第百一章 戦神の聖痕
「な……」
ソルは思わず、息を飲む。
自分は先ほどまで、ユーディンから宛がわれた部屋で、専門外の書類の山を片付けていたはず──。
しかし、目の前に巨大な──見上げるほどの、見たことの無い構造の大きな機械が空間一杯に広がっている。
『ほう……そなた、シャファットではないな』
突然響く、抑揚の無い、女の声。
それはまるで、合成された、機械で作られた音のような。
「誰だッ!」
『まぁまて。私も、百年ちょっとぶりに起動するからな』
ガコンッ! と、妙な音をたて、機械が動き出す。
滑らかなヴァイオレント・ドールの駆動音とは相反する、バタンドカンと技師として不快な音をたてながら、しかし、ソルの目の前に、其れは、姿を見せた。
「うッ……」
『うむ、すまんな。二千年ともなると、さすがに、肉体は朽ちてしまった』
色褪せた朱の長い髪はかろうじて残っているが、棺に丁寧に入れられた其れは、ミイラ化した遺体だった。
『我が名はヤエル……ということになっているな。たぶん』
「名乗りにしては、随分とあいまいだな」
ソルの言葉に、声は、うむ……と、一応肯定の意思を返した。
『私には、生前の、主観的な記憶が一切無い故な』
まるで開き直ったような言い方に、呆れたようにソルは問う。
「で、何故オレは、此処にいる。お前が呼んだのか?」
神や精霊なぞ、信ずるに値しない。と、そう思って生きてきたハズなのに。
ここのところ随分と、非現実的な案件を何度も目の当たりにし、随分と慣れてしまったものだ──と、ソルは我がことながら、大きくため息を吐いた。
それもこれも、全て、弟子と駄神のせいだ。と、周囲にモルガたちの姿を探したが、さすがに今回は彼は無関係らしく、気配すら無かった。
『うーむ……私自身が呼んだわけではないのだが……エフドの気配が遠のいたこともあり、引き寄せてしまったという可能性は無きにしもあらず……』
「どっちだ」
しどろもどろのヤエルに、ソルは普段通り容赦がない。
『いや、これまで、前例が無いわけではなくてな……どうやら私は、私に近い存在の魂を、無意識に呼んでしまうらしく……』
「近い? オレが? お前に?」
どこがだ。と、ソルはきっぱりと言い放つ。
ヤエルの生前の容姿はまったく判らないが、性別からして違うし、唯一解る髪の色も、ユーディンの方が近く、自分の真紅の髪とは違う。
『うむ……そうだな。お前は、精霊の加護が無いだろう?』
唐突に触れられ、ぎょっと、ソルは目を見開いた。
『あれはな、私のせいなのだ』
苦労をかけて、すまない。と、淡々とヤエルは語る。
『死したヤエルの魂を、エフドはこの世に留めようとした。しかし、あの者がこの世に括ったこの魂は、あくまでもヤエルの一部で、生前の記憶を含め、そのほとんどは、既に世界に溶けてしまっていた』
知らない固有名詞や、人間の魂を扱うとんでもない技術、宗教観の異なる魂のあり方。
混乱するソルに、ヤエルは淡々と続けた。
『ソル=プラーナを構成する魂の中に、ヤエルは存在する。……それは、ほんのわずかな要素ではあるけれど』
不意に、棺の脇から、太いワイヤーが飛び出し、ソルの体に絡みつく。
「なッ」
『不意打ちのようで申し訳ない。が……』
途端、雷に打たれたような衝撃に、ソルはのけぞった。
モルガの時とは比べ物にならない、情報が、ソルの中に否応なく流れ込む。
魔女と呼ばれ、迫害された女性。
天才と称されたものの、妬まれ、若くして殺された技術者。
狂人と呼ばれ、各地を放浪した挙句、野垂れ死んだ男。
何十人、何百人と、彼らが生きて、死ぬまでの記憶。
拒否権なぞ、あるわけがない。それが一気に、ソルの頭に、なだれ込んで来た。
『あぁ、そうだ。ヴァイオレント・ドールの知識を得たのは、初めてだな』
自力で立つことができず、伏してぜーぜーと荒い息を繰り返すソルに、相も変わらず、淡々と、ヤエルは語る。
『私に生前の記憶はないが、死後の記憶はこうして二千年もの間、私の魂を持つ者たちと同期して、保存と共有を繰り返してきた。……正直言うと、今の私はもう、エフドにも、人間にも……なんの期待もしていない』
