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『水槽の中の凄惨(14)』『夢の話(7』』

『水槽の凄惨』


 傘の端から滴る雨粒を見やりながら、ぼんやりとAのことを思い出していた。ぼってりとした雨雲が空にひしめき合う季節になると、眉間に深い渓谷を刻んで、しきりに舌を打ち鳴らしていたAのことを。

 あの日、いつになく蛙が鳴き喚いていたあの雨の日の帰り道、Aはお腹を内側から突かれているかのような形相を浮かべて、どうしようもないほどに苛立っていた。舌打ちの回数は優に二十回を超えていて、今にも癇癪玉がはち切れてしまいそうだった。

 歩みを共にしていたわたしは気が気ではなかった。狂おしいまでの不快感というものを目の当たりにしたのは初めてのことだったので、どうしたらいいのか、どうしてはいけないのかがわからなくて途方に暮れていた。

 ちらりちらりと、怯えながらAの表情をのぞき見ていたことを、今でもはっきりと思い出せる。息が詰まりそうな沈黙と、傘をたたき続ける雨音、留まることを知らない蛙の合唱とは、今ここにある空間として脳髄に刻み込まれてしまっている。左右の眦が釣り上がり、眉間はもちろんのこと鼻筋にまでしわを寄せたAの容貌は、この世のものではない黒々とした悪意に乗っ取られてしまったかのようだったのだ。十年以上の年月を経てもなお、わたしの足元からは凍りついてしまいそうな怖気が這い上がってくる。

 なんとかしなければならない。少し後ろを歩きながら当時のわたしは窮鼠のような覚悟を決めねばならなかった。早急にAの不快感を発散させなければならない。解放させなければならない。そうでなければ、いつその矛先がわたしに向くかわからなかったものではない。

 梅雨空の下、わたしは口をつぐんだまま歩き続けていた。つかず離れずAとの距離を一定に保ちつつ、不意に先日先生が口にした話の内容を思い出したのだった。

 それは先生が子供の頃に行った遊びの話だった。パン、と弾けるのだというその遊びのことを、ひどいことをしていたものだと、先生は苦笑交じりに語っていた。

 これだ。

 ひらめきを得たわたしは、先をゆくAにおずおずと話しかけてみた。

 ね、ねえ。あのさ、蛙に爆竹を仕込んでみない。

 ピタリと立ち止まったAは、しばらくの間前を向いて立ち尽くしていた。やがてゆっくりと振り返ると、わたしが口にした言葉の意味が掴めないといったような表情で、虚ろな視線を寄越してきた。わたしは意味もなく愛想笑いを浮かべる。しばらく見つめ合った後、沈黙に耐えず、その背中を押し出してしまった。

 よくわからないけどさ、今イライラしているんでしょう。だったらやってみようよ。嫌いな蛙を懲らしめてやろうよ。

 些細な思いつきであったのに。わたしはAの眼の色が変わっていく様をまじまじと見つめなくてはならなくなってしまった。

 それ、いいな。

 ぞっとするほど酷薄な表情を浮かべたAはそう言った。少年のものとは思えないほどに冷え切った声色だった。わたしは思わず鳥肌の立った二の腕を抱いた。ねっとりとした暗黒色の感情が、形をなしてAの背後に立ち込めているかのようだった。

 わたしは今すぐにでもその場から立ち去りたくなっていた。とてつもなく嫌な予感がした。「絶対を破ってしまった後ろめたさ」のような感情が、怒涛のごとく押し寄せてきていて呼吸をするのが苦しかった。

 今なら当時わたしが呑み込まれた感情が何であるかがはっきりとわかる。あれは途方も無いほどに高純度な恐怖だった。生理的本能的な原始の恐怖。それが驚くべきほどの奔流となってわたしに流れこんだのだ。お陰でわたしは、その場からぴくりとも動き出すことができなくなってしまった。Aと向き合ったまま、両足は地面に縫い付けられて、立ち尽くすことしかできなかった。

