狙撃手シャルルの選択
開戦の切っ掛けは、些細な領土争いだった。
北の帝国と南の共和国の国境に、人口一千人程度の小さな村があった。
村は共和国に属していたが、住人の六割は帝国にて大多数を占める北方民族ノルド人で、残りの四割は共和国にて大多数を占める南方民族シュルト人である。
両民族は見た目が大差ないこともあり昔は民族の違いに無頓着で問題にならなかったが、いわゆる民族主義が台頭してからというもの、村の帰属を巡って感情的な対立が始まり、最初は小さかったその火種を両国の新聞が売上げ目当てに世論を煽り立て、ことは巨大な外交問題に発展。
そうして誰かが何かを間違え続けた果てに、共和国と帝国が百万の兵をぶつけ合うまでになってしまった。
そんなくだらない戦争における戦場の片隅で、シャルルは息を潜めていた。
シャルルが今いるのはかつてアパートだった五階建ての屋上で、周囲は市街地戦の様相を呈している。
スコープを通してシャルルの眼に映るのは、弾痕まみれの建物群とその合間で虫のようにうごめく両軍の兵士たち。
一軒の家、一つの通り。
そんなもののために彼らは命を奪い合っている。
シャルルもその一人には違いないが、彼は少し特別だった。
共和国軍特級狙撃手。
共和国軍指折りの腕前であり、その手にかかった帝国兵は三ケタにもなる。
そんなシャルルが見据えるのは、三百メートル先にいる帝国将校だ。
その帝国将校は夕陽を背にして戦車から半身を出し、盛んに怒鳴ったり腕を振るったりしている。
シャルルは左眼をつむり、名も知らぬ壮年の男の心臓と銃口との間に一本の線を描く。
若干の曲線であるそれに合わせて撃つという作業を繰り返していたら勲章が増え、良い装備を優先的に貰えるようになった。
やがて将校の左胸と銃口とが線で結ばれ、シャルルは引き金を引こうとした。
が、視野の片隅に違和感を覚え、咄嗟に遮蔽物へ身を隠した。
それとほぼ同時に、先ほどまで背後にしていた壁の一部が砕ける。
柄付きの鏡を遮蔽物から出し、違和感のあった場所を睨んだ。
そこはシャルルがいる五階建ての屋上と同じくらいの高さで、薄汚い布から見慣れた銃身が僅かに突き出ているのが見えた。
「あいつか!」
そう毒づいた直後、鏡が砕け散った。
痺れる手を押えながら、シャルルは建物から駆け下りた。
今のシャルルは待ち伏せされている状態であり、同じ場所では圧倒的に不利だからである。
シャルルは自分を狙った狙撃手を知っている。
リュリア・ラスコーヴァ。
帝国軍Sランク狙撃手。
共和国軍の特級狙撃手に当たる軍人で、殺害数は百十一名。
美しき女狙撃手として帝国では英雄であり、共和国では懸賞金付きの公敵である。
この戦場で初めて遭遇して以来、シャルルとリュリアは互いにスコープ越しで見つめ合い、狙い合ってきた。
シャルルは頭の中でこの辺り一帯の地図を等高線付きで描き出し、リュリアに反撃できる位置を割り出した。
それは街の図書館の屋上で、先ほどの敵の居場所を真横から狙える。
シャルルは地を這うように移動し、図書館の屋上に陣取ると、愛用の狩猟用ライフルを構え、スコープをのぞき込んだ。
あの隠匿用の布とそこから突き出た銃口はそのままで、まだかつてシャルルがいた位置を狙っている。
シャルルはしめたと思ったが、すぐに本能的な警告が脳内に響く。
リュリアほどの狙撃手が、自分の位置が露見しても移動しないなんてことがあるだろうか?
