月影森の長い夜(2)
今回から前書きに「■登場人物」を書き足しておきます。
また、ここまでの全話にも同様に書き足しておきました。
■登場人物
『但野 宙』
自分の死をきっかけに、謎の存在から正体不明の力を授けられた人間の男。
生前から痛みや苦しみへの我慢の限界値がぶっ壊れていた自己犠牲精神の化身。なお、生前の死因は「過労死」。
『黒狼の少女/月影森のザイラ』
黒く長い髪を乱暴に一つに束ねている、美しく逞しい人狼の少女。
憤怒と憎悪、それこそが何もかもを奪われてしまった少女に最後に残された、最愛の家族との繋がり。
・・・・・・・・・・
お父さんが、お母さんが、お姉ちゃんが、
みんな、みんな、みんな、
殺されていく、奪われていく、壊されていく、犯されていく…
逃げて、逃げて、にげて、
たった一人で逃げ続けた、
眠れない日を過ごし続けて、
何かの腐った死肉や泥水で飢えを凌いだ、
立つことすらできなくなって、どれほどの時間を過ごしたのかも忘れた頃、
私に優しい声で、手を伸ばしてくれた…
怖かった、恐ろしかった、憎かった、怒りに震えた、
孤独が、人間たちが、この森の広さが、自分の弱さが、
もう失うことがないように、大切なものを守れるように、
強くなって、強くなって、もっとみんなを守れるように、
そう思って、新しい家族と共に日々を過ごしていた…
その日、私は家族ではなかったのだと知ってしまった、
私に優しく手を伸ばしてくれたその人が、私と決して家族になってはいけないのだと知ってしまった、
私の差し出したその手を握ってくれるものなど、もはやどこにもありはしないのだと知ってしまった、
私は何を守りたいのだろう、
私はどうして強くなりたいのだろう、
守りたいと思っていたものは、守るべきものではなかった、
強くなりたいと願っていた理由は、空虚な何かでしかなくなっていた、
何を思えば良いのかわからなくなっていった、
守りたいものを失っていくほどに、
強くなる理由を失っていくほどに、
私の中から多くのものが消えていく中で、
失われていくものの代わりに燃え盛るかのように、人間への憎しみだけが色濃く浮かび上がっていった、
憎い、憎い、憎い、憎い、憎い、憎い……人間が憎い、
私から家族を奪った人間が憎い、私を孤独にした人間が憎い、私に憎しみだけを残した人間が憎い…
全てを人間のせいにしてしまわなければ、
私に残るのは、空虚な孤独だけになってしまったから、
だから私は、ひたすらに人間への憎しみだけを募らせた、
全部を人間のせいにしてしまえば、そうすれば私は、この空虚な孤独を忘れることができた、
憎まなければ、憎んでいなければ、憎しみを忘れないようにしなければ、憎しみ続けていなければ、
孤独に飲まれてしまう、失ったものの重さに悲鳴を上げてしまう、恐怖で心臓が握りつぶされそうになる…
私はもう、誰かを憎むこと以外に…何も、何も残っていない、
孤独が恐ろしい、自分の弱さが恐ろしい、何も守れないことが恐ろしい、
なんでもいい…なんでも、私の中から、これ以上何も奪わないでくれ、
憎しみしか残っていないというのなら、この憎しみだけでもいい、
もうこれ以上、私から何も、何も奪わないでくれ、
ずっと、ずっと、私の真後ろに、恐怖が迫ってきていた、
恐ろしかった、消えることのない孤独の影が私に迫ってくることが、
恐ろしかった、どれほど人間を憎めばこの恐怖が消えてくれるのかもわからないことが、
恐ろしかった、私の中に僅かに残った残りのすべてを奪っていこうとする何かが、
今度こそ守らなければ、強くならなければ、憎しみの炎を燃やし続けなければ、
憎んで、憎んで、憎んで、憎んで、憎んで、憎んで、
この憎しみだけが、私に残った、最後の……家族の繋がりなのだから……
・・・・・・・・・・
「ハッ、ハッ、ハッ…ガッ、ハッ……ハッ、ハッ、ッ…」
「……うっ…」
「…ッグゥゥゥ、ァァァァッ…!」
「……なに…?」
何か、嫌な夢を見ていたような気がする。
…そもそも、どうして寝ていたのだったか。
思考が混濁としていて、身体が妙にふわふわと揺らいでいる気がする。
なんだったか、この感覚は…痛みや不快感がスッと消えていく、この感覚は…。
そう、あの人間が、私に触れてきた時の…あの人間が……。
人間…!