 にっ、とAは笑う。

 何も言わずに再び前を向くと、歩き出しながらわたしに指示を出した。

 ありったけの蛙を捕まえて公園まで待ってきてくれ。

 口調は穏やかそのもので頼みを聞いてもらうときのそれに近かったものの、その根底には逆らいようのない高圧的な意図が宿っていた。反故にすることなど、できるわけがない。恐怖に支配されたわたしの首はほとんど自動的に頷いていて、わかったと端的な服従の誓いを立ててしまっていた。

 絶対だぞ。

 跳ねるように家路を急いだわたしは、家の玄関に飛び込むやいなや、プラスティック製の小さな水槽を腕に抱え、再び雨の町へと飛び出した。

 蛙を捕まえなければならない。一匹や二匹では足りない。胸に抱えた水槽から溢れんばかりに捕まえなければならなかった。そうでなければ、どうなるかわからない。どこかたがが外れてしまったような様子のAが、何をしでかすともわからない。

 かえるかえるかえる。わたしは死に物狂いで蛙を探し続けていた。大きいものから小さなものまで、見つけたら片っぱしから水槽に突っ込んでいった。かえるかえるかえるかえる。まだ足りない。まだ足りない。全然足りない。

 ただ、恐慌状態にあったわたしは少しだけ運が良かった。Aが指定した公園には小さな溜池とそこに向かって流れる側溝があって、そのため草むらや生垣の中から途切れることなく蛙を見つけることができたのだった。加えて、その年は例年になく蛙が以上発生していた。わたしの右手は次から次へと蛙を捕まえていった。

 十五分くらいで水槽の半分ぐらいが蛙で埋まった。随分な量だった。抱える左手が重たくて辛かったことを覚えている。しかしながら、それでもまだ蛙が足りなかった。こんな量じゃ満足してもらえないと思い込んでいた。

 狂おしいほどの強迫観念だった。ストレスからくる吐き気まで催していたと思う。Aという圧倒的な恐怖に苛まれていたわたしは、グロテスクな体を所狭しと寄せ合った蛙たちの上に、捕まえていたのと同等かそれ以上の蛙を詰め込んでいった。

 それからもう二十分ほど探し続けて、わたしはようやく水槽の蓋を閉じた。見れば、限界まで詰め込まれた蛙が壁面に抑えつけられながらもぞもぞと動いている。腹を向けていたり、背を向けていたり。ある蛙は押し付けた眼球が潰れかかっていたし、最初の方に捉えた蛙にいたっては、底のほうで身動きも取れないまま胃袋を吐き出しているようだった。

 わたしは右手に傘を左手に水槽を抱えたままAが来るのを待っていた。早く公園に来て全てを終わらせてほしいと願う一方で、どうかこのまま絶対に来ないでくださいと望まないわけにはいかなかった。

 雨は途切れることなく傘を叩き続けていた。根こそぎ集めたつもりだったのに、依然として蛙の鳴き声は四方八方から鳴り響き、傘に反射して頭上からも降り注いでいた。

 どれほどの時間立ち尽くしていたのだろう。じっと足元に落としていた視線を持ち上げたわたしは、雨にくすんだ公園の入り口に現れたAの姿を目にすることになった。ドクンと心臓が脈打つ。血流が速くなって、外気が急に寒くなったように感じられた。

 Aはゆっくりとわたしの方へ歩み寄ってきた。手には買い物袋。大きな大人用の傘を差して、これから行う行為にふさわしい服装であるかのような暗い色の服に着替えていた。ただ一点、スカイブルーの長靴だけが場違いに目立っていた。そこだけが異質なまでに邪気がなく、わたしは急にぞっとしなくなった。

 たくさん集めたな。

 Aはわたしが抱えた水槽を見下ろして満足そうに言った。

 十分過ぎるくらいだ。思う存分楽しめる。

 にやりと歪んだ笑みが目の前に広がった。喜んでもらえたから、取り敢えずはほっとすることができたから、わたしも笑顔を返そうと思った。けれど、こちこちに強張った表情筋はぎこちなく伸縮することしかできなくて、声さえ口に出せなかった。