シャルルの懸念は的中した。
シャルルが狙っていた位置から数十メートル離れた別の建物の窓に、自分を狙う人影が見えたのである。
「囮か!」
隠匿用の布の中にあるのは銃だけで、リュリアは別の場所に移動済みだったのだ。
しかも、シャルルの移動先を読んで彼の方に銃口を向けていた。
シャルルは負けじと銃身を向けてスコープをにらむ。
その眼に映ったのは、黒いヘルメットから金髪がはみ出ている紫色の瞳の女。
多くの兵士が知っている白黒写真のリュリアとは違う、本当の姿だ。
急な動きでぶれているシャルルと、最初から待っていたリュリアとでは勝負にならない。
やられる。
シャルルはそう覚悟した。
が、リュリアは撃ってこなかった。
怪訝に思っていると、上空に信号弾が打ち上がっていることに気付いた。
今日の戦闘の終わりを告げる、国際協定で定められた信号弾である。
今なら撃ったところで気付きませんでしたで済むものを、リュリアはすんなりと銃を下ろした。
シャルルも肩をすくめて銃の構えを解き、二人は数百メートルの距離で見つめ合う。
二人の衝突はこれで六度目で、一進一退するものの決着はついていない。
幾度となくスコープ越しに視線を交わし、殺すために観察したことで、シャルルはリュリアについて幾つかのことを知るようになっていた。
リュリアは胸に十字架のお守りを提げていて、頻繁に握りしめるものだから日に日にボロくなっていること。
リュリアは戦闘時は鉄のように冷たい表情をしているが、戦闘終了を告げる信号弾が瞬くとこちらにウィンクしてくること。
リュリアのことを知れば知るほど、シャルルの引き金は重くなっていった。
些細な癖も、希に見せる笑顔も、その全てがシャルルの指先を鈍らせる。
シャルルの上官である少佐は苛立って、顔を合わせる度にこう言った。
「何を手間取っている。さっさと奴を殺せ」
戦況は泥沼化し、誰もが焦っていた。
別の戦場では大河のように長大な塹壕を構築し合い、ほんの数歩進軍するために数万の兵が死んでいる。
小さな村の帰属先を決めるにしては犠牲が多すぎ、大勢が終戦を望んでいたが、互いに相手が和平を求めてくるのを待っているがために終わるものも終わらなかった。
その一方、シャルルはリュリア一人を殺せなかった。
それはリュリアの側も同じなようで、彼女は国際協定で定められた戦闘終了時のギリギリになってからシャルルの視界に姿を現すようになり、銃こそ構えるが一向に撃たなくなった。
まるで秘密の恋人同士のように、二人は決まった時刻に銃口を向け合って、無言の会話を交わすのだ。
ある時、シャルルはリュリアが小指をちょいちょいと動かし、奇妙なサインを送っているのに気付いた。
小指が指し示す先に照準を移すと、犬と猫が建物の屋上に寝そべっているのが見えた。
周囲は銃撃や砲撃、人の悲鳴や罵声で満ち満ちているというのに、猫は犬の腹に身を委ねて眠っており、犬は犬で船をこいでいる。
小さなことで大きな争いをしている人間よりも、あの犬猫の方がよっぽど賢いのかもしれないなと、シャルルは笑った。
そしてシャルルが再び視線をリュリアに戻すと、彼女もまた微笑んでいた。
そうこうしていくうちに、二人に同じ変化が起きた。
人を、撃てなくなったのである。
これまでは敵を人だとは思わないようにしてきたから、人形を撃つように人を撃てた。
だがその敵の中に互いの存在を認めた時、シャルルにとってもリュリアにとっても、敵も人であるという意識が芽生えたのである。
その意識が引き金を重くし、二人の戦果はみるみる落ちていった。
そんな中、戦況に動きがあった。
帝国軍が別の戦場で一大攻勢を仕掛けるという情報が入ってきたのだ。
この攻勢が成功すれば覆すのは難しく、逆に失敗すれば共和国にとっては反撃の好機となる。
シャルルとリュリアがいる市街地にはあまり関係のない話ではあったが、それでも現場の兵士たちは浮き足だっていた。
例に漏れず少佐も血気盛んに舞い上がり、シャルルに対して秘密裏に命令を伝えた。
「戦闘終了の信号弾が上がった後なら敵は油断する。その機に祖国の敵リュリア・ラスコーヴァを撃て」
「ですが国際協定違反にな……」
「そんなことは瑣末な問題だ!」
シャルルの言を遮り、少佐は威嚇するように地を蹴った。
「全ては祖国のためである。戦局が決定的場面に近付いている今こそ、お前の愛国心を示す時だ」
是非を問わない少佐の圧力に、シャルルは膝を折った。
その日も、夕日に染まる空に信号弾が打ち上がった。
いつもならホッと胸を撫で下ろす瞬間だが、シャルルにとっては悲痛な時の始まりである。
シャルルのところに少佐が現れ、武運を祈るなどと白々しく言って、援護の名の下に彼を監視し始めた。