そうだ、私は、あの人間に受けた借りを返そうとして…腹に槍を受けて…!
致命傷だったはずだ、回避することができず、ましてや受け流すこともできずにもろに受けてしまった。
槍を受けたときの傷は、それに落下したときにどこかに怪我は……いや、何も痛みが、無い。
槍が突き刺さったはずの場所に手で触れて確かめる、どこにも穴が空いていないどころか、身体中に負っていた人間に襲われたときの傷も綺麗に消えてなくなっている。
なんだ、どういうことだ、いったい…いったい、何が起きた?
「ハッ、ハッ、…ァアッ…グゥゥ…」
「なんだ、誰かいるのか……っ!?
…に、人間…!」
「…ゥッ、ァァァ…ォ、ゴァ…ッ…」
私が目覚めたすぐ側に、呻き声を上げて苦しむ、あのあほ人間が横たわっていた。
その表情は苦痛に歪み、左手で片脇腹を力強く握りしめて、死にかけの芋虫のように小さく身を捩っている。
新鮮な血の匂いが鼻腔をくすぐる、よく見ればその握りしめた手の内からとめどなく血が滲み出しているのだろう、身に付けている服はひたすらに血を吸い込み、吸いきれなかった血がそのまま血溜まりとなって体の下に漏れ出している。
虫の息だ、死にかけの人間だ。
人間……私の……私達の、憎しみ…私の敵。
「……人間は…人間は、殺す…殺さなきゃ」
人間なんかに手を貸したのは、所詮はいっときの借りを返しただけに過ぎない。
御主人の命を救ったというから、御主人が感謝していると言うから。
それにこのあほは、よりにもよって私の牙をへし折ったんだ。
そうだ…へし折ったはずなんだ。
私の牙も、私の怪我も…やはり、これは…お前が治したというのか。
なぜだ、コイツは人間なんだ。
私から何もかもを奪って、今もまだ私を苦しめ続ける。
人間なんかに助けられる筋合いはない、どうして人間なんかが助けようとするんだ。
今更、命を救われたからなんだと言うんだ、人間さえ居なければ私はこうはならなかったはずなのに。
そうか、私は…私は、命を救われたのか。
…だから、だからなんだって言うんだ、だからなんだって言うんだ!!
奪い取っていく…人間はいつもそうだ、私から奪い取っていくばかりだ!!
これだけは、これだけは無くしちゃいけないんだ、私の最後の…これだけは…これだけは…!!
どうして私の怪我が治っているのか。
考えるな。
なぜ私はこの人間に手を貸そうと思ってしまったのか。
考えるな。
なぜこの人間は私が負っていたはずの傷をその身に受けて苦しんでいるのか。
考えるな。
なぜ私はこんなやつのために焦っているというんだ、私はいったい何に焦っているっていうんだ。
考えるんじゃない。
「…ッ、ぁ…ぐ、ぃ………ぶ、じ…」
目が合った。
苦痛に歪んだ顔を、精一杯の力を振り絞って閉じられた瞼をこじ開けるようにして、こちらに目線を送ってきた。
「…よ、かった………」
…なんだ、なんだというんだ、その目は。
「……」
…どうした、なぜ動かなくなっているんだ。
「……」
…なんなんだコイツは…なんなんだよ、コイツは。
「……」
…こ、殺さなきゃ…違う、やめろ、死ぬな…違う、トドメを指すんだ、人間を憎んでいるんだから…違う、急いで傷の手当を、薬草を探して…違う、違う、違う…違う違う違う…!!
「…ふ、ふざけるな!!
殺してやる…人間なんか、人間なんか殺してやる!!
借りは返したんだ、もうお前だろうと関係ない!!
殺して…殺して…!!」
「……ぅ…」
「っ!
お、おい…まだ生きてるのか…?
