『ひとつの朝(3)』『猫のように(3)』
『ひとつの朝』
窓の外の黒が空高く吸い込まれて、次第に薄れ始めていた。重く佇んだままの灰色の雲がぽつりぽつりと姿を現す。近くの国道を運送用なのであろうトラックが騒音を残して去っていった。束の間破られた静寂は、しかしやがてまた綿布に染み込む水のようにしっとりと辺りに広がっていった。そんな閉じた音の繰り返し。
空にカラスの鳴き声が響いた。朝一番に目を覚ます鳥の高らかな目覚めの合図だ。声がきりりと冷えたまだ明けない空の大気を一気に駆け巡る。他の鳥たちが目を覚まし始める。
ほらね、近くで小鳥が目覚めた。
始まった新しい今日を祝福するかのように澄み切った囀りを繰り返し始める。次第に大きく重なっていく音色に、寝ぼけ眼のヒグラシが返事をしてしまった。それにつられたのか他の蝉たちも起きてしまったみたいだ。
そんな朝の音色が開けたままの窓から私に流れ込んでくる。風が届けてくれるのだ。アパートの床に寝転んだまま、閉じたままのレースのカーテン越しに空を見ていた私は、肌を撫でる冷たさにそっと目を閉じた。
空気を肺の中いっぱいに大きく吸い込む。火照り淀んでいた体内が引き締まっていくような気がした。
鳥たちの声や蝉の声はどうやらかなり外気に馴染んできたようだった。清々しさを持って私の耳に届いている。様々な音に包まれた夏の暑い一日も、一つ一つの音が重なって始まるのだと思うと、なんだか新しい発見をしたみたいで少しだけ嬉しくなった。
目を開く。窓の外には、紅く仄かな朝焼けが広がり始めていた。
こんな絶え間ない変化を続けながら、今日もまた日は昇るのだなと妙に感慨深く思った。
再び目を閉じる。夜通し忍んでいた睡魔が思い出したかのように顔を持ち上げた。黄金色に輝く太陽に光を瞼に感じながら、私は深い眠りに沈んでいく。昨日、独り水面の底へ沈んでいった親友はどんなことを思っていたのだろうと、ずっと考え続けていたことが片隅に過ぎった。
瞼が薄っすらと濡れるのを最後に感じて、私の意識は遠く飛んでいってしまった。
(終わり)
★ ☆ ★
『猫のように』
ミケは猫だ。メスの三毛猫だ。まるまると太っているというわけでもなく、かといってがりがりにやせているわけでもない、いたって健康な猫だ。
そんなミケは今私の隣でぴくりとも動かず丸まっている。ソファーに置いてあったクッションを枕に、安らかな寝息を立てている。触ったって起きやしない。時折身体を震わせたり、髭をぴくぴくと動かすことはあるけれど、ぽかぽかと暖かい春の陽気にずっぷりと浸かってしまっているのだ。
気楽でいいなと思った。目を閉じて、周りで起きている様々なことを全部無視して、好きなだけ眠りの中に落ちていく。暗闇の中で、爽やかな風の音と香る緑の匂いとを感じながら深く底へと沈んでいく。羨ましくて、少し妬ましくなった。
開けていた窓から風が吹き込む。カーテンがさわさわと揺れる音がした。目を向けるとカーテンの隙間から覗いた庭に、りんと伸び始めた百合水仙の姿を見つけた。降り注ぐ穏やかな太陽の恵みを、目覚めたばかりの身体で目一杯浴びている。思わず目を細めてしまった。
こんな近くでも力強く生きている命があったのかと、思い知らされた気分になった。毎年のように種を蒔き、水をやり、育ててきていたプランターの花々にもそれぞれの命があったのだ。出来上がった花だけを見ては満足していた自分が少しだけ恥ずかしく思えた。
ミケの身体の上に添えていた掌が、もぞもぞと動くミケを感じた。振り返れば、寝返りを打ったばかりのミケが伸びをしているところだった。
「ミケ」
呼ぶと、少しだけこちらの世界に浮かび上がってきていたミケは薄っすらと目を明けて、細く一度だけ返事をくれた。身体を収まりがいいように調整すると、また幸せそうな表情で夢の中へと潜っていった。羨ましくて、妬ましく思うミケの寝顔だけれど、その滲み出てくる愛くるしさにはどうしても敵わない。自然と頬が緩んでしまうのだ。小さな額を優しく撫でてやる。もごもごと口を動かすと、ミケは満足そうに微笑んだようだった。
目の前の、ガラスのテーブルに置いた時計を見る。アナログ時計の秒針は迷うことなどなく、こちこちと正確に時を進めていた。
死神が私の元にやってくるまであと三十分。
春風が再び部屋の中に吹き込んでくる。穏やかさに私までまどろみの中に溶けていきそうになる。瞼が重くなるのを感じながら、その時が来るまで寝てもいいかもしれないなと思った。
ミケの邪魔にならないようにそっと隣に身体を滑り込ませると、鼻の先にミケの毛が当たってくすぐったかった。鼻腔に広がるミケの匂いと春の空気。どこかで鳥が鳴いたようだった。私はゆっくりと目を閉じると、深い暗闇の底まで潜っていった。
(終わり)