──むしろ。
「……嫌悪感、すら、覚える。神も、精霊も……人間も、全て……」
『……そう、その通りだ』
涙でにじむソルの目に、自分の手首が映る。
そこには、何かが貫通したような傷痕が、くっきりと浮かび上がっていた。
否。確認していないが、手首だけではない。じんわりと熱を帯びる体中に、剣による刺傷の痕が、いくつも浮かび上がっている筈だ。
わざわざ聞かなくとも、それが何か、ソルには理解できる。
朽ちた今はもう、判別がつかなくなっているだろうが、かつてヤエルの肉体に、同じ傷が、あったのだから。
「戦神の、聖痕……」
『その呼び方は、少々気恥ずかしいものがあるがな……』
相変わらず抑揚は無いが、少し困ったように、ヤエルは笑った。
『そうだな……審判を名乗る、忌々しいあの者に、嗅ぎつけられるのも面倒だ。そろそろお前は、目覚めるがいい』
また、いずれ、逢おうではないか。
◆◇◆
「……た、あなたッ! あなたッ!」
「う……ん……?」
キンキンと耳に響く、妻の声。
「なんだい……? サフィニア……」
頭が、ガンガンと痛い。
ゆっくりと体を起こすソルに、安堵の息を吐きながら、それでも震えるサフィニアの声が届いた。
「私……また、あなたが……」
「大丈夫だ……オレだって、うたた寝くらいするさ」
見回すと、山盛りの書類が相変わらず執務机の上に広がり、眠っている間にいくつか落としたか、床の上にも散らばっていた。
「ちゃんと、お休みくださいませ……でないと……」
「……心配性だな。大丈夫だ。ただまぁ、少し休ませてもらおうか」
身重の妻を先に寝台に連れてゆき、シャワーを浴びようと、ソルは一旦、部屋の外に出る。
服を脱ぎ、バスルームに備えられた鏡に映る、裸の自分の体を見つめた。
「……痛い、なんてモンじゃ、なかったな」
それが、自分の記憶でないことは、理解している。
けれど。
手首と足の甲に浮かぶ、貫通した釘の痕。
腹や、胸に集中して何本も突き刺され、ヤエルの致命傷となった無数の剣の痕は、紅くくっきりと浮かび上がり、見つめるソルの中に、ある種の冷たい、憎悪の感情が渦巻いた。
◆◇◆
『ようやく、落ち着いて眠ったようだな』
「寝室まで、来ないでくださいよ。ヨシュアさんッ!」
もーッと。不快そうにデカルトは顔をしかめ、声を荒げかけたが、「うーん」と自分の腕の中で、小さく声をあげるモリオンの声に、思わずシッ! と、一人で人差し指を立てる。
『別に睦事の最中に声をかけたわけではないから、いいだろう?』
ヨシュアの言葉に、デカルトはふき出す。
「ちょ……待って……」
『そもそも男なら、女から求められたなら、応えぬか』
容赦ない言葉の連続に、デカルトは落ち着こうと、スー、ハーと、深呼吸三回。
「あのですね! 君たちの生きた時代はどうだったか知りませんけどッ! 結婚式あげるまで、手は出さないモノなのですッ!」
小声で声をひっくり返しながら、デカルトは時代錯誤な精霊に怒った。
もっとも、そのあたりの事情は人それぞれであり、どこぞに未婚のクセにやりたい放題の降格騎士がいたことを、一応、付け加えておく。
『そう言うが……その娘、シャファットだろう?』
「シャファット? あぁ、君たちの言葉で、生まれつき、巫覡の潜在能力の強い人間の事、だっけ?」
自身が『特別枠』だという事は、何度もヨシュアに口酸っぱく言われていたが、モリオンが精霊機の精霊の気配を属性関係なく感じとり、難なく会話をすることが出来ることを目の当たりにした時は、デカルトもさすがに目を疑った。
その際、『シャファット』という言葉を、デカルトは知った。
──神や精霊の良き隣人。精霊に愛されし者。そして、神や精霊の声を聴き、人々に裁きを与える者──
『シャファットは、死に魅入られやすい』
唐突なヨシュアの言葉に、デカルトは眉間に皺を寄せる。
対するヨシュアは淡々と、そしてきっぱりと言い放った。
『つまりは、総じて短命だ』
故に、その者の願いは、早いうちに叶えてやるがいい。
言うなり姿を消したヨシュアに、理解の追い付かないデカルトは、呆然と腕の中で眠るモリオンを、見つめる事しかできなかった。