しっかりしろ、か、勝手に死ぬんじゃない…こ、殺さなきゃ、私はお前を殺さなきゃ…」
失うことの恐ろしさが。
胸の内から消えていく家族のぬくもりが。
孤独に震えて恐怖とともに過ごした夜が。
湧き上がってくる、蘇ってくる。
忘れていたはずのものを、人間なんかに重ねてしまう。
「ぐっ、…くそぉっ!」
そう、これは私が人間を殺すために、そのためにすることなんだ。
薬草を探して、傷口を塞いでやって、食料を得て、火を焚いて…。
この人間が目を覚ましたら、そしたら私が殺してやるんだ。
そうだ…だって、私にはもう、これしか残っていないんだから。
・・・・・・・・・・
全身を駆け巡る激痛の濁流が、思考能力を奪い取っていく。
[チャクラ]を使えるからと、油断しすぎていた。
そうだ、[チャクラ]は動かないことが条件なのはもちろん、さらには集中できなければ使えない。
意識が痛みによって霧散しすぎてしまい、[チャクラ]を使おうと意識を一箇所に集めようとしても、すぐにどこかへ消えて無くなってしまう。
自分が横たわっているということしかわからない、自分がどうなっていて、少女がどうなったのかもわからない。
少女は無事なのだろうか、怪我を治せたとしても、この状態から生きていることなんてできるのだろうか。
両脚の感覚がない、右腕の感覚がない、腹が痛みと熱の塊になったかと思えば、今度はどんどん熱を失って痛みだけが取り残されていく。
せめて、せめて少女の無事だけでも確認したい。
薄く瞼を開くと、人影が俺を見下ろしているようだった。
これは、あの少女なのかもしれない。
無事だったんだ、そうか…良かった。
急激に薄れていく意識の中で、俺がやりたかったことっていうのは、結局なんだったのだろうかと思い耽った。
俺には、何ができたのだろう…
誰かを救えたのだろうか…
誰かの役に立てたのだろうか…
誰かが喜んでくれているのだろうか…
俺がやりたかったことっていうのは…一体何なのだろうか…
…あぁ、でも、彼らの…生きることができるという喜びに震えていたのだろう、あのときの涙は…
…たしかにあのとき…おれのむねのなかを…あたたかいなにかで、みたしてくれていた…
『 …… 』
…頭の中がザラザラとしている…
…白なのか黒なのか、明るいのか暗いのか…
…空中を落下しているようでもあるし、水中に沈んでいっているような気もする…
『 …ぃ… 』
…なんだか暖かい気がする、さっきまで暗く冷たい場所に向かっていたような気がしていたのに、俺は今どうなっているのだろうか…
…波の立たない湖に身体を浮かべているような、水面から半分だけ身体を浮かばせているような…
…冷たく冷え切った水の中へ沈むことができたなら、きっと何かが楽になるんじゃないかと思えた…
…水面から上に晒された部分が、熱を持ち、ザリザリとひりつく感覚がして、何か苦しい気がした…
…でも、俺はその熱を手放してはいけない、冷たい水の底へ沈んでいってはいけないような気がした…
…俺はどうなっているんだろうか、この熱はなんなのだろうか…
『 …っかりしろ、おい… 』
…どこかから声が聞こえてくる…
…じわじわと熱が広がっていく…
…水面に浮かんでいたはずの俺の身体は、いつの間にか生臭い草土の上に横たわっていた…
…暗くてよくわからない、全身にじわじわとひりつく熱の感覚が気持ち悪い…
『 しっかりしろ 』
…誰だろう…
…優しい声が聞こえる…
『 あっ…ああ、よかった……よし、とりあえず生きてるな …おい、おい! 目を閉じるな! 』
…何も、何も見えない…
…優しい声が聞こえる気がする…
…なんて言っているんだろうか、何か呼ばれている気がする…
『 しっかりしろ、薬だ、飲め… …口を開け、自分で飲むんだ、おい…おい! 』
…全身に伝わる熱が、徐々に冷めていっているような気がする…
