『始まりの日(5)』
『始まりの日』
全てを話し終えたのだろう父さんは、おもむろに僕たちの目の前に無地の茶色い封筒を投げて寄した。
「当面の生活費だ。そこに百万円ある。お前たちの好きなように使いなさい。とりたてて私は咎めはしない」
締め切った蒸し暑い部屋の中には、いやに大きく外の音が聞こえてきていた。蝉たちは短い命をすり減らすかのようにけたたましく鳴いていて、夏休みに入ったばかりの子供たちの笑い声は無邪気に空へと響いるようだった。
汗が頬を伝うのを感じる。言葉もなく、静かに立ち上がった父さんの顔には何の感情も浮かんでいなかった。
「もう父さんのことを父さんとは呼ばなくていい。私は二度とこの家に戻ってこないだろうからね。もしどこかで顔を合わせるようなことがあっても、父さんなんて呼び方はしないでほしい」
椅子の背もたれにかけておいた上着を身にまといながら、父さんは淡々と話した。聞きながら会社の業務連絡ってこんな感じなのかなって思った。ふと、隣の恵美が僕の服の袖を握っていることに気が付いた。見ると瞳にいっぱいの涙を浮かべた恵美はじっとテーブルの一点を見つめ続けていた。
ズキリと、心臓に刻まれたまだ新しい傷が疼いたような気がした。
ほんの数日前に突然家を飛び出した母さんと、いきなり父さんを辞めて家を出て行くと言い出した父さん。その唐突過ぎる変化に小学生の恵美は困惑し、わけもわからず泣いた。その時の悲痛な面持ちが僕の心臓をじくじくと突き刺していたのだ。
そして今、また恵美は整理できない、もうどうしようもない現状を前に混乱の中でひとり涙を流している。胸が焼けるような想いに駆られて、堪らず僕はぎゅっと固くなった恵美の左手を優しく包み込んだ。びくりと恵美の肩が跳ねる。その瞳が大きく開いた。
出来ることなら今すぐにその小さな背中を抱きしめてあげたいと思った。そうでもしないと恵美は壊れてしまうような気がした。やがて恵美は目を閉じ肩を震えさせ始めた。一層深く、戸惑いと悲しみの渦の中に落ちていってしまったようだった。僕は、心臓にあった傷から真っ赤な鮮血が新たに流れ出て行くのを感じた。
「ねえ父さん。何がいけなかったのかな。僕たちが何か悪いとこしたのかな」
言葉にした声は霞のように弱々しく蒸し暑い部屋の中へと消えていった。恵美の嗚咽が微かに響いている。睨みつけた扉へと向かう父さんの背中は、何も言わずにただじっと立ち尽くしていただけだった。発せられる重々しい威圧感が僕たちに降り注いでいるような気がした。声がそんな背中越しに届く。
「何もお前たちが悪いわけではないよ。もちろん妻も、そして私もね。ただ時期が来てしまったんだ。こんな風に僕たちが出て行かねばならない時期がね」
「そんなの意味分かんないよ」
椅子から立ち上がって、僕は思わず叫んでいた。汗がまた頬を伝っていくのが分かる。テーブルの上に無造作に放り出された百万円が入った封筒が、とてもとても憎らしく思えた。
「こんなもの」
掴みあげて、目の前の黒くて大きい背中に思いっきり投げつける。少しだけ重い音を残して、封筒は床に落ちた。
「いらないよ」
父さんはしばらくじっとそこを動かなかった。でも、何か思い出したのか、それとも何かしらの踏ん切りがついたのか、つけさせたつもりなのか、この家を出ると言い出した時のような唐突さで部屋のドアへと向かって歩き出し始めた。
ドアが開く。一層うるさく夏の空気が部屋の中に流れ込んでくるような気がする。黒い大きな背中を持つ人はそこでもう一度だけ立ち止まった。
「もしお金が足りなくなったら、教えたように銀行でお金をおろしなさい。くれぐれも計画的に生活するように。じゃあお前たち、元気で」
振り向くこともせず、その人は扉の向こう側に消えていってしまった。僕は取り残された部屋の中でただじっと扉を睨むことしか出来なかった。恵美はしとしとと、まるで再び訪れた梅雨のように鳴き続けていた。
(終わり)