくり。と、突然の声に、ユーディンの背筋が凍る。
周囲を見回すと、先ほど同様、モルガとエロハが言い争っている様子ではあるのだが、声が、何故か自分の耳に届かない。
── なぁに。遠慮することはない ──
まるで、嘲笑うかのように弾ませながら、声は……破壊神は笑う。
そして。
こちら側の返答など、ハナから聞く気は無いようで──ユーディンの意識は、即座に暗転した。
◆◇◆
ふと気がつくと、ユーディンは一人、暗闇の中を立っていた。
以前もう一人と対峙した、あの部屋に似ている気がするが、部屋と言うほどハッキリとした空間ではなく、とりあえず、なんとか地に足がついているといった様相。
目の前に、ぼんやりとヒトのカタチ──ただし、その頭部には、目も鼻も口もない『白い塊』が、長い手足を折り曲げ、膝を抱えるように横たわっている。
「チェーザレ……か?」
「………………」
声をかけるも、返答はない。
ユーディンはそっと、その塊に近く。「砕け散ってしまいそうな」と言ったエロハの言葉を思い出し、恐る恐る、その塊──否、魂に触れた。
『──ッ』
びくりッと、チェーザレが震えた。
同時に、ユーディンの足に、激痛が走る。
暗くてよく見えないが、足元から何か棘のようなものが複数飛び出して、ユーディンの足に刺さっていた。
「チェーザレッ!」
『来ルナ』
空間全体に大きく響く、チェーザレの声。
しかしそれは、抑揚無く、とても単調な単語の羅列。
『警告スル。寄ルナ。触レルナ。許可ナクおれニ近ヅクナ』
パキリッ──。
甲高い音が響いたと同時、動かないチェーザレの足先に、大きなヒビのような亀裂が入る。
その亀裂は少しずつではあるが、徐々に、体中に広がっていった。
「チェーザレ! しっかりしろ! 余の声が、わからぬかッ!」
『ちぇー……ざれ……?』
慌てて叫んだユーディンの声の、自身の名前に、チェーザレがわずかに反応を示した。
広がるヒビの勢いが衰え、ホッと、ユーディンは胸を撫でおろす。
「そうだ。チェーザレ=オブシディアン。闇の帝国の血を引く、高貴にて、誇り高き我が友……」
『否。ちぇーざれ=おぶしでぃあんハ、高貴ニ非ズ。出来損ナイデアル』
え……と、ユーディンは言葉を失う。
『否。否。否。ちぇーざれ=おぶしでぃあんハ、闇ノ一族ノ出来損ナイデアル。ちぇーざれ=おぶしでぃあんハ、闇ノ精霊機ニ選バレナイ役立タズデアル』
何を、言っている……。ユーディンは彼の言っている意味が解らず、困惑する。
しかし、チェーザレは単調に、己を貶める言葉を繰り返した。
『ちぇーざれ=おぶしでぃあんハ、闇ノ精霊機ニ選バレナイ。ちぇーざれ=おぶしでぃあんハ、闇ノ精霊機ニ乗ルコトガ出来ナイ』
白い魂の色が、徐々にくすみ、闇色に近づく。
『闇ノ帝国ノ直系ノ皇子ダト、笑ワセル。父上モ、母上モ、るくれつぃあモ、闇ノ加護ヲ持ッテイルノ二、ちぇーざれ=おぶしでぃあんハ、闇ノ加護ヲ、持チ得ナカッタ』
「おまえ……そんな事、今まで一言も……」
そう言って、ハッとユーディンは気がついた。
チェーザレは言わなかったんじゃない。言えなかったのだと。
ユーディンは、最初から精霊の加護を持っていない。
そんな彼に向かって、自身の加護の悩みについてなんて、相談できるわけがない。
そう一度気づいてしまうと、どんどん彼の異常性に気がついて、ユーディンは真っ青になった。
ユーディンはチェーザレの事を、「兄」のように慕い信頼してきたが、年齢こそ同い年である彼は、ずっと昔から──それこそ、ユーディンが二人に別れる前から、大人だった。
両親や妹含め、誰にも本心を晒すことなく、また、察する機会すら与えず、子どもでいられる時間も自ら早々に捨て去り、自身のコンプレックスを押し殺し、そうして、ずっと、自分より格上の人間を翻弄しながら、元素騎士の隊長として、最期の最期まで、振る舞い続けた──。
『何ノ疑問モ抱クコトモナク、自然トはですへるニ選バレタ、るくれつぃあガ憎イ。るくれつぃあガ羨マシイ。るくれつぃあガ妬マシイ』
気がつくと、修羅の目から、涙が溢れてこぼれた。
初めて知った、チェーザレの本音。
否、「自分が一番世界で一番不幸だ」と思い込み、ずっと自分の事ばかりで、知ろうとさえしなかった、隣人の本心。
「そんなことはない」と、彼の言葉を否定することは簡単だが、自分がその言葉を、安易に投げかけていいとも思えなかった。
何と声をかければいい? 否、自分は一体、どうすればいい?
解らなくて、悔しくて──ただ、涙だけが、止まらない。
そうこうしている間にも、白かった魂は周囲の闇と同化するほど黒く堕ちて、ひびの侵食する音も、どんどん大きくなってゆく。
すると、相反するよう、チェーザレは何処か、嬉しそうに呟いた。
『アア。闇ダ。おれガ、ズット、求メテイタモノ……』
「チェーザレ……」
一瞬、チェーザレの魂のひびの隙間に、別の闇が、絡みついているように見えて、ユーディンは目をこすった。
けれど、それは、見間違えではなく──。
『おれハ、光ノ神ニナゾ、ナリタクナイ』
ユーディンの脳裏に、昔誰かが、言っていたある言葉がよぎった。
曰く、強すぎる光の下には、濃く暗い、影ができるという事を。