…ひりつく感覚が静まっていくのがやけに心地よく感じる…
…でも、どうしてだろうか…
…俺は、この熱を失ってはいけない気がする…
『 …くそっ、喉に詰まらせるんじゃないぞ………んっ… 』
…何かが口の中に押し込まれた…
…生臭くて、酷い味がする…
…吐き出そうとするが、口元で抑え込まれているのだろうか、次第に喉へと滑り落ちてきてしまう…
…反射的に、喉に滑り落ちてきたそれを飲み込み、胃の中へと押し込んでいく…
…胃の中へ落ちていったそれも、口元を塞ぐなにかも、何か、とても、暖かいような気がした…
『 ……よし、飲み込めているな……もう一度だ、上手く飲み込むんだぞ…… 』
…それから、俺の口には何度も、生臭い何かが押し込まれていった…
…吐き出すこともできず、結局全てを飲み込んでいき、延々と胃の中に収めていった…
…失いかけていた熱が、再びじわじわと全身に広がっていくのを感じた…
…ジクジクと身体の色々なところが痛みだす、熱を取り戻していくほどに、その痛みは増していく…
…熱い、苦しい、痛い。
そうしてしばらくすると、頭の中のザラザラとしたものが、少しずつ晴れていくような感覚がした。
身体を優しく撫でるような、さらさらとそよぐそよ風の冷たさが心地よい。
全身に痛みや疲労感を感じているが、特に痛みが酷いように感じる場所から、湿布か何かを貼っているかのようなスッとした心地よさも感じる。
混濁した意識が回復していくと、次に感じ取ったのは強烈な生臭さだった。
凄まじい臭いに嗅覚が磨り潰されているのを感じ、意識が一気に覚醒し、飛び上がろうとする。
しかし、全身に力が入らず、腕を上げることもできなかったために鼻にこびり付く臭いを振り払う事もできず、身体からその激臭を追い出そうと何度も咳をして空気を吐き出した。
しかし、どうやらその臭いの元は俺自身の体の中から発生していたらしく、咳をするごとに激臭が増していき、刺激の強さに耐えきれず涙と鼻水が溢れ出していく。
なぜ身体が動かせないのか、どうしてこんなに全身が痛むのか、取り戻した意識を手繰り寄せて、なんとか[チャクラ]を使って回復しようと思い至る。
丹田に力を込めて、全身へエネルギーを巡らせる…じわじわと、痛みが引いていく…しかし、同時にイカれた嗅覚も回復してしまったのか、先程までまとわりついていた凄まじい激臭は更にその刺激性を強めたように感じ、回復している途中で集中力が途切れてしまい、中途半端に回復して止まってしまった。
「…ごほっ…えほっ、えほっ……おぇっ、なん…なんだこれ……いや、なんだこれ、くっ…さいっ…」
「…んん……んぅ…」
…うん?
なんだ、なにか聞こえたような気がする。
それに、痛みが和らいだおかげか、何かが近くにいるような熱を感じる。
激臭のせいで涙に目がくらみ、何があるのかよく見えない。
そこにあるものはいったいなんなのだろうかと不思議に思い、それに手を伸ばして確かめることにした。
なんだろう、その黒い塊のような何かはやけにふわふわとしていて、触り心地が良い。
よく見れば、その黒いふわふわの奥にも何かがあるようだった。
こちらは、ぷにぷにと言うか、すべすべと言うか、これはこれで別の意味で触り心地が良い。
いや、まてよ、なんだろうこの感触…なんだか触っちゃいけないもののような気がしてきた。
暖かくて、柔らかくて、なめらかで…いや、これは、まさか…。
グワッと目を見開き、それが何なのかを確かめる。
黒い塊だと思っていたそれは、黒くて長い髪の束。
その奥にある触り心地のよい何かは、うら若き少女の肌。
その正体は、俺の真横でうつ伏せになって寝ているのだと思われる、あの黒狼の少女…ザイラだった。
そして俺が伸ばしていた手の先にあるのは、とても触り心地がよく程よい丸みをしていた、その少女の尻だった。
「…んん…? …んぁ…なに…?」