 じゃあ、やるか。

 Aは素っ気なく口にした。わたしは命令を受け取ったロボットのように水槽の蓋を開ける。蛙を一匹取り出すと、彼の右手に手渡した。洗練された無駄のない無機質な動作だったと思う。蛙を受け取った彼は、買い物袋の中から小さなダイナマイトを取り出し、無理やりこじ開けた蛙の口に詰め込んだ。

 がそごそと左手に持った薄いビニール袋を騒がせて、取り出したライターをわたしに差し出す。

 点けてくれ。両手が塞がってて、何も出来やしない。

 わたしはこくんと頷いて彼に従う。ライターを受け取り、石火をジャリジャリならして、揺らめく小さな炎を作り出した。

 やろうか。

 そう、彼は再び口にした。わたしはまたこくんと頷いて、そっと導火線に火を近づけた。

 シュッと小気味いい音が聞こえて、細かな火花が飛び散った。Aはすぐさま蛙を放り投げた。

 口の中に爆弾を放りこまれた蛙は、降り注ぐ雨の中、カタパルトみたいに宙空へ飛び出して、緩やかに下降していきながら、途中で、唐突に、弾けた。

 乾いた音だった。蛙は空中で四散した。緑色の体から、予想もしていないほどの赤をまき散らして、四肢と臓腑をズタズタに引き裂かれた生命は、何の理由もなしに爆散したのだった。

 べちゃり、と砕け散った血肉が地面を穿つ音が聞こえた。前にも増して雨は強く振り続いているのに、その音だけはしっかりと耳まで届いた。

 べちゃり。

 わたしは隣に佇むAに眼を向けた。

 彼は声を上げず、身動ぎもせずに、じっと散り散りになった蛙の残骸を見つめていた。異様なまでに見開かれた瞳孔は、直前まで意思を持っていたはずの残骸を網膜にさんさんと焼き付けているようだった。

 ぽっかりと半開きになった口に微かな笑みを浮かばせていたような気がする。その口元にだけ笑みを浮かべて、Aは食い入るように死体を眺めていた。自らの行為に心から耽溺した怪物のようだった。

 ゆらりとこちらに向き直ったAは、もう一回やろうぜ、と言ってきた。わたしはこくんと頷くと、再び蛙をAに手渡した。それ以外に選択肢がなかったのだ。ライターに火をつけて導火線に近づけた。

 蛙が弾けた。何匹も何匹も爆ぜて死んでいった。殺されたのだ。Aとわたしは殺戮を繰り返していた。雨降る公園が血肉に染まり、地表を覆う水たまりまでもが真っ赤になり始めても、わたしたちは蛙を殺し続けていた。

 途中から爆竹を使うのが面倒になったらしいAは、おもむろに残りが半分前後になった水槽に手を突っ込んだ。そのまま躊躇いもなく手を握る。ぐーぱーぐーぱーと、ハンバーグをこねるかのように蛙たちを握りつぶしていった。

 惨劇にわたしは小さな悲鳴を上げた。抱え込んだ水槽の中で生々しく蠢く蛙たちがいとも簡単に圧死していくのである。Aが右手を開閉するたびに、ぐちゃぐちゃと凄惨な音が鳴り響いた。ぷちぷちと気泡が潰れるような、密に詰まった組織が圧迫されて破裂していく音が断続的に聞こえてきていた。

 わたしは水槽の中の地獄をじっと見下ろしていた。眼を閉じることができなかった。背けることも。かと言って、Aと視線を合わせることも怖かった。Aが目の前にいたから、ただじっと耐え忍ぶことしかできなかったのだ。目撃者として、共犯者として、わたしは蛙が死にゆく様子をありありと見せつけられなければなからかった。

 水槽からは生温かい臭気がねっとりと立ち上ってきていた。時折血肉が勢いよく噴き上げて、わたしの服に付着していった。胃が痙攣を繰り返す。喉の奥から逆流してきた酸っぱいにおいが生臭さと入り交じって、如何ともしがたい臭気を醸しだす。滲んだ涙でわたしの視界は霞み始めていた。鼓膜には、依然としてミンチをこねる水っぽい怪音がこびりついている。