シャルルたちは両軍が兵を引き上げ、警戒を緩めるまで待った。
陽が山の向こうに沈み、代わって月が地を照らし始めた時分、シャルルたちは双眼鏡で帝国軍のいる方を見る。
見つからないでくれとシャルルは願ったが、街角の一角で煙を上げるたき火の周囲にたむろする帝国兵たちの片隅にリュリアがいるのを少佐が見つけてしまった。
リュリアは壁を背にして座り込み、膝の上で猫を抱いている。
少佐はしめたと言ってシャルルの肩を叩くと、早く撃てと急かした。
シャルルはライフルを構え、リュリアの心臓に照準を合わせる。
今のリュリアはヘルメットを脱いでいて、普段は見えない金色の長髪が露わになっている。
猫を撫でながら月を見上げるリュリアの姿は炎の明滅によって魅惑的に照らし出され、奇妙なほどの美しさを醸し出していた。
シャルルは、引き金に人差し指を乗せたが、上手く曲がらない。
撃てば当たるところまでいっていたが、最後の一押しをシャルルの心がさせなかった。
撃つ瞬間は呼吸を止めるものだが、シャルルのそれは止まったままで一向に前に進まず、身体が酸素を求めてもがきだした。
たまらず、シャルルはスコープから眼を離してうなだれる。
肩を上下させながら呼吸を整えるシャルルの背中を、少佐の声が刺した。
「何をやっている!? 撃たないのなら、命令違反の咎でお前を撃つぞ」
シャルルは仕方なく再びスコープに眼をやり、そして驚愕した。
リュリアが、こちらを見つめているのだ。
リュリアは裸眼だったが、帝国では鷹の眼と讃えられる彼女であれば見えていてもおかしくない。
もしかしたら、月の光がスコープに反射して光り、それをリュリアは見逃さなかったのかもしれない。
彼女は気付いていると、シャルルには確信できた。
これまで幾度も無言の会話を交わしたからこそ、そう思えた。
リュリアは隠れもせず、味方を呼ぶこともなく、ただ真っ直ぐに、紫色の瞳でシャルルを見つめていた。
撃てば、リュリアとの日々の記憶は血に染まり、十字架となって生涯シャルルの背中に重くのし掛かるだろう。
撃たなければ、少佐は本当にシャルルを撃ちかねないし、そうしなかったとしてもリュリアの命を諦めはしないだろう。
シャルルは、意を決した。
全ての不安と心残りを振り払うかのようにうなりながら、シャルルは引き金を引いた。
それから程なくして行われた帝国軍による一大攻勢は、後世の有識者からは「戦術的成功戦略的失敗」と評されている。
犠牲者の数で言えば共和国軍の方が遙かに多かったが、帝国軍が望んでいたほど前線を進めることができなかったのだ。
犠牲者が多かったため共和国も反撃ができず、ずるずると戦争が長引き、両国共に大損をした。
そうして一大攻勢から数年が経ったある日、帝国と共和国の代表者が和平条約に調印した。
村の帰属は共和国のままとする代わりに、共和国は帝国に対し復興支援金という名目で莫大な金を支払うこととなった。
莫大と言っても帝国が戦争に費やした戦費とは比較にならず、共和国も要地でもなんでもない小さな村の帰属を維持しただけに終わり、双方にとって損ばかりが大きい戦争であった。
和平成立から数週間が経った頃、シャルルはかつて自らが戦ったあの市街地にいた。
泥沼の市街地戦によって街には原形を留めている建物が一つとしてなく、住人も難民として各地に散り散りになっており、最早復興できるかどうかもわからなかった。
和平が成立し、兵士たちが引き上げて静かになった街中を、シャルルはゆっくりと移動している。
いかんせん足場が悪く、車輪が引っかかって何度も立ち止まってしまう。
そうして立ち止まる度に、シャルルは自らも車輪を手で微調整しつつ、背中に気を配る。
今のシャルルは、車いすの身となっていた。
あの日、シャルルは自らの足を撃ったのである。
少佐は、部下の不注意による暴発事故だったとの釈明に追われ、リュリア暗殺計画は闇へと消えた。
足に重傷を負ったことでシャルルは前線から外され、そのまま終戦を迎えた。
不注意による事故を起こして戦争から離れたことで、共和国軍特級狙撃手という名声よりも恥の方が出回ってしまった上に、運の悪いことに兵役期間がぎりぎり足りなかったためにシャルルは軍人年金を受け取れなくなった。
傷痍軍人に支払われる恩給も、復興支援金や軍費の調達のために紙幣を刷りすぎたツケが戦後に爆発してハイパーインフレになったため、実質的な価値は雀の涙程度でしかない。
大勢の人がそうであったように、あの戦争でシャルルも多くを失った。
しかし、今のシャルルは至って穏やかで、むしろ幸せそうに見える。
その時、シャルルにとって見覚えのある犬と猫が曲がり角から姿を現した。
「あの時の二匹だ!」
シャルルが振り替えると、リュリアの笑顔がそこにあった。