少女の手が、その少女の尻に添えられていた俺の手を掴み取る。
数瞬の後にバッと上体を起こしたかと思えば、こちらに視線を向けて、驚きに目を丸くしている様子だった。
「……おい」
「……あ…」
「…なんだ、この手」
その指摘を受けて、俺は慌てて手を引こうとした。
しかし、傷が治りきっていなかったためか、伸ばしていた腕にズキリと痛みが走り、反射的にその柔らかい丸みを握りしめてしまった。
まずい。
「…………………ご、ごめん…」
「…………」
その目は、段々と汚物を見るかのようなものに変わっていく。
しばらくじっと見つめ合った後に少女は「はぁ…」と小さくため息を吐き、俺から視線を離してゆっくり立ち上がり、どこかに向かって歩いていった。
どこに行くのかと目で追うと、近くには焚火が用意されており、そこで見覚えのあるあの肉…月影雷鳥の肉がジリジリと火に当てられていた。
いくつか置かれていた肉の串を二本だけ掴み上げ、また俺の元へ歩み寄ってくる。
「…食べれそうか」
「…え、っと」
「…腹は減ってるのか、どうなんだ」
「あ…あぁ…貰っても、いいんです…?」
「…食えるなら、食え」
腹が減っているかと言うと、実のところそんなに減っている様子がなかった。
というより、この世界に来てから、空腹というものを一度も感じた覚えがないような気がする。
それでも、胃の中から込み上げてくるこの激臭を何とかするためには、他のなにかで臭いを上書きしたいところだった。
くれるというのなら遠慮なく貰っておこう、今はとにかくこの臭いを消し去ってくれる何かがほしい。
少女がこちらに向かって歩いてくるときに気がついたのだが、よく見れば少女は全裸だった。
何も隠さずに堂々と肉を持って全裸で歩いてくる少女という異色の光景に、俺の脳は処理しきれなかった。
なので、なぜ全裸なのか、なぜ肉なのか、この激臭はなんなのか、そういう疑問は一旦忘れておくことにする。
二人で横に並んで、黙々と肉に齧りつく。
最初に見たときもなんだか美味しそうだとは思っていたが、実際に口にすると噛めば噛むほど吹き出す旨味に、身体中が喜びで震えあがっているような気さえしてくる。
旨味も凄いが、噛みしめるごとにブチブチという歯切れの良さや、その切り口から吹き出してくる香りと熱が口の中を満たし、肉を胃の中に落としていくごとにどっしりとした満足感を感じられる。
味だけじゃない、飲み込むまでの全てが美味い。
月影雷鳥は貴重だとか良い獲物だとか言っていた気がするが、これは確かに凄い。
気がつけば、結構な大きさがあったはずのその肉の塊を、俺はすっかり平らげてしまっていた。
鼻に纏わりつく激臭も、この肉を食べた後だと清涼感のあるミント系のブレスケア用品を使ったかのような、スッキリとした匂いに感じられてむしろ心地良いくらいだった。
今なら、今度こそ[チャクラ]で回復できるかもしれない。
そう思い、意識を集中する…じわじわと痛みが消えていく、暖かさが身体中に広がっていく…全身に心地よいぬくもりが満ちるのを感じた頃、俺の身体中にひしめいていた痛みはすっかり無くなってしまっていた。
「……ふぅ」
「…おい、怪我はもう平気なのか」
「えっ…怪我……そうか、そういえば俺は、怪我を移して…それですっかり、意識を失ってたのか…?」
「怪我を移して…か。
やっぱり、お前が私の怪我を治したんだな…お前の腹の傷は、私の怪我を治そうとしてそうなったものだったのか?」
腹の傷…そうだ、少女の怪我を[献身なる転身]で癒やした反動で、身体中が爆発したかのような痛みに襲われた。
胴に空いた風穴から血が吹き出すのを止めるために傷口を無理やり握りしめたり、痛みの影響で動かなくなった右腕の代わりに地面に体を押し付けて反対側の穴を塞ごうとしたり…。
そして意識を失って…まてよ、俺はどうやって、あの状態で無事でいられたんだ…?