 とうとう堪らなくなって、わたしは水槽を手放してしまった。地面にぶつかって、どろどろに潰された真っ赤な流動物が地面に広がっていく。中にはなんとか生き残っていた蛙が数匹残っていた。彼らは変わり果てた同胞の海から這い出すと、懸命に逃げ延びようと地面を跳ね始めた。

 その一匹一匹を、Aは踏みつぶして回った。何度も何度も足を振りあげて、全体重を掛けて踏み躙った。ぐりぐりと擦りつけられた蛙は、すり鉢にかけられたかのごとく原型を留めない。それが蛙であったという事実さえ蔑ろにしながら、Aはわたしが捕まえた全ての蛙を、一匹残らず殺し尽くしてしまった。

 わたしは公園から逃げ出した。Aのいないところへ行きたかった。走って、走って、全力で走って、全身水浸しになりながら家に帰った。しばらくしていから傘を忘れてきてしまったことを思い出したが、取りに戻ろうなんてことは考えられなかった。

 その日わたしはほとんど一睡もできなかった。雨はなおも振り続いていて、蛙の鳴き声はそこかしこから聞こえてきていた。


 翌日。Aはどこにもいなくなっていた。


 あの日の出来事は、いまでもわたしを縛り付けている。蛙が苦手で仕方が無くなってしまったし、雨が振るたびにあの水槽から沸き立っていたにおいを思い出すようになってしまった。

 けれど、それも当然の報いなのかもしれない。結果としてAに加担し、わたしの蛙を殺しまくったのだから。恨まれて当然なのかもしれない。

 梅雨になるたびに、意味なく奪われる命のことを考える。供養し、謝り続けようと、心に決めている。

 そうでもしなければ、わたしは何時まで経っても悪夢から解放されないのだ。

 傘に遮られた視界の端には、今でもスカイブルーの長靴が立ち続けている。


(おわり)


☆ ★ ☆


『夢の話』


 不思議なんだけど。

 彼女は昼食を食べている途中でそう切り出した。不思議なんだけど、最近よく同じ夢を見てしまっているんだ。

 へえ。どんな夢なんだろう。購買で手に入れたサンドウィッチを飲み下してから、私はそう尋ねてみた。

 変な夢なの。箸を置いた彼女は困ったような悲しんでいるかのような表情を浮かべて力弱く微笑んだ。とっても変な夢でね、いつもいつも、その時間帯に受けなければならない授業に出席できない夢なんだ。

 決まって授業に遅刻してしまった場面から始まるのだというその夢は、確かに奇妙で、意味深な内容を含んでいるかのようだった。彼女には寝過ごしてしまったとか、気分が優れなくて少し体調を気にしていたとかいう具体的な理由があるわけでもなく、出し抜けに授業が始まってしまった学校の廊下を歩かざるを得なくなってしまっているのだという。

 わたしはね、出なければならない授業のノートと教科書と参考書と筆記用具を腕に抱いて、一人ぽっちのまま、惨めな気持ちで、とぼとぼと静かすぎる廊下を歩いているの。恥ずかしさとか後悔は全然ないんだけど、ただひたすらに辛くて苦しくて悲しい気分になってるの。

 それはまた面妖な夢だね。相槌を入れると、彼女はまた萎れかけた向日葵のような笑顔を浮かべた。スーちゃんもそう思う? そりゃね、まあでも、私なら辛くも苦しくも悲しくもならないような気がするな。そうだよね、どうしてわたしは夢の中でそう思ってるんだろうね。

 それは本人にしかわからない問題だ。答えに一番近いはずの彼女がわからないのだから、私になんてわかるはずがない。黙したまま紙パックのジュースを飲み始めると、でもそれだけじゃないんだよね、と彼女が続きを口にした。

 わたしはね、夢の中で、まっすぐ、その時間帯に受けなければならない授業がある教室に向かっているんだ。サボろうとか逃げちゃおうとかいうことを考えもせず、じっとリノリウムの床に眼を落としたまま、脇目もふらずにその教室に向かっているの。それで最終的には目的の教室に辿りつけるんだけどね、こう、ドアをスライドさせてね、びくびくしながらも懸命に勇気を振り絞って視線を上げてみると、時間を飛び越してしまったみたいに、その教室ではもう次の授業が始まってしまっているの。その事実に気がついてしまうの。英語なら英語、化学なら化学。わたしが抱えていたノートや教科書とは全く別物の、わたしとは関係の無い別のクラスの授業が、目の前の教室では開かれてしまっている。

 わたしはね、夢の中ではこれっぽっちもお呼びじゃないみたいなんだ。そう言って彼女は少しだけ俯いた。追いつけないんだよね。何をしても。何があっても。結局どこにも行けないんだ。搾り出すような声は紛れもなく小さな悲鳴だった。

 でも、夢なんでしょ。現実じゃあり得ないことでしょ。私はできるだけ、それがなんでもないことであるかのように口にした。気にすることないよ。気にしないほうがきっといいことであるはずだよ。

 でも、この夢、結構堪えるんだ。暗く沈んだ声で彼女は口にする。いつもみんなに置いていかれてしまうんだもの。どれだけ繰り返しても、どれだけ身がつまされそうになっても、わたしが望む空間には絶対に辿りつけないんだもの。それにね、朝起きると、汗がすごいんだ。ベタベタしてて気味が悪いの。

 堪ったもんじゃないんだ。彼女は諦め卑屈になってしまった敗北者のごとく、いびつに笑った。嘲笑だった。彼女自身はまるで悪くないはずなのに、自分自身のことを嘲り貶して一笑に付したのだった。

 しばらく私はなんと返事をしたらいいかわからず迷った。励ませばいいのか、同情すればいいのか、あるいは突き放してしまったほうが彼女を思いやることに、つまりは優しさになるのかどうか。重たい沈黙が流れこんできて、変に焦ってしまった。残っていたパンをばくばくと食べきる。ジュースを三度口に含んだけど、あまり味がしなかった。

 ちらりと上目遣いに彼女を覗いてみると、箸を手に持って食事を再開していた。動作は緩慢で、なるほど最近妙に元気がなかったのはこの夢があったためなんだと、確かな確証でもって納得することができた。

 紙パックをじゅこじゅこいわせてジュースを飲みきり、私は一言だけ、大変だねと彼女に話しかけた。顔を上げて、うんと頷いた彼女の表情は、内心どこかほっとしているようだった。

 ちょっとだけね。かなり、大変なんだ。そう言って屈託なく砕けた彼女の表情には、今にも崩れ去ってしまいそうな脆い矜持が滲んでいた。

 やっぱり、私は何もできない、できるはずがない。

 その揺るぎない事実をありありと突きつけられて、私は少しだけ鼻の奥がツンとした。

 そうなんだ。うん。ま、あまり気にしすぎないことだよ。スーちゃん、それさっきも言ってたよ。そうとしか言い様がないんだから仕方がないよ。ふふ、それもそうかもしれないね。

 食事を終えて、私は窓際に設置された横に長い業務用のストーブに、彼女はすぐ側の椅子に腰掛けた。私は窓の桟にもたれかかってぼんやりと外の景色を眺めている。ちっとも動かない雲とか誰もいないグラウンドなんかを、頭を空っぽにして見下ろしている。

 きっと隣で彼女は、おしゃべりに興じたり忙しなく教室から出入りしているクラスメイトを見ているんだと思う。ちょっとだけ淋しそうな、羨望の色を帯びた眼差しで、彼らのことを見守っているのだろう。

 でもね、と言って彼女は夢の話を切り上げる際にちょっとだけ付け足しをした。でもね、もう絶対にどんなに願っても足掻いても辿りつけないのだとするのならね、いっそのことそこに辿りつけなくてもいいような気が、最近はするんだ。どこにも行かないまま、この場所に留まったまま私の時間を過ごしていたほうがいいようなね。何かにつけて、今はみんな早過ぎるんだもの。ついて行けなくたって仕方がないと思わない?

 苦笑を浮かべた彼女に、私は何も答えなかった。そんなこと言っていられないよと思いつつも、やんわり苦笑を返しただけだった。

 ぼんやりと窓の外に広がる景色を眺めてみる。グラウンドに動くものは見つからず、ぽっかり空の真ん中に浮かんだ雲は動かないままだった。


(おわり)

うまくいかない

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