回復することもできずに、風穴が空いたまま意識を失ったはずだった。
それなら、今頃は出血多量で死んでいるはずだ、だがこうして意識を取り戻し、なんとか無事で居られた…。
ふと気になって、俺の胴に開けられていた風穴があったはずの場所に手を伸ばすと、湿り気を帯びたなにかが貼り付けられていた。
風穴を塞ぐように丁寧に貼り付けられたそれは、草の葉っぱのようなものに見えた。
臭いはなかなかに強烈で、俺の胃から込み上げてきたものとはまた別の刺激臭がする。
だが、不思議と嫌な感じのする臭いというわけではなかった…どちらかと言うと、消毒用の薬だとか臭いがキツめの薬用湿布と言ったような、健康に良さそうな感じの臭いだ。
つまり、意識を取り戻すまでの間に、俺の怪我を診てくれていた誰かが居たということだ。
この場には、俺と少女の二人しか居ない。
なら、俺の怪我を見てくれていたというのは、この少女だったということだ。
「…ありがとう、俺の怪我を診てくれていたみたいで」
「…いや、礼はいらない」
「でも、助けてくれたから…」
「違う」
スッと、少女は片手に武器を握りしめながら立ち上がり、俺を見下ろすようにして鋭い目つきで睨みつけてきた。
さらさらとそよぐ風が、二人の身体を優しく撫でつける。
日の射さぬこの森は、月が輝く夜にはその黒雲が晴れていき、煌々と照らす月光が降り注ぐ。
しかし普段は森の天幕により、その月光すらも地上に降り注ぐことはない。
ゆえにこの森は、月明かりの影を落とす森…「月影森」と呼ばれる。
巨岩の怪物によってこじ開けられた森の天幕の大穴に月光が降り注ぐ。
月明かりが二人を優しく照らし出す。
ギラリとその光を反射する刃の鋭さに、目が眩んで、視界が少し歪んだ。
だからだろうか…鋭い視線を放つその少女の表情は、なぜだか少し…悲しそうに見えた気がした。
◆キャラクター紹介
『フラルダ・オールマン』
種族は人間…より細かく分類するなら古代種というべき存在ではあるが、その事実を知るものは少ない。
理知的なように見えるが剽軽に見えるところも多く、特徴的なのだが掴み所がないというような、独特な雰囲気を醸し出す謎の多い女性。
見た目は年端もいかない幼女と少女の間ほどにも見えるが、実際にはれっきとした成人である…らしい。
帝国騎士団第三軍の魔獣討伐部隊に一時的に席を置いており、彼らの隊に技術長として所属しながら、彼らとは別の目的によって多くの任務に同行している。
その目的は同じ隊に所属する者たちにすら明かされることはなく、第三軍の長である軍団長の「アストライア=アルバ・アーレイア」にすら秘匿されている…しかし、それは公然として許されている。
それもそのはず、フラルダが本来所属しているのは、現皇帝が直々に発足したとされる第八軍…本来であれば参加を余儀なくされるはずの戦争や国事などへの参集を免除され、皇帝の密命だけを遂行するためだけに集められた秘密の軍団…その一員とされているためだ。
秘密の軍団とはいえ、第八軍の存在そのものは公にされているため、それほどに秘密というわけではない…だが、表向きには予備軍として扱われているはずのそれは、内部では皇帝と同等の権力を持って様々な任務に介入する異形の集まり…「裏切り者を探している」とか「何かの実験のために軍を利用している」などと根も葉もない噂が囁かれている程度には、なんのためにいるのかわからないという存在として認識されている。
だが、フラルダはその辺がかなり自由な性格といえばよいのか、「任務以外のことはその場の判断で何をしても良いとされている」と言ってのけたかと思えば、帝国騎士団第三軍の魔獣討伐部隊の環境改善に躍起になって取り組んだ。
任務のために移動型宿泊施設の手配…陸路・空路と別々に用意され、しかもかなりの心地よさで、魔獣討伐部隊の全員にふかふかのベッドが手配されるという超高待遇を実現。
さらに魔道具開発の技術を持つフラルダは、移動先の地では新鮮な水の確保が難しいという問題を解決するために、「魔動浄水器」や「魔動集水器」を独自に開発…魔力の消耗量は多いものの使用すればかなりの新鮮な水を確保することが可能という驚くべき装置を魔獣討伐部隊の備品として提供する。
…などなど、他にも「任務とは関係ないから何をやっても良い」という前口上を置いた上で、次々と魔獣討伐部隊が快適に過ごせるような空間になるように取り組み、それらを実現…いつの間にやら「技術長」という地位を特別にあてられ、それまでは一応何かをするたびに第三軍の軍団長であるアストライアに許可を仰いでいたものの、その必要も無くなったために更に自由に幅を利かせるようになった。
目下、「より美味しいコーヒーを飲むためにはコーヒーを飲むための空間が必要」と言って、コーヒーを楽しむためだけの空間を作る計画を立てている様子…コーヒーを飲まない者にとってはあまり役に立たない施設となるだろうが、実のところ魔獣討伐部隊の隊長が結構なコーヒー好きなので、その完成が待ち遠しい